底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

逃げればいい、について

いじめ等の学校問題については去年の9月に。会社関係は同じく11月に「無責任だ」と書いたのだが、何のアクセスも無かったのに、なんか別の人が書いた同じような内容のはてブロが話題になっているようで。

さすが、弱小ブログ。誰も見ていないぶりが半端ない。そういえば昔、話題になった単語ですぐブログを書いても検索に引っかからなかったので、グーグルAIに内容が価値がない、と判断されてしまっているんだろうなぁ・・・。まあ、見てもらう工夫もしていないしね。ざ~っと一気に書いて見直さない方式をとっているから、結構支離滅裂だったり、誤字脱字もあったりするしね。

 

あれから約半年たったけど考えは変わりません。追い詰められている弱者に物言う前に、そのような社会が当たり前にならない為には個人として何が出来るのだろうか、その物事自体の問題(いじめやパワハラ等)に直接アプローチする、という事じゃなくて、例えば、自身の言動、信条等で見ず知らずの他人の尊厳を傷つけている事がないだろうか、とか、社会のシステムで当たり前のように思っている、公共機関でも存在する年齢制限を疑ってみるとか。そういう、他人を尊重する事が出来る社会作りができる為には自分としてはどんな事が出来るか。

自殺を選んでしまった人に届かない、「逃げればいいのに」なんて言う前に、人が人を合法的に殺してしまう社会に自身が手を貸している部分が無いかどうか。例え社会が悪だとしても、それが自分が悪になっていい理由にはならない。

 

それでも人は弱いから。間違える事もあるし。他人を傷つける事もある。それでも自分が悪にならない為に。

強くありたいものです。

ニュースしか会話相手がいない中年達

友達も彼女いない、もしくは話し相手のいない人達がヤフー等のニュースのコメント欄で批判的な意見を書く、って有吉弘行氏がラジオで言っていたそうです。あれだけ芸能界のトップにいて通常のサラリーマンでは達成出来ない年収を稼ぐ人間がそこまで社会の事に精通しているのは驚きです。むしろ一流企業と言われるPR部門、マーケティング部門の人達でもそんな事を知らない、理解出来ない人達、結構知っています。

 

ただ、「ニュース」しか会話相手がない人達と、結婚していて子供がいてもツイッター

・今から幕張!

・今週末は◯◯イベント!

とだけ書く一般人の多さ。またインスタ等にも上げる為の写真をどこでもいつでもせっせと撮り貯める人達の多さたるや。

すべては認知欲求から来る行動であって、そこの内容に上下を決める必要は無くて。ニュースに批判的に絡む人と。

USJに皆で行ってきました!とインスタで上げる人。

どちらも承認欲求、認知欲求に大差はありません。日本のSNS利用率は世界トップクラスであり、他人に認められる事、知ってもらう事をそれが仕事の芸能人以外の一般人でも強く持っている国民である、という事。逆に言えば個人が自信を持てない社会、社会が個人を否定する社会とも言えます。

面白い例として「マツコ有吉の怒り新党」で有吉が言っていた事。

日本の銭湯で

・入れ墨のチェックはめちゃくちゃ厳しい→社会による個人の抹殺

・更衣室等でスマホ操作は禁止事項のみ→盗撮による個人の実害の大きさは入れ墨の比ではない。社会の個人の軽視。

そうした日本人の特性を知った上で庶民を操作して自らの価値を上げようとするメディアで活躍するジャーナリスト、起業家等も日本では非常に多い。ジャーナリズムが無い日本、つまりスポンサーの意向重視のマスメディアを主戦場にするジャーナリストはジャーナリストではなく、アイドルと同じく芸能人(肩書、ジャーナリスト)と同じ。

それでもニュースしか会話相手がいない人はそんな人達を自らの意見の代弁者としてリーダー視する事で自らの承認欲求を満たす。

 

なんか寂しいね。日本人。日本社会。

マツコやりゅうちぇるみたいのがキワモノとしてテレビに出るのではなくて、普通に日常に居る風景になるといいのにね。入れ墨をしている人、外国人が側に居る事さえも普通じゃない人が多い閉鎖された国だからまだ先の話しか。

 

「主人」や「嫁」という言葉は賞味期限 川上未映子さんの話しによくある日本人的反論

フェミニストと公言している川上未映子の表題の件について、よくある日本人的反論として

・そうした言葉は言葉通りに使っているわけじゃなくて記号程度なのに何を言っているのか

・嫌なら使うな

というのがある。なるほど、これが2016年男女平等ランキングで111位の国の国民の発想というものだ。

「主人」「嫁」というのはあくまでも「点」の話しであり、彼女が言っているのは男性と女性のロールわけが暗黙の了解でされている日本社会の現実、そこのバイアスからの開放の話しをしているわけだ。その事を論じると果てしない文章量になるし、それなりのエビデンスのデータも必要になる。そうではなく、議論の一石を投じる形での象徴としてこの「主人」という言葉が引き合いに出されたにすぎない。この発言で本来考えないとならないのは何がそうさせているか、という現実の直視だ。男女が平等にならないバイアスを本当から皆開放されているだろうか。例えば、

・CMで食卓に夫子供、母親が料理を持ってくるシーンの多さ

プレミアムフライデーのニュースで「早く帰ってくる夫について」という街頭インタビュー

・アンカーが男性でそれを囲むように若いスタイルのいい女性群で作られている情報番組

・老人のコメンテーター達が爺さんばかり

これらを述べる時にフェミニストが一つ一つ「点」で議論する必要はない。表現の件と同じ、あくまでも規制事実としての話。しかし、反論者はまた同じくこの「点」について突っ込んでくるだろう。

 

日本人は自分たちが作り出している「圧力的空気感」に意外と無頓着な人が多い。政治家が「それは秘書が勝手にやった事」と逃げる事があるが、これの社会版と考えるとわかりやすいかもしれない。確かに、政治家は具体的に秘書にヤバイ指示の証拠など残さない。しかし、

(これが解決すれば私は助かるのになぁ。それに貢献した人は第一秘書として次の選挙で公認立候補として考えてもいいのになぁ。いや、結果が出たら確約しよう)

という空気を醸し出す。頭のいい人ならその「空気」を呼んで行動する。それが公職選挙法違法スレスレであろうとも。これと同じような空気感で男女の性差による差別が生じているのが今の日本社会。

 

昔、男女平等に近い評価のあるリクルートで働いていた人でそうした発想がある人だと思っていた上司が「でもやっぱりお茶は女性が煎れたほうがおいしい」と会社で女性にお茶出しをさせていた時はびっくりした。それ以外の多くは比較的平等的扱いが多い人だったのに。つまりそういう事だ。「主人」という言葉の「点」の話しではない。ありとあらゆる場面で性差を差別せずに考えている、信念を持って日本社会のバイアスにはとらわれていない、と断言出来る人だけがフェミニストの人達としっかり議論が出来るのだ。先に述べた通り、日本社会では性差別が当たり前のようになされている。先に紹介したCMなどの例を他の先進国で流したら「女性蔑視だ」と不買運動が起きてもおかしくない。「おかあさんの愛情です」なんてCM流したら大変な事になる。視野の狭い日本人の多くは「いやいや、母親の愛情ってあるでしょ?それを感じる人をターゲットにしたCMなんだからいいんじゃん?嫌なら買わなきゃいいんだから」と言うだろう。そういう軸の議論じゃない事が理解出来ていない。

 

社会をしっかり考えて理想的な社会を考える人達と「それは個人の捉え方でしょ?」と人間の行動思考バイアス、他への影響、相対的自己価値などの認知行動、社会学などを一切無視してなぜか社会に存在する人間をそこだけスタンドアロンのPCのように言う大人を気取る人達。ここの間はなかなか埋まりそうにない。

喫煙は店面積に関係無いという事が理解出来ない日本人

喫煙者の喫煙の権利を守るのではなく、非喫煙者が煙を吸わされない権利の方を大切にするというパラダイムシフトが世界で起きてから既に十数年。日本は未だに喫煙者の権利をどう守るか、の議論になってしまう。これが日本社会で培われた価値観であって、タバコだけの問題ではない、という事に気が付かないと日本人はずっとこうしたやり方を続けてしまう。

すべてを簡単に言うと、

 

・害を受ける側と与える側

 

のシンプルな関係性に個人の私利私欲が混じって判断してもOK、という非理論的価値観だ。

例えば不倫。関係者間にしか害が無いのに、関係無い他人が非難する。関係無い他人に害を与える路上喫煙をした人の方が本来責められるべきなのに。

例えば援助交際。未成年とわかっている大人側が責められるべきなのに、まだ精神的に子供の未成年側を悪くいう中年達。

 

筋が通っていない。タバコもシンプルに考えれば、小さなバーだからこそ受動喫煙問題が大きいのだ。非喫煙者は小さなバーに行く事が出来ない、もしくは煙を我慢するのが当たり前、という事になってしまう。すべての飲食店が喫煙禁止にすれば客足云々の問題などにならない。例外を儲けるから問題になるのだ。そしてそんな事は冷静に考えればビジネスをやっている人なら誰でもわかる。しかし、そうした理論的な事を覆い隠すほど、私利私欲でもOKと考える日本人脳は力がある。

 

ここまでは身近な人によっては利害関係が無い事だから大した問題と考えないかもしれない。しかしこの日本人脳が税金の使用方法や公的サービス、政策にまで関わっているとしたらどうだろうか。実際、タバコなどは国際的な流れ、IOCの要請さえも無視した形となっている。その先にあるのは「害を受ける側」をないがしろにする風潮だ。

日本人脳の発想で怖いのは、害を受ける側がマジョリティーになったとしても、与える側の方が強い、という事だ。というのも、日本人は自分に関係の無い事に興味を持たない、社会の構成員としての意識の低いサイレントマジョリティーとなるべく教育を受けてしまっているからだ。ただ為政者に従う。そうしたシステムが出来上がっている。

 

いやいや、日本には選挙があって、と言う人もいるだろう。これ自体がそもそもサイレントマジョリティーシステムの一つだ。日本は戦後一時期以外、ずっと自民党一党独裁体制だ。これは中国と変わらない。つまり、自民党内で権力派閥が出来るのが当たり前でそこで凌ぎ合いを続けている歴史なのだ。小池百合子東京都知事がそれをわかりやすくしてくれているので興味の無い人でもわかるだろう。つまり、その他(大阪維新等は別だが)の昔からの政党は単純に票を割るだけの存在、地元の既得権益者を守るだけの存在。つまり、国政としてはいらない。理論的に考えれば二大政党制で、参議院を無くして各都道府県知事(またはそれに相当する新たな地方代表)が下院として地元の為に戦う。これだけでいい。

 

脱線したが、理論的に考えてジャッジをする。その癖を大人になって付ける必要があり、自らの嗜好性だけで物事を決めるのであれば子供と何ら変わらない。

 

マスメディアが低所得下層中年を扱う時の偏り

40代を過ぎても引きこもりだったり、年収が100万円以下的な特集ニュースをテレビや雑誌で見たことがないだろうか。そういう場合、必ずといっていいほど、親と同居している中年が紹介される。

これは問題が輻輳している。問題の核心は40歳を超えても低所得で結婚も出来ない人が急増している、という事。この世代はベビーブーム世代(団塊ジュニア)である。数十年後にこの最下層達が老人になったとしたら。そういった危機的な社会になぜなってしまったかであり、そこの分析が対策への糸口にもなる話しなのだ。なのでパラサイト・シングル問題はその中の一つであって、決して同列で語られる問題ではないのだ。パラサイト問題は親たちの年金額等、老人優遇政策など親世代の政策背景も問題にしなくてはならなくなる。

そういった付加的要素の話しの前に、企業は当たり前に出世枠は少ない。ベビーブーム世代は人数が多いからあぶれた人間に年齢差別のある日本では職があるわけがない。しかし、セーフティーネットがあるわけもない。正社員の優遇措置、既得権益化等、そういった世代を背景にした社会システム、経済政策を話し合うべきなのだ。それを同居中年、という情報を頻繁に流す事で、こういった事に関心のないホワイトカラーやブルーカラーの結婚している人達は

・自己責任だ

・能力が無いからだ

・甘えるな

と切り捨てておしまい。もっと早くこのベビーブーム世代の問題に目を向けて政策を取っていれば少子化も今よりもマシになるはずだった。ずっと見捨てていたこの世代がそのまま40代になったらそりゃ問題になるわ、というのは当たり前だ。そういったこれこそ、社会の問題であって、それを構成する一人ひとりの問題なのだ。

 

同居中年ばかり報道して感情操作するあたり、増え続ける生活保護者を抑えるべく流している、全体の2%以下という極めて少ない不当受給者ばかり報道するのと似ている。その情報を受信する人達はその時点でほぼそういった事に無縁な人が多く、メディアの操作のままに、「ふざけんな!」となる。

 

有権者がもっと自分に直接関係ない社会に目を向けるようになれればいいのだけれども。日本で社会の為に立ち上がる人達をいちいち「プロ市民」と揶揄する人達もいるし。海外で人種差別問題のデモ等で差別問題に関係のないCacasianの一般人、有名人が支持をするのを見てもこういった人達は「プロ市民、売名行為」と揶揄するのだろうか。単純にあなた達よりも社会全体を考えている、と思う事は日本人には無理なだろうか。

 

困ったなぁ。

 

プレミアムフライデーの報道の違和感

企業が真っ先に減らすのが固定費であってその最も大きなものが人件費。金曜15時に社員を帰らせて、給料は減らさずになおかつ会社から遊び用補助も出る。これが出来るのは

プレミアムフライデー導入による減税措置、補助金等が国から出て原資がある場合

②下請けに仕事を流す、ブランド力会社(所謂大会社)の場合

 

ぐらいしかないだろう。今はそういった会社の中枢にいないので、①は想像でしかないが、利潤追求会社が経常利益を削ってまでプレミアムフライデーを導入するメリットなど何も無いから、当たり前のからくりだと思う。

別にその事の報道までしろ、とは言わない。新卒採用補助金等、国が日本としての既得権益保護の為の公金投入などいくらでもあるからだ。問題はこれを導入する意味への追求、そして問題をどのマスメディアも報じない事だ。

 

一人あたり1000円の経済効果がある、という。その試算方法をどれだけの人が知っているだろうか。そもそも、アベノミクスでのトリクルダウンという、金持ち(大会社)優遇によって金が周り、下々まで金の流通があって、結局皆が儲かる、という仕組みはご存じの通り今の日本では機能しないのは結果として出ている。グローバル社会の今、金持ちは海外に資産を移し、大会社はオフショアで生産を続けている。となれば、プレミアムフライデーで金が回って、結局皆が儲かるという事が成り立つはずがない。

 

問題はそれだけではない。パートタイム等の低賃金労働者がサービス業には多い。彼らの時給はここ近年、ずっと最低時給から上がっていない。深夜コンビニと牛丼、悪名高き居酒屋ぐらいが1000円超えしているぐらいだ。今や技術職である整体等も最低時給だ。20年前なら技術職は時給1500円以上もざらにあった。そんな低賃金労働者にプレミアムフライデーは訪れない。そして彼らを雇う企業が儲かった所で彼らの賃金が上昇する事はない。1人1000円の経済効果レベルで会社がバイトの賃金を上げるわけがない。儲かった大会社でさえ賃金上昇は抑えてボーナスで帳尻を合わせようとする企業もあるぐらいだ。

つまり、プレミアムフライデーを支えるのは働けど賃金が上がらない低賃金労働者層のサービスが多い、という事。大企業を優遇するのはまだ100歩譲ってわからなくない。しかし、選ばれた企業のホワイトカラー(一部ブルーカラー)だけを優遇して、その彼らを低賃金労働者が奉仕する、という構図を国策として導入するというのはいかがなものだろうか。日本国民が完全に国によって二分化されているのと同じだ。国が完全に

「低賃金労働者の皆さん、あなた達は安定職の人達に奉仕しなさい」

と言っているのと同じだ。そして労働者層としては今やその低賃金の方が格段に多い。

 

これは、奴隷制度と同じではないだろうか?ドバイのように働かないドバイ人と彼らの為に働く国外の人、という現代版奴隷制度の2階層状態の超ミニマム版ではないか。

 

トリクルダウンが上手く言って、庶民が潤っていて給料が上がっているなら何も文句はない。わかりやすいのが未だにテレビでは「節約、時短、セルフ」等のやりくり番組が多い、という事。家計が厳しいからこそ、細かい節約、自分で出来る事は自分でやる、という事になっているのだ。優秀なテレビマンはその世相を汲み取って番組作りをしているだけだ。つまり、テレビを見る世帯=庶民=潤っていない=トリクルダウンが起きてない、という証拠だ。数字でも出ていないのだが、数字に関して言えば日本はアメリカのように細かく客観的に公発表が少なく、結論ありきな操作系数字が多いので信用出来ない。メディアは社会の鏡、というのがこんな所で役にたつ。

 

プレミアムフライデーで楽しくやっている人達、それにまつわる家族という、国策で優遇されている数少ないヒエラルキーの層をフューチャーするよりも、そんな彼らを支える、搾取されるばかりの庶民層の存在。彼らだって日本人だ。ここまでの区別、差別を受ける必要が本当にあるのだろうか。

 

そんな事はちょっと社会を俯瞰して見れる人なら誰だってわかっていることだ。しかしメディアがだんまりを決め込む事で、自分の事しか考えられない人達はその不都合な真実を見て見ぬ事が出来るようになる。考える必要もなくなる。

 

なんでこんな事になっちゃったんだろうなぁ。政治家も選挙で選べるはずなのにね。

 

社会のせい、政治のせい、って言わないでね、という風潮

ネットで良く見かける、この自己責任論者。果たして本当にそう言い切れるだろうか。

 

先のエントリーで今の税金搾取システムがせっかく立ち上がろうとする低所得者が這い上がる事を限りなく制限するものである事を説明した。これを作ったのは政治家であり、原案作成、システム設計は官僚だ。その人達は社会が生んだものである。そして問題は社会を形成する庶民がそうした事に対してどこまで責任をもって「よりよき社会を作る為の新税金システムだ」と自信を持って言えるか、という事。つまり、多くの人は自分にとって関係無い事に対して

・見ない、見ようともしない、考えない

のが当たり前になっており、それこそが「社会のせい」という主張の根底だと思う。これは第二次大戦時の日本社会も同じであり、本土空爆を受けるまでは戦争は遠い太平洋で起きている、自分に関係無いぐらいに思っている日本人が多かった、というのと似ている現象だ。最低所得者の事など自分に関係ないから考えようともしない。為政者達はそうした日本社会を知っているから庶民が気付かない所から細かく税金、補修費などで金を集める。

 

身近な例を上げてみよう。

 

表:ペット(犬)のトリミングを発展させて飼い主とペアのようにする事が流行っています(マスメディア)→その時々で流行りの犬(血統証)がブーム→購入者は色々な服を着せて散歩→周囲「かわいい~!」→飼い主満足

裏:ペットの殺処分率はG7の中で日本は突出している現状

エクスキューズ例:ペットを捨てる人が悪い。私は家族同様だからそんな事はしない

本質:流行りの血統の犬に群がる事がビジネスの拡大に手をかして殺処分を助長させている。自分が殺処分に手を貸している側である意識が無い。

 

表:生活保護不正受給者のニュース(マスメディア)→ネットで生活保護者を叩く→金があっても給食費未払い者がいるニュース(マスメディア)→家庭で話題に→給食費を払わないでいい生活保護者も混合されて学校で差別対象→生活保護を受けるべき人も受けづらい状況→自治体も限られた予算の中、申請者を見下してもいい、という風潮が生まれる(後押しするネット世論

裏:親を選ぶ事の出来ない子供の貧困層の拡大が止まらない。

エクスキューズ例:在日などが特権を得ている。不正受給者が多いのも事実だ。働けるのに働かないのが悪い。

本質:受け皿の狭さを作っている社会システム(年齢制限等)の問題と貧困問題、子供の貧困問題等が混合してしまっている。逆に言えば真剣に問題を自分の事として考えていない。

 

自分の事として社会を考える事をしない、考えない人に結構見受けられる共通の考え方として、人間社会である限り、必ずズルをする人、団体、会社があるという現実をなぜか知ってるはずなのに業務システムのバグのようにそれらを突いて自分を正当化するきらいがある、という事。自分も含めほぼグレーな世界なのに、自らの主張を正論とする時はなぜかゼロイチ発想で語ろうとする。そしてそれは白黒の場合だけに使われ、相手を責める時にのみ使われたりもする。

 

先の例がすべてマスメディア発信である事に気付いたと思う。マスメディアだけが悪いわけではなくメディアとは社会の鏡である。社会が欲しいと思うモノを提供しているだけで、そこにクライアントが付く。それが社会というシステムだ。

 

「社会のせい、政治のせい」

 

その重みを社会の構成員としてどこまで把握して、勉強しているか。そこまで求めないでも、わからない事、知らない事に関してイタズラにメディア情報、著名なコメンテーターの言葉、見知らぬ他人のブログ内容だけを信じて、自ら考える事無くただ弱者を責める、そういう行動を止めるだけでもかなり日本社会は変わる事だろう。

 

ただ、これも理想論であって、現実はそうではないのでせめて自分は加担しないように心がけたいと思う。