底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

日本ではなぜ男性の方が自殺率が高いのか、の仮説

社会的立場は女性の方が弱いとされている。特にメディアでは頻繁にシングルマザーの貧困層を報道している。生きている事が辛い=自殺と考えると、女性の方が自殺率が高くでも不思議ではない。では、なぜ男性の方が自殺を選ぶのだろか。

 

精神的に男性の方が弱いとか、女性の立場が低い=社会で戦っている男性が多い=相対的に自殺率が高くなる、という事は今まで言われてきた事。ただそれらはマクロ視点での話しであって、なんか正論ではあるがイマイチ納得感が無かった。そんな時、先日ふっと思った事があった。それは西野カナの歌をぼーっと聞いていた時だ。

 

「女の子はいつだってかわいくBraBr・・・」

 

的な歌詞があったのだ。

(女の子はかわいく、か。いつまでも可愛くいたい、っていう歌詞もあったなぁ)

と考えた時、これにあたる男性バージョンが無い事に気付いた。男はいつまでもかっこよくいたい、なんて歌詞はない。あるとしたら「男らしく」だろうが、この言葉は女性の「かわいい」という自己愛、自己完結と違い、他人からの評価が大事である点ではむしろストレス、プレッシャーになる言葉だろう。そう考えると女性には沢山そういったポジティブなモノがあるのだ。

アクセサリー

シューズ

バッグ

様々なモノが女性の気分を盛り上げるアイテムとして紹介されたきた。極めつけが化粧だ。あるボランティアが老人ホームで女性に化粧をすると元気になる、としてホーム巡りをしている、というのを聞いた事がある。では、それに該当する男性版はあるだろうか。

そう、男性には趣味嗜好を抜きにした性別だけで汎用的な逃げ場が無いのだ。もしかしたら風俗なは唯一それにあたるかもしれないが、金がかかりすぎるし、人は疲弊すると性欲もなくなるものだ。いや、性欲だけが逃げ場、というのも極端に狭すぎる。

つまり、世の男性は女性に比べて気分をあげる手段が少ない事によって心の逃げ場を無くしがちなのではないだろうか。それによって、女性よりも自殺率が高い。

 

という仮説。どうだろう・・・。

 

学校でいじめられている・ハブられている・うまくやっていけないと感じている小学生・中学生・高校生に。

というタイトルのブログがリツイートされていた。内容は相変わらずのテレビのコメンテーターレベルだったのでそんな内容に感化される子供がいるとは思わないが、とりあえず別の視点からも書いておきたい。(まあ、この内容が他人の目に触れるとも思わないが)。そのブログの内容事に反論。

 

1.無理して学校に行かなくていいと思う

で、どうするのか、ということ。確かに不登校を経験している人で大人になって大成している人は目立つ。しかし、同じく不登校になってそのまま何年も引きこもりになってしまっている人もいる。無理して学校に行け、と言っているのではない。日本は一度挫折すると簡単には戻れない社会システムになっている。同一労働でも大卒と高卒で給料が違う事や離職期間が長いと正社員雇用は絶望的とか等々。無理して学校に行くな、とはそういった社会システム、防波堤の構築を出来るような官僚、政治家を国民としてしっかり選んで、そして社会の雰囲気を変えた時に初めて言える事であり、そういったセーフティーネットがない以上、「無理して学校に行かなくていい」などとは言えないのだ。当時者もそれがわかっているから学校に無理して行っているのだ。

 

2.「大人になったらもっと大変なんだから」は嘘。大人になると断然楽になるよ。私は中学がいちばん大変だったし、今が一番楽しい。

そんな事はない。自殺者の年齢データを見て欲しい。そもそも大変、や辛い、という事は相対的に比較するものではない。本人がとても辛い、と思った時が辛い時。それは年齢は関係無い。様々な世界を見て中年になった私が自分の経験から言わせてもらえば、大人の方が社会的には大変。子供の方が悪意が表面的に現れるので理解もしやすい。大人は見えない悪意を持っている人が多く、そのサイコパス性も自分の立場や家族の為に発揮する人も多くなる。つまり、私利私欲と公共性、会社の利益。これらがごっちゃになるのだ。子供社会ではまず自分本位だけの場合が主なので発想の転換もしやすい。

 

3.勉強は、とにかくしっかりやっておいたほうがいい。

これは賛成。潰しがきくようになるし、脳の発達のためにもいい。

 

4.いじめをする側にもかわいそうな部分はある。あなたは一歩先に少し大人になって、勝手に許してあげよう。

こんなの無理。うつ病になると何の感情もなくなるのだが、いじめられて辛くなるとそれに近い状況になる。他人の事など考える余裕などなくなる。なぜこんな思いをするのか、その理不尽さ。それを理解しなければならないために自分を責めたり。そんな事の繰り返しで自分自身が疲弊していく。そんな中、相手を鑑みる。それが出来る人は所謂他人の上に立つような特殊な能力の持ち主だろう。いじめに屈する事もなく、それを糧にして将来人に話したり、それを売りにするぐらいのタフな精神力の人ぐらいだと思う。本当に苦しんでいる一般の子供にこれは無理すぎる。

 

という事で。自分が恵まれている事に気づかない大人って怖いね、というお話でした。

 

 

 

 

ひっそりとやっているブログですが、それでも極たまに。

アフィリエイトもやっていない。読者を集めようともしていない。だから更新も気が向いた時だし、そもそも公開する必要もないのかもしれない。ただ、ほんの少しだけ、かろうじて生きている事を残しておきたい的な、自身の社会への認知欲求が完全に消えない為にも続けているような本匿名的ブロク。そんな道端の石のような本ブログにも極たまに酷いコメントが入る事がある。書き込む名前からして私を侮辱する名前にして、内容も単なる暴言、というものだ。

 

私がふしぎなのが、なぜそのような言葉を見ず知らずの他人に吐くことが出来るのか、という事だ。私は今ままでの人生で知人にも他人にも所謂そのような暴言を吐いた事がない。だから見ず知らずの他人同士でそのような事を言える、という神経というか、育ちというか、が良くわからない。

まだ、目の前の人(他人)が何かマナー違反や酷い行いをしていて、友人達と「何あの人、ふざけんなよ」とか「死ねばいいのに」と陰口を叩くならまだわかる。とはいえそんな言葉を当人に嘆かけるような事は出来ない。それは反発が怖いとか、言う勇気がないとかではない。単純に生きている人間に、目に見える「点」だけでその人の人間性を全否定するような暴言を吐く事を良しとするような人生を送っていないからだ。

 

まだ公人に対してならわかる。そこには信念や理念による暴言だけではなく、多分にやっかみや妬みが入っており、そういった人間はちょっと探せばリアルでも見つかるからだ。相対的にしか幸せの価値を見出せない人や、何かと勝負、ランキング、評価を基準にするような人に多い傾向がある。ただ、それが一般人に向かうとなると話は別だ。心の動因の多くを占める肝心の嫉みがないからだ。つまり、純粋に、普通に、ご飯を食べつように、「おはよう」を言うように、見ず知らずの他人に人間性を否定するような汚い暴言を吐ける、という事だ。人間なのでそういった人も絶対世の中に存在する。ただ、普通に生活していればそういった人達との接点は本来ない。それがSNS時代になって本来接する事がない人達に対してそのサイコパス性質を振りまくことが出来る世界になった。

 

私は大人なので「死ね」と言われて「じゃあ、死ぬ」とはならないが、それでもそんな言葉を他人から浴びせられるような人生では無かったし、ましてや匿名でIPアドレスでしかトラッキング出来ない他人に初めて言われて時はそれなりに衝撃だった。それにまだ慣れないし、慣れてはいけない、こういった行為は特殊であるという想いは持ち続けようとは思っている。ただ、これがもし精神的にまだ未成熟な人が浴びせられた場合、もしくはそういった匿名個人同士のやり取りを見てしまった場合どうだろうか。ポジティブな言葉として「カリスマ」があり、特別な人に使われていたが、それが多くの読者モデルにも使われるようになって、もはやカリスマは頂点の人に使われる言葉じゃなくなった。そしてその上の階級、「神」が生まれたが、これも一時のカリスマと同じような働きにその言葉の価値を落とした。それと同じように、見ず知らずの他人に対して平気で「クズ」「カス」「死ね」という言葉を見続けたら。本来は一種のサイコパス性質な人だけが他人に使えるような言葉だったのに、その言葉の重みが薄くなり、平気で使えるようになる人が増えてしまったら。受け取る側の気持ちに対する共感性が無くなり(それがサイコパス性質とも言えるが)、平気で他人を直接傷つけても何とも思わない、相手が生きている人間であって、自分と同じ生活をしているという想像もできない人達が増えていくのではないだろうか。もしくは、自分勝手な想像で相手の人間性を全否定して、自らが暴言を吐くことを正当化する、妄想型のサイコパス特性の部分を伸ばしていしまうような人達が増えていってしまうのだはないだろうか。

 

今だに海外の映画では子供(とはいっても大学生以下)が汚い言葉を使うと親が叱るというシーンがある。知り合いの外国人(大人)でも会話中につい汚い言葉(若者言葉的ノリ)を使ってしまった時に冗談っぽく謝られる事がある。汚い言葉を使うという事は少なからず人間性と直結しており、それは行動や思想にも影響をするという事が信じられているからだと思う。まっとうな大人は汚い言葉を使っちゃいけません。自身の表現でも注意されるわけだ。それを一般の他人に吐くなんて本来ありえない事なのだろう。

 

そんな風に日本社会も変わって来ているので、学校でSNSで言葉のいじめがあっても「いじめはなかった」「いじめだと思わなかった」となるのかもしれない。暴言を吐くを方は「マジ神」を連発するのと同じレベルで「カス」「クズ」と言えるのだ。しかし、受け取る、例えば中学生からすれば、まともな家庭に育っていればそんな言葉を人間から直接浴びせられる事などない。まだ自分のアイデンティティーが確立されていない中、そんな自己否定の言葉を浴びせられた場合、ショックは想像に難くない。しかし、そんな事を子供にまでも平気にさせてしまうようなネット社会にしてしまったのは我々大人の責任であり、社会の一員としてその責任は免れない。

 

一部のこういった暴言を平気で吐ける大人とは論理的、理論的に話し合ってもその根本が思想がまったく違う為に分かり合う事が出来ない事は既に経験済み。なので根っからこういう性質な人はとりあえず放っておいて、そういう人が荒らすネットに触れている人達の中で、つい出来心でもそういった言葉を匿名という無責任な立場で他人に浴びせるような行動を絶対にしない強い気持ちを持って欲しい。一度自身の倫理観の枷が外れると、人間とは弱い生き物で、際限が無くなってしまう。というよりも、見ず知らずの他人に匿名で「クズ」「カス」と一生言わないのが教養ある人間として当たり前であり、その経歴に傷を付けてしまうと、自己肯定作用でその行為に合わせて自分の倫理観を捻じ曲げる事になってしまう。

 

ま、綺麗事だけどね。

NHKのバリバラが障害者✕感動という単純図式化に疑問を投げかけた件

まず、NTVの24時間テレビが障害者に何かを頑張らせる企画ばかりになったのはそれを視聴者が求めているからだ。社会に広く受け入れられているから、スポンサーも付く。つまり、日本社会が差別社会であり、同局は儲ける為にそれに応じているだけでもある。そんな中、近年ネットでこの番組を批判する声が増えてきた。理由は2つあるように思える。一つは、障害者で感動を煽る、感動ポルノに対する批判。そしてもう一つはチャリティーと称して出演者が多額のギャラを得ている件。今回は後者は置いておいて、感動ポルノに対して考えてみたい。

 

バリバラは障害者の為の情報バラエティーとしてNHKが2012年にスタート。最近は生きづらさを抱えているマイノリティーも抱え込んで多様性社会を目指している。障害者という当事者が24時間テレビの感動ポルノを批判する事はある意味当たり前であり、やっと公共の電波でそいう事が言えるようになったのは大変素晴らしい事である。ただ、この問題を社会の構成員として自らが当事者として考えている人が多いか、というと疑問が残る。バリバラは障害者自身が扱われる当事者だからこそ、その点に置いて感動ポルノ、と投げかけた。では健常者(何をもって健常とするかは難しいが)は何に対しての当事者であるだろうか。それは24時間テレビのような内容の番組を許すだけではなく、支持するような社会を作ってしまっている、差別社会を作っている当事者である、という事。直後のネット反応を見るとNTVの番組作り不満をただぶつけるような内容が多かった。それは対象として扱われる障害者、バリバラ内ではいい。それに便乗して健常者が自らの不満をぶつけるのは筋が違う。

 

24時間テレビは見ない。なぜなら感動ポルノだから。社会構成員の当時者としてその意味をしっかり理解をしていれば、人間を差別しない多様性の社会を目指すべく筋が通った思想を持っているのだろうか。

後進国の部族の人を東京に招待してびっくりするような番組を面白がっていないだろうか。

LGBTをファッションではなく、本当に受け入れらているだろうか。オネエタレントをゲテモノ的に楽しんでいないだろうか。

ファッションで刺青をしている人をそれだけでDQNと決めつけて見下していないだろうか。

本来は存在しないおバカタレントキャラの人達を本当にバカだと思っていないだろうか。

CMや情報番組で「忙しいママに味方」等紹介や家族が座っている場に母親だけが料理を運んでくるシーンに違和感を感じているだろうか。

逆もある。

東大生、女子高生社長、若手起業家等の肩書だけでその人の人間性まで勝手に素晴らしいと価値付けしていないだろうか。

 

まだまだ沢山あるが、マジョリティー=正義である、という考えの下、少数派を差別する、逆に特別視する。多様性を認めて受け入れる社会。日本が先進国になろうとするのであれば、あらゆる差別に対してしっかり向き合うのが社会の構成員の役目だ。バリバアを見て感動ポルノが問題である、と気付いたのでれば、自らが無意識に差別している事がないか。それを正して多様性社会を目指すよう行動する事こそが、健常者がすべき事なのだ。そこに気付いて行動せずに単純にバリバラの内容だけ、障害者の感動ポルノの問題にだけ集約してNTVを批判するのは障害者を社会の一員として捉えていない、逆差別だ。もう一度言うが、局は大衆が求めている事に応じているだけだ。

 

完全に思想すべてを変える事はそう簡単ではない。それでも表向きは体裁を整えて多様性を求める態度、行動を取る事は出来るはずだ。せっかくの機会。単純に24時間テレビをネットで批判する事で問題が終わる事が無い事を願うばかり。

為末大氏のオリンピックのメダルに対してのツイートが話題になっていたので

話題になっていたのが以下の内容。

<---ここから--->

税金を投入したのにメダルが取れなかったという議論の恐ろしいところは、税金が使われていない人間などいないわけだから、すべての人が税金を使われただけに見合うリターンを国家にもたらしているのかという発想になる。

</----ここまで--->

大体メディアやネットの反応は以下に集約されていると思う。

・オリンピック選手に対する話。予算を受け取る側の責任とか頑張っている人、みたいな

・税金を投入されるリターンが無いと断定される人達との比較。生活保護受給者や肥大化した議員定数など

 

私が違和感を覚えるのは、どれも為末氏が言っている事とズレている事だ。すべての人間が税金を使われただけに見合うリターンがあるべき、という事が真である場合に、税金を投じたのに・・・、という論理が成り立つのであり、それは恐ろしい事だ、と言っているのだ。字面そのまま。しかし、そんな事は絶対にありえない。であれば、金額でリターンを決めるのだろうか?その金額の基準はどのように定めるのだろうか?低投資高リターンがベストなのは言うまでもない。しかし、そんなうまい話ばかりでもない。そうなると現実的に税金を受け取る当事者にそれなりのリターンを求めるという事は土台無理な話、という事になる。これが無理な話にならない、と思っている人はオリンピック選手と生活保護受給者をピンポイントで比較して話すからだ。そんな偏った話ではなく、日本国民の大多数である、一般国民、特に自分を当事者として考える必要がある。

自分に今まで使われてきた税金(間接的な額も含めて)と同額の一般人とくらべて、それに見合うリターンと国家にしてきた、と胸を張って言える人がどれだけいるだろうか。そもそも国家にリターンをしよう、と考えて生きているだろうか。社会に貢献する為に人口を増やし、ダイバーシティ化を目指して日々努力。ただ生きて納税しているだけでも貢献だ、という人もいるかもしれない。しかし、今まで自分に使われて税金と同額の人で高額納税者になった人と比べて国家に対する貢献度は低い。逆に納税額が低くても子沢山の家庭を作っている人の場合、独身の人は多少納税額が高い程度では使われた税金に見合った国家へのリターンという点では弱い。

結局、税金を受け取る当事者の問題にする事は理論的に意味がなく、配分する為政者の問題にすべき事なのだ。そう考えれば、

高齢者に対する多額の税金投入も、長生きした高齢者を批判する意味はなく、金をバラまく政治家を責めるべきであり

生活保護受給者を責める意味はなく、最低労働賃金年収よりも高い保護費のバランスを考えるべきであり(必要なら仕方ない)

メダルを取れなかった選手を責める意味はなく、予算配分に対する効果測定を考えるべきであり

 

つまり、税金に対しては自分自身こそが当事者なのであり、その額の大きさ云々で自分よりも恵まれている、優遇されている、と妬み嫉みで批判したいとしても、それは受け取る当事者に向かうのではなく為政者に向けるべきであり、その結果が選挙でありそれが民主主義なのだから。

 

社会をつくっている根本的な当事者である意識が希薄な人間が多い日本だからこそ起きる話題だなぁ、とつくづく思う。

 

 

 

フランスのトラック突っ込み事件での各国のテロ対策発言について

80人以上が亡くなったフランスの最悪の事件。その後、各国がテロへの対策を強化する、的な発言をしていたのでそれにかなり違和感をもった。

犯人は直前まで宗教色もなく、金も無くなり、妻にも離婚されて酒におぼれて自暴自棄になっていた、との話がある中、それを「テロ」と言ってしまったら日本でおきた秋葉原殺傷事件も同じ「テロ」という事になる。そして、各国がテロ対策をする、という事は。それは物凄く簡単な事。

なるべく貧富の差を無くして、人種、宗教、地域での差別を無くす。これが本当のテロ対策。というか、これしかない。では各国の「テロ対策強化」とはこの事を言っているのだろうか。そうではない。単純に警備強化の事を言っているだけだ。それはテロ対策とは言わない。「テロに対して、警備を強化する」が正しい。つまり、どの国もテロ対策をする気はない、既得権益層はその権利を手放す気もないし、格差を利用して貧困層を作る事になろうとも稼ぐ事は止めない、という事だ。

だからテロを起こそうとする人が生まれる。そんな社会を憎む個人。組織。はじき出されてしまった人々からすれば当然の怒りとも言える。

 

人間とは文化宗教、地域が違えど、歴史的に見ても他の人間を下にする、ヒエラルキーを作る事によって社会を形成してきた。現代は人間が作りし最も完璧な人工物、MONKEYによって貧富の格差はピラミッド型とは言えない程の圧倒的な差を創りだしてしまった。これは人間の進化なのだろうか。それとも退化なのだろうか。どちらにしても、最下層の人々だって人間だ。考え、行動が出来る。テロという形でしかそういった社会には反抗する事が出来ないし、それしか有効な手段はないだろう。国と国が戦争をしたのは様々なリソースを奪いあう為。現代は交易によって奪う必要が無い。なので戦争をするのは効率が悪いから通常の国であればする必要がない。現代の戦争は最下層の人々が自分達を見て見ぬ振りをしている社会に対しての報復としての戦争なのではないだろうか。何かを奪う、という事ではない。奪われ続けた人々の逆襲とも言える。

 

テロ対策。それは人類が次のグローバル社会にむけて、新しい社会を形成しなければならない、いわば進化しなければならない究極の課題なのだ。そしてその事については世界のリーダーと呼ばれるような非政治の世界の人々は気付いており、警鐘を鳴らしているが、政治=経済界である今の世ではなかなか難しい。

自分たちには関係ないと思っている庶民こそ、社会の構成員として真剣に考えないとならない重要な問題だ。テロ対策という問題は。

ドラマ「ラストキス」の永尾まりやとマスカットナイト

最後に必ずキスをするドキュメンタリータッチのドラマ(雰囲気的にはテラスハウス的な感じ)があり、それにAKBを卒業したての永尾まりやが出演していた。AKBGのDDである私からするととても違和感があって見ていられなかった。完全なドラマならなんともない。下手にドキュメンタリーっぽくしているのが問題だ。いったいこの感情はなんだろうか、と思っていたらその番組にゲスト出演していた指原莉乃が別番組で感想を言っていて、一字一句覚えていないが、「多分、私はファンの人を同じ感想だと思う。なんか友達のそういった所を見ている感じで・・・」的な事を言っていた。つまり、とても楽しむ、という感じではない、という事を言葉を選びながら伝えていたのだ。つまり、ある程度相手の人間性(もちろん、ファンは本当の人間性を知っているわけではないが)を知っていると、その人の性的な部分を拒否するわけではないが、それはプライベートで勝手にやってくれ、という感じになり、エンターテイメントとして成り立たないのではないか、という仮説が立つ。

で、題材は変わるが、「マスカットナイト」というTX系の深夜番組がある。ほとんどがAV女優で構成されたグループ、恵比寿マスカッツの番組だ。最近のAV女優は外見がモデルとほぼ変わらない。その中で副キャプテンとして活躍している川上奈々美とかなり美人でぶりっ子キャラの小島みなみのAVを見てみた。

これがまったく性欲として興奮するどころか、むしろ悪いモノを見ている感じになって見ていられないのだ。テレビで頑張っている彼女達の方を先に見てしまった為、その性的な部分が受け入れられないのだ。ん?これは永尾まりやの時と同じ感情なのではないか?

AVの素人モノで冒頭でインタビューがあるものがある。初体験の年齢、相手、場所等の典型的な質問であり、それは見る人間の想像を勝手を掻き立てるプロフィールとしての役割を果たす。ではこのインタビューの所でそういう性的な質問とは関係ない人間性、人となりを表すようなエピソード、体験談など話されたらどうだろうか。もちろん、そんなAVは無い。

つまり、性的な部分とは相手の人間性を認めてしまったら恋愛感情でない限り、容易に踏み込める所ではないという事。極端な例をいうと自分の両親のSEXを想像出来ないし、したくないのと同じ。

ここでもう一つ疑問がわく。冒頭のドラマは永尾まりやの事をまったく知らない人にとっては楽しめるドラマだったのだろうか。いや、まったく演者にファンがいないのであれば起用も無いだろう。つまり、制作する側にこういった感情とは無縁の人がいるという事になる。これが面白い、と思っているのだから。

 

相手の人間性を知った上で性的な興奮を覚えるかどうか、性的な部分を直視出来るか。例えば友達や知り合いのSEXシーンを見たいと思うかどうか。この「ラストキス」というドラマが作られている以上、もしかしたら私や指原莉乃の方がマジョリティーではなく、そんな事は関係なく興味を持って見る事が出来る人々の方が大多数という事なのだろうか。確かに、最近アイドル化しているAV女優の世界ではアイドルと同じく、握手会や撮影会などでファンとの交流イベントがあったりする。そこで素とは言わずとも、AVの中とは違う人間性の部分を見たとしても、ファンはAVを見るわけだ。

 

いったい何が正常で異常なのか。そもそもそんな判定さえも必要ないのかもしれない。ただ、私は人間としてやはり性的な部分に人間性も入れて考えていきたい。それが興奮する材料が減ったとしても。