読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

アムウェイに勧誘されちゃった。久しぶり。

単なる日記

20代の時には結構あったアムウェイの勧誘。久しぶりに会いました。まさかの相手だったのでびっくりしましたけど。

残念なのは私がアムウェイのビジネスモデルを精査できるような人間に彼からは思われていなかった、という事。別にやっている人を否定する気もないが、これだけストイックに自分の人生やり直しで頑張っている人間が、そんな事に乗っかるわけないのに。いや、その惨めな姿が隙となって付け入らせてしまったのかもしれないけど。20代の時に散々様々な人達に勧誘にあって、色々知っているのにね。惨めな世間を知らない中年に見えたのかしら。それであれば私に問題がある。

面白かったのが、クロージングの言葉が20年前と変わらなかった、という事。

「こんな話をするのは人を選ぶ。底辺さんは僕が一緒にやりたいと思ったから。」

「一度栄養成分の話だけでも聞きに来るといいと思いますよ?」

という趣旨の話。ああ、懐かしい!アナタは特別、という認知欲求を満たす言葉。そしてセミナー等で説得の上手く、ダイヤモンドプレーヤー的な人を紹介する事で、夢を見させる手法。変わらない!という事は、これがうまくいっている手法という事ね。

 

もう一度言いますが、別にマルチをやっている人を否定する気は無いのですよ。私が嫌なのは、今から下位の人が大学生の小遣い程儲ける事ぐらいでもかなり厳しい確率であること、しかし、上位グループメンは勧誘だけでも報酬がある等のシステムの根幹の説明をせずに人を勧誘する、というやり方。そして「100人以上断られる」という事を当たり前に思っている神経、つまり100人の少なくとも知人を自分の目的の為に嫌な気持ちさせる、という事。この2つが私の生き方の信条に合わない、というだけ。この信条は自己分析をすると、幼少期から変わらず言動や選択にあらわれているので、単純なマルチへの先入観の独善ではないのです。

とはいえ、私も完全な人間ではない。色々他人に迷惑をかけているし、不義理な事もたくさんあるだろう。でも、それを当然として行う事は違うと思う。その先にあるのが飛躍するが、民族間戦争のようなものだと思う。自分達(グループ)の正義があれば、他グループを排除していい、利用していい、という感覚。それって極めて人間的であり、それはそれで愛おしい存在ではある。

 

まあ、それほど他人から惨めに見える事を嬉しく思うようにしよう。やっとしっかり底辺が身についた、という事だ。

人生やり直しって出来るかもしれない 2017年これから。

何もかも失って、最愛の人にも見捨てられ。自分自身が存在している事が嫌になって酒におぼれてアル中になって。そんな私が立ち直ろうと思ったきっかけは私を手痛くフッた元彼女の結婚&妊娠だった。約10年近く付き合ったが、別れて1年も経っていなかった。その時私が思ったのは

「私は完全の彼女の意識の中から存在が消えた。無になった。」

という事。その切替と前向な姿勢。それこそが彼女の良さであり、私が好きになった部分だった。そして私は長年の付き合いでそんな彼女のいい部分を潰していた事に気付いた。色々な挫折、失敗は私自身の人間性に問題がある。そう思ったのだ。人間性というのは教養である。つまり、体験、経験によって形成される。私は自分の過去を遡った。やはり幼少期からのトラウマというか、心の傷が影響している事に帰着する。では、そういった過去を塗り替えす経験をすれば教養も刷新されるのでは?というのが私の仮説だった。しかし、幼少の頃に戻って甘える人を探すのは単なる精神的な甘えん坊に戻るだけだし、そもそも幼少期まで戻ってしまったら成長するための選択肢を選ぶ人間性まで幼少になってしまう。そこで私は大学生ぐらいをターゲットにした。幸い、大学時代から住んでいる駅は変わっていない。その感覚を取り戻す事が出来るはずだ。

 

20歳から飲んでいて、アル中で浴びるほど飲んでいた酒をきっぱり止めた。もう2年になるだろうか。一滴も飲んでいない。私は酒を飲めない人は人生の半分を損している、と公言していた。しかし、今はそんな事は思っていない。体質的に酒を飲めない人だっていて、そうした人はしっかり楽しい生活だって送っている。私は断酒をしなければその価値観を知ることが出来なかった。

頑張ればおっさんでもそれなりの会社で役職に付けるほどの経歴と実績はあるのだが、あえて肉体労働のバイトをしてみた。今も続行だ。これは大学時代はバイトしていたからだ。今その立場になって再度自分の経験をなぞってみようというのが魂胆。

私は金で金を稼ぐ証券に興味もなければむしろ憎んでもいた。また、金に対しての執着も無かった。実際、サラリーマン現役時代には1000万円を親会社に投資していてその会社が倒産して、0円になった事もあったが、正直実感も無ければ金を失った、とう感覚もなかった。悔しくも無かった。今あの時の1000万円があったらなぁ、と思う事もあるが、まだ損失感は無い。この部分はまだ改善が必要だが、余裕があったら証券で稼ぐ事もやってみよう、と考えが変わってきたのは自分の中で大きい。

完全主義が少しだけ緩いだ。というのも、色々な完全主義、正義感がこじらせの問題の一つでもある、と気づく事が出来た。ずっと最前線を走っていたら気が付かなかったと思う。

他人への寛容さが出来た。底辺生活をすることで人間は自分も含めそんなに変わらない事に気付いた。

課題も多い。

大学時代、ほとんど勉強しなかったのだが、今も勉強がそこまではかどっていない。改善が必要。

他人の感情への共感能力が高まった事によって、善意や悲哀等を感じるだけでなく、自分に関係無い部分への悪意さえも感じる事が出来るようになってしまい、これは結構辛い。

 

底辺生活の始めは自分で思わぬ部分でイラつく事があって、「あ、これがプライドというものか」とびっくりした事もあった。例えば、電話の受答え研修をさせられてダメ出しを受けた時。(俺は100人を超える正社員達を教育してきたのに、24歳のお前にダメ出しを食らうのか?)みたいな。これが無駄なプライド。実際に上手くやろうとして緊張した自分はしっかり出来なかったわけだから。恥ずかしい自分、出来ない自分を隠す為に無駄なプライドというのは生まれ。また私は出来ない人へ寄り添った教育が過去に出来ていなかったなぁ、という事も知れた。そうした無駄な自分潰しと過去の自分の反省を繰り返して、人生で通った教養を刷新していく。

 

年齢という壁はあるけど、そこは今更仕方ない。ただ人間性を変えていく。その為に人生をやり直すということは意外と出来るかもしれない、と今は思っている。

レオナール・フジタと日本のアイドルの恋愛禁止の共通点

単なる日記

私は現在人生やり直し中で社会の最底辺層にいるのだが、すでに上層の世界を知ってしまっているので、ある程度社会を見えてしまっている。社会が見える、というのはそれを構成する人間という存在を知る事でもある。私は孤独な身なので、自分と対社会しか存在しないので、すべての人間(自分も含めて)の醜さを享受せざる負えない。しかし、クリスマスシーズンに1人でトボトボ歩いていた時に等身大くらいのキリスト像横浜赤レンガ倉庫で見た時、ふっとそこに惹かれる心があった。

ん?この気持ちは何だ?

それは、人間作った絶対的なフィクションの存在、神という存在に惹かれる自分の心の弱さ(?)だ。あまりにも人間に絶望し、自分の価値が見いだせない中、生きていないので裏表も汚い部分も詳らかになっている、キリストそのものに、ふっと惹かれてしまったのだ。自分の心が壊れるのであれば、絶対に裏切らない存在、神という偶像にすがって安心感を得たい気持ちはこの時初めてわかった。そして同時にふっと思った。偶像=アイドル。若年層アイドルや幼女や中高生が活躍するアニメにハマる中年にも共通する概念なのではないか、と。つまり、自分の理想、本来で言えば神としての絶対的な存在が現代ではアイドルなのではないか、と。なのでマリアのように純潔で汚れの無い存在である必要性があるのではないか、と。その象徴が恋愛禁止なのではないか、と。

 

そこで思い出したのが日本に絶望した藤田嗣治。彼は日本を捨てレオナール・フジタとしてフランスで亡くなった。その晩年の作品の題材にはキリスト教と子供だらけになる。日本の為に働いたのにその日本に裏切られ。信用して人にも騙されて。私と違うのは彼には彼を理解して最後まで寄り添った立派な妻がいた事だ。だからそんな社会を受け入れる必要はなく、彼女と2人で静かな生活をおくる、という選択肢を選べた。そうなると、絶対的に裏切らない存在、キリストの熱心な信者となる。そして彼の絵の題材には子供が描かれる事になる。

子供。まだ純粋で純潔。生として溢れる生命力の存在でもあり、残酷な面もあるが、それは人間を騙すような狡猾さと違い、人間として純粋なだけ。彼の絵には神と子供、そして邪悪な存在としての空想のバケモノ(多分、人間そのもの)が共存する画もある。

 

つまり、レオナール・フジタにとっての「子供」という存在=日本の多くのヲタにとっての「アイドル」なのではないだろうか。そして、恋愛禁止というのは恋愛には性行為が付き物であり、性行為をする=大人、つまり自分達と同じ不純で汚れた存在になってしまう、という事になってしまうのではないだろうか。だから処女厨というのがどうしても存在してしまう。一度性行為をしてしまったら、現在彼氏がいなくてもその子は大人であり、自分が知っている社会の一部。レオナール・フジタが書くような存在でも無くなってしまっている。なるほど、現代のアイドルというのはそれだけの重責を背負っているかもしれない。そしてアイドルが人間であり、その裏切り(偶像から人間への変遷)に耐えられない人達はアニメという、神と同じように裏表の無い本当の偶像へと自らの心の拠り所を移す。

 

ただ無理があるのが、キリストのように完全書面のような存在であるアニメと違って、アイドルも同じ人間である、という事。ただでさえ外見が一般人よりも優れており、同じく、外見が優れた男性達も多い。金と権力を持ったおっさんも当たり前にいる。一般社会、例えば高校、大学で外見物凄く良くて本人も自信満々な男性が女性に一切手を出さないという事例があるだろうか。日本で数台しかない外車を乗り回すおっさんのツーシーターの助手席に若いモデルのような女性が座っているシーンは東京の深夜のとある場所では頻繁に見かける。つまり、アイドルはむしろ一般人よりもガンガン性行為をしている、と考える方が普通であり、恋愛禁止という考え方はかなり無理な事なのだ。そして、ヲタ達もその当たり前の事実に気づき初め、アニメへ流れたり、ヲタ卒をしたりしてしまったり。業界的にはレオナール・フジタが画の題材を子供にしたように、アイドルを若年化して小学生、中学生にして、「さすがにこれなら例え恋愛をしようが、性行為までは至っていないだろう」というイメージにしつつある。アイドル達もそれに応えるように、成長期なのにガリガリに痩せて性のイメージを消している。

どう考えても異常だ。人間として当たり前の行為、性行為の否定=精神も肉体も純潔な偶像、というのは聖母マリアだから成り立つ話であり、それを実際に人間に当てはめる事は無理だ。そしてこの考え方は実はアイドル以外にも当てはまり、自身の生活に関係する法律の問題、国際情勢よりも日本の人々の感心事は不倫問題だったりする。これは歴史的に見ても夫婦間よりもその他大勢との性行為が男女とも承認されていた日本人が現代の一夫一婦制になった所で、まだ歴史は浅く、だから諸外国のように愛し合う行為のとしての性行為よりも、快楽としての行為としての認識が根強い事から起きている固定概念、一種のパラダイムなのかもしれない。

 

面白いのがそこに一石を投じるのが、指原莉乃という存在かもしれない。男性とのスキャンダル、しかも相手はファンの男性というおまけ付き。そんな彼女が400名以上いるAKBGの中で3回も総選挙で1位になり、現在もテレビ出演数は上位に入る。組織票があろうがなかろうが、取り敢えず人気があることは間違いない。純粋なアイドル像から進化した存在。ただ、彼女の後が続かない。グラビアアイドルという肉感がある職業なのに、彼氏の話を平気でするおのののか等もファンにがっつりハマった感ではないと思う。

 

結局、日本人の庶民の心が豊かにならない限りこの状況、恋愛禁止は続いてしまう、という事になる。キリスト教が世界普及活動をする際に、虐げられている層や、金はあるが人間関係で孤独で疑心暗鬼な権力層を掴む事から始めたのと同じだ。何かにすがりたい。自分を裏切らない何か、に。極論言えば対象は何でもいい。

 

日本が生んだアイドル文化。それはレオナール・フジタが愛した子供達のように純潔な存在として現代で心が疲れた人達をひきつけ、それは海外にも波及している。

 

そんな事を府中美術館でのレオナール・フジタ展を見ていて思ったのでした。

小池都知事と東京オリンピック問題でわかる、日本にジャーナリズムが無い事

結局当初の案に落ち着いた東京オリンピックの巨大施設群。長野オリンピックの例を見ても、今の少高齢化が止まらず、なおかつその少ない子供達の為の保育園設立さえも住民反対運動が起きる東京で、新設のスポーツ施設など負の遺産にしかならい、どうしようもない負のレガシーを将来に残す事であるのは普通の大人が少し真面目に考えれば誰もがわかる事。しかし、自分に直接関係無い事に無関心、社会がどうなろうが知ったことではない、というのは戦前も今も変わらない日本人の特性というか、アメリカとは違った、あるいみ個人主義が特化した形であるというか。そうなってしまったのはもちろん、今回の件でも庶民、一般人がしっかり考えて行動する事をしないからで。特に今回の巨大施設群は建築費が問題なのではなく、膨れ上がった必要の無い無駄な税金による費用が何階層にもなった企業達に分配される事であり、それに群がる権力者達の法律すれすれの問題であり、利益供与を受ける大広告会社やその関連会社等の癒着であり、そういった都民の税金を喰物にするドミナントである。

 

それを暴くのは小池都知事の役割ではない。もちろん、どちら側に付くか等の政治的駆け引きがあった上である事は前提で、既存の流れにストップをかけて今までアンタッチャブルであった税金を喰物にするドミナントの動きを一旦止めた。その後は本来ジャーナリスト、メディアの仕事だ。なぜこれほど巨額な費用に膨れ上がったのか。電通とオリンピック招致委員会との繋がり。どれだけの会社が絡んでいるのか。ラグビー森喜朗の関係、そこにどれだけの金が動いているか。そういった事を次々と暴き、連日報じて権力をしっかり監視して都民、国民の目を覚まさせるのが本来メディアの仕事である。しかし、今回の日本はどうだ。

終始、メディアは小池都知事の発言や行動をそのまま追うだけ。せっかく調査する時間をもらえたのに、権力側にメスを入れようとするメディアはまったくなかった。これは戦中の日本と全然変わらない。これでは日々自分の事で精一杯な庶民の民度が上がるわけがない。何度も書いているが、これは東京裁判が途中で終わってB級、C級戦犯への訴求がない事で、国民を騙していたメディア達、経営者達、その関係者達がそのまま残って権力を握っているまま現代まで続いている事も大きい。アメリカが与えてくれたせっかくの自浄機会も日本国民は放置してしまった。

東京オリンピックも似たような感じ。都民発信で日本の規程路線の税金を喰物にしてきた闇の部分にストップをかける事ができるチャンスだった。消費税が上がってもちっとも直接国民の生活がよくならないどころか、社会保障は減る一方。しかし税金の入金は増えている中、その金が一部のドミナントに流れる事を平気で許してしまう日本人の豊かさというか。バカさというか。

世界は国際化が進んでいる中、社会はずっと第2次大戦中と変わらない日本はある意味すごい。貧困層が増えすぎてポピュリズム化が進む国に比べればやはりまだ豊かな国ではあるのだろう。だがそれもそろそろやばくなっている。貧困層は恐ろしいスピードで増え、少子高齢化社会の社会負担は現役世代が働く意味を無くす程の税金徴収率になりつつある。

 

さて、とはいったものの・・・。目の前の事を社会として考える事さえも出来ない大人が多い日本で将来なんて難し話よね。

貧困はバカだから、なのか。

まず、バカの定義が難しい。「バカ」と「じゃない」とを比較すると。

学校の勉強が出来た人を「じゃない」とすると。

中卒だからと言って事業で成功出来ないわけじゃない。いやいや、事業で成功する特殊な人を例にとって話すのは統計学的におかしい、という話しにもなるが、そもそも事業で大成功する事の方が珍しく、会社とは倒産する方が多いわけなのだから、起業をする人=「じゃない」よりも成功の確立を考えると「バカ」に入るのか?それとも確立論的には成功が宝くじやFXよりも遥かに高いと考えれば「じゃない」に入るのか。

 

多様な意見を取り入れる視野の広い人間性を「じゃない」と考えるか。

確かに、低所得者ほど社会的視野が狭いばっかりに他人に暴言を吐き、人を見下げる傾向がある。これは他人の事を考える事が出来ない、つまり性格にサイコパス性がある事を示唆している。ただ、アメリカある機関の調査によると、歴代の成功者、現代においても社会的成功者にはこのサイコパス性を備えていた、いるともいう。つまり、心を痛めずに時に他人を切り捨てる力が社会的成功には必要とも言えるのだ。確かに、「

貧困なのはバカ」と言っている人は彼の価値観での「バカ」というクラスターを人達を切り捨てている。その彼は社会的にも経済的にも成功している。

 

では、貧困になってしまう「バカ」とはなんなのだろうか。そもそも貧困になる状態とはなんだろうか。

最近話題になっているシングルマザー貧困はどうだろうか。単純に彼女たちを「バカ」と言う事は出来ない。保育所が足りない問題、子持ちシングル女性の雇用を避ける企業の問題等色々外部要因もある。これを母親個人にフォーカスしてみると、シングルで成功しているマザーの場合、そもそも経済的に自立している状態での離婚があって、でない方は自立もしておらず、職歴も浅い(職能の無い)状態での離婚がある。では、後者が「バカ」にあたるのか。ここまでくると恋愛観、結婚感だけでなく、生き方の問題になってくる。それでは、その本人の生き方を決める部分はどこに成るのだろうか。それは家庭環境が一番大きい。この事はデータで証明されており、ざっくり言うと親の貧困が子供にも影響する、という部分だ。ハーバード大の学生の多くはアメリカの富裕層の子供達であるし、慶応大学生もお金持ちが多い。統計データなので、この「多い」というのがポイントであり、貧困層から抜け出した人達だっている。それは人間とい生物の可能性であり、それを全体に押しハメて「個人の努力次第」と語るのはあまりにも客観的じゃないし、理論的でも無い。

 

さて、そうなると貧困=バカ=個人の責任、とは簡単には言えないのだ。教養とは一長一短で身につくものではなく、海外に生まれて住んでいた日本人が自然にその国の言葉を喋るのと同じで、その語学力と同じで、生きていくだけで身についた教養と、その後の猛勉強で身につけた教養というのがある。裸一貫で経済的な大成功を収めた人も、子供の頃だったりに、何かの青天の霹靂的な出来事が外部からあって、それによってビジネスに目覚めている。それも所謂教養だ。

 

そうなると、「バカ」のカテゴリーになってしまった人達はどうしたらいいのだろうか。また、そんカテゴリーに入らない為には。具体的に株をやれ、とか企業しろ、という事ではない事がわかるだろう。まず、積み重なった教養による「バカ」の部分を変えないとならないわけだから、その教養自体をリセットしないとならない。パソコンを覚えてタイピングの職をゲット、という単なる労働者としての生き方を目標にするような発想の人になるか、プログラミングにまで手を広げて自らの単価をあげる、もしくは起業まで見据えるような人になるか、の境目がここにある。

 

そして、ここですべてを全否定するのだが、こういった事を考えて実行する事自体、教養であり、大人になるとその積み重なった人間性簡単に変える事が出来ない部分であり、そして貧困から抜け出せない部分でもある。

 

結論。貧困はバカなのではなく、多くは生き方そのものが反映されてしまう事態であり、本来そうならないように子供には等しくチャンスを与えるのが社会であり、学校の存在であるべきなのだ。

アメリカの一部のリーダー達はその事に気付いてまずは教育チャンスや人間の多様性に投資をしている。これは倫理観だけではなく、その事によって今の一部の特権階級が儲かる資本主義社会よりも、経済が更に発展し、結果的に自分たちも住みやすい社会になる、という広い視野に基づいた結論だ。最大幸福拡大への追求とも言える。

 

まあ、難しいね。

豊洲移転とオリンピック費用とか。色々ある東京。

単なる日記

日本のテレビや新聞を信じてしまう人は政治家は滅私で政を行う存在だと思っているのではないだろうか。実は政治家には正体がある。それは・・・。

 

我々と同じ人間

 

という事だ。なので、強くもあるが弱い部分もあり、醜い部分もある。そして彼らは支持票が無ければただの無職者になるという中、支持者の為に働く面はかなり強い。また、筋を通す為にその筋の方々に貢物(金や利権)をする事もある。前石原都知事が作った新銀行東京の金はいったい最終的に何処に流れているか。あれだけの赤字を垂れ流しても融資を続ける事など銀行業とは言えない。しかし、そういった合法的に金をある筋に流し続ける事で歌舞伎町の再開発で土建屋や不動産業者が儲ける流れが出来る。

 

さて、小池百合子東京都知事だ。自民党から離れて出馬し、圧倒的な民衆の支持がある以上、本来は流れは小池新党を作って東京で与党になる事だ。しかし、戦後の混乱期からずっと首都を支配してきた輩、魑魅魍魎共が簡単にそんな事を許すわけがない。ぶっちゃけ、彼らは自民党であろうが何であろうが関係ない。権力を自由に出来ればいいわけだから。政治的理念など関係ないのだ。

小池百合子都知事はどうやって金を彼らに流すだろうか。この手腕によって一気に情勢は変わる。東京を支配している妖怪達からすれば自分たちをどれだけ重く見ているか、がはっきりわかるからだ。そして考えた手が豊洲移転一旦停止&オリンピック費用見直しだ。これによって違約金等、労働無き(原価無き)資金流出が出来、また、表面的に自民議員が儲けを掠め取りたかった癒着業者も切る事or査定(どちらに付くか)が出来る。表面的な数億の削減など、土建屋の階層値段(9階層以上ある下請け流し)をなんとかすればいいだけの話しで、根本の問題解決になどなっていないのだから。小さく、効率よく行ったイギリスのオリンピックと違って巨額の都民と国庫予算を無駄に流し、オリンピック後も垂れ流す、という本来の問題をマスメディアを使う事で、うまくごまかす事に成功している。

 

ああ、うまいな。さすが大臣にまでなった政治家だ。

 

そんな見方で政治を見ていない私でも、気付かない人々を見下してしたり顔で政治批判を繰り返す気なんて毛頭無い。なぜなら私も同じく弱い人間だからだ。時に大きな流れに乗らないとならない時もある。その中で出来るたった一歩を踏む事さえも阻まれる事もある。それでも生きていく。

だから庶民こそ、政治、社会を自らの問題と考えて行動しないとならないわけ。自分と家族、友人だけが得すればいい、は跋扈する魔神達だけで十分。多数派である庶民はそんな本音を持ちつつも、自らが所属する社会の事も考えて行動し団結しないと、弱い立場になった時にあっという間に食べられてしまう。バランスだ。

 

なんて事を考えている昨今。

過労で自殺するぐらいなら会社辞めれば?に対する反論がちょっと話題なった件

ちょっと人間の精神に見識がある人であれば、過労の末に自殺を選ぶ人に心理はわかりものであり、そこに「自殺するぐらいなら辞めればいいのに」なんて言えるものではない。それがなぜか、というのは多くの人が説明してくれているのでここでは省略して、今回問題にしたいのは、そういった自殺に追い込まれる人がなぜか、という説明があっても、まだ「それでも辞めろ、と言わせてもらう」という人がまだいること。これは学校でいじめにあったら「学校に行かなくてもいいんだよ」発言をする人と似ていようでちょっと違う。

 

まず、現実を直視して受け止め、そして分析して解を出す。そういう当たり前の工程が出来てない。というも、既に自殺してしまっているからだ。その現実に対して、「辞めればいいのに」は選択肢として選ばれなかった、という事。その事実がどうして起きたのか。これが問題を解決する能力であり、心理学を勉強していなくても、共感能力の無いちょっと低レベルの人間性であっても関係無いのだ。

そうなると、未だに「辞めればいいのに」発言をする人は

①幅広い人間の心理に疎い

②共感能力がない

③問題解決能力がない

人になる。それはつまり一般社会生活でかなりの問題児の可能性が湧いてくる。では果たしてそうだろうか。

実はこの発言をする人で誰もが知っている一流会社の社員、ベンチャー企業創業者を知っている。もちろん、同時に社会の最下層労働者も知っている。つまり、①~③すべてを兼ね備えて、社会の最下層にいる人達は最も想像しやすいが、社会的に成功している人の中にもザラにこうした人がいるという事実。実際、電通ほどの入社が難しい一流会社でも過労死が起きるということは、それを生む土壌があるという事にもなる。しかし、電通社員が①~③を備えていない、とは思えないし、実際に私が仕事をした事がある電通社員はもちろん、問題のある人もいるが概ね仕事面では優秀な人が多かった。

 

これは近年では「サイコパス性」といわれるところで、犯罪者としての完全なサイコパスではなく、一般人よりもある部分でサイコパス性を持っている人の方が社会では成功しやすいのだ。そのバイアスが自殺の回避行動=辞任しか思いつかない結果になってしまうのだ。なぜなら自分がそう出来るし、それ以外の選択肢を取る人間の存在を考える事が出来ないからだ(だからこそ、知らない内に加害者になっている事も多い)。こういった人達は年収もいいので、都内一等地に家を持ち、美人の妻と子供は私立というパターンも多い。所謂日本社会の成功者だ。

 

ネット上だけだと、いかにも生きている社会の狭い、低階層の人達が暴言を吐いているように思える。しかし、現実はそうではない。社会上流と下流が発想の根本は違う(サイコパス性によるバイアスと単純に見識が狭い人間性等)のに、表面は同じ表現になってしまう。これが日本の労働環境だけにとどまらず、あらゆる社会環境が改善しにくい世論を形成してしまう根深い問題点であると思う。為政者側に対抗するべき弱者が表面上同じ事をしてしまうわけだから。いわゆる、更に弱者を叩く、という奴だ。もしくは無視。

 

日本独特かと思えば実はそうでもない。人間とは元々そういう卑近で卑劣な存在なのかもしれない。そう考えて準備をしてもそれを上回る事が生まれるから厄介であるが、それが人間という存在のいい方でも悪い方でも創造性溢れる所。

 

強さを手に入れ、強くあり続ける為には何が出来るのか。一生自分に問い続けて努力を続ける事でしかこの人間社会の負の連鎖から逃れる手段は無いのかもしれない。