底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

欅坂46襲撃に見る、日本のテロの形

以前、孤独な若者、中年達が今後も事件を起こすだろうというエントリーをした。それは彼らは肉体的なパワーが残っているから大事件を起こす事が出来るからだ。そしてそれらは今までは破滅型だった。この世から消えたい、つまり、

死刑になってもいい(なりたい)。でもその前に大きな事をしたい

というのがあった。根底には自己否定と自己愛の間で、自分を社会から消し去る事を選んだ感じだ。しかし、AKB襲撃ぐらいから変わってきたのが、孤独な20代の強行だ。今なぜ20代がこのような愚行を犯すようになってきているだろうか。そこに日本の闇があると感じざる負えない。

 

というのも、孤独が人を追い込み、おかしくする、という事はこのブログでは何度も言ってきた。そして、人を孤独にするのは社会である事も言ってきた。その中で今の20代の未来とはどうだろうか。中年は完全に見捨てられた。なので恨む相手がいない。あえていえば社会だが、それはネットで悪口を書けばある程度解消されるし、相手も民主党、左翼、創価学会など受け口も沢山ある。そしてそんなニュースだけが会話相手の彼らにとって大事なストッパーとして自分への決めつけがある。もう中年だし、自分には何もないし。変な所で達観視している為、自ら努力もせず、見ようともしない。変化を起こせない牙を抜かれた存在。これが日本の大衆中年だ。なので大きな破滅型事件をおこしにくい。

若い世代は逆だ。人間は若いだけでも才能、と美輪明宏が言った通り、それだけで可能性があるのだが、本来救うべきマーケットの大きい中年を見捨てて、自分たちの価値を向上させようとするマスメディアで活躍中のジャーナリスト、評論家気取りは若い人をサポートします、的な運動をする。自分自信が若いので、支持層を増やして、それがイコール「若い人に支持がある、理解のある自分」という商品価値を生み、老人が多いマスメディアの既得権益層の同じ職業の人達そ差別化出来るし、何よりもそうした人達は公共の仕事を受けやすい。それがハクとなり、更に仕事が増える。

なので、彼らは何かに頑張っている若者、または極端にわかりやすい若者(日本語が喋れない外国人の子供)を救う活動的な事をサポートする傾向がある。そうなると完全に見捨てられた中年層と違って、区別が生まれる。つまり、普通に自分が底辺層と考えている若者はあからさまに同年代の中で必要の無い見捨てられた感が生まれてしまうのだ。

彼らはまだ若い。視野が狭いのも当たり前だ。クソ中年と違って、勉強する意欲だってあるかもしれないし、モノを見ようとする意思もあるかもしれない。ただ、彼らはそのやり方がわからないのだ。それは環境だったり、色々な要因があるだろう。立ち上がりたくても立ち上がり方がわかない。そんな中、恵まれた若者=名のしれた大学でNPO活動をしたりして仲間がいるにも関わらず、マスメディアで活躍する人がサポートする、社会的弱者的な扱いで公的、私的サポートがある人も同様だ。そんな中、何をしていいかわからない、区別されてしまった自分は益々孤独になっていく。

そして、自己は肥大していく。いや、肥大というかそもそも自己が拡大していく年齢なのだ。そのサポートは誰もしてくれない。会社も社会も、私的に得がないから若いジャーナリスト達も動かない。では力が余った彼らはその力をどこに向けるだろうか。

自分は何か出来る。出来るはずだ。そりゃそうだ。年齢関係無く人は努力をする事である程度の事は出来るが、それは若い程有利なのだから。しかし差別的に見捨てられた彼らはやはり自分認めて欲しい、見て欲しいという認知欲求もあり、その中で徐々に自己顕示欲が肥大する。孤独の裏返しだ。

その結果、AKBや欅坂の握手会で凶行を犯そうとする。彼らはその前に何度か握手会に参加している。その時に自分が少ない金をつぎ込んだ推しのアイドルが自分にそこまで興味が無い事を心が繊細なだけに感じてしまっているのだ。金を持っている中年ファンは何十枚も握手券を持ってローテーションをするのでアイドルから覚えてもらっている。しかし、彼らはそこまでの金は無い。心の支えであり、数少ない、唯一とも言える自分に優しくしてくれる美しい異性、アイドルも実は金であり、自分はそこでも価値が無い、と社会と同じ区別を感じてしまう。以前の中年達が自分たちを見捨てた社会を恨むのと違って、沢山現実的にも逃げ道がある若者だからこそ起こり得る犯行とも言える。点での接点が切れた時に、その対象が社会なのか点の対象なのか。そこが若者と中年の違いであり、自分で自分を見捨てた中年=自己破滅型犯行と、まだ自分を完全に見捨てていない、自己顕示欲型犯行の若者、といった感じだ。

 

今後もこういった事件は起きるだろう。雇用が上向き、といってもそれは底辺層の賃金の安い人達の雇用ばかりというのも賃金が安い中で物価が上がり、エンゲル係数が上がっている事実もスマホでネットを駆使する若者は既に知ってしまっていて、中年以上を心象操作をしてきたマスメディアを端から信じていないのだから。

 

テロの定義は色々あると思うが、自らの信念に基いて、社会に衝撃を起こす。それによって自分に社会的、金銭的得が無いにも関わらず。そういう点ではこれらは日本版テロだと思う。

こうした人達、底辺層の若年層から中年までをまとめるカリスマが現れたら日本は大変な事になるんだろうなぁ。

 

 

日本のアイドルの結婚宣言の問題とAKBグループ

須藤凛々花がAKBグループ総選挙にて結婚宣言をして、そについての賛否があった。気になるのは、「日本のアイドル」という文化を一切考えない上から目線の人格論だ。その多くは

「結婚自体を素晴らしい事だし、ファンなら応援すべきだ」

「結婚という素晴らしい事を素直に喜べないのは相手の人格を認めない事だ」

等である。

結婚自体が素晴らしい事なのか、祝福すべき事なのか、は個人の価値観だと思うが、そこは置いておいて、否定側を人格否定論やロリコン文化と一緒にするのはあまりにも暴力的であり、そもそもアイドルとヲタという関係性をわかっていないと言わざる負えない。

アメリカにはベッキー・Gやセレーナ・ゴメスのような存在がアイドルであろう。もちろん、ファンは彼女達の恋愛事情も含めて応援している。それを日本のアイドルは根本的に違う。その違いをわざわざ論じる必要はないだろう。であれば、そのファンも違うわけだし、そうなればマーケティングもビジネスモデルという話のよりも根底に、ファンとの関係性が違ってくるのだ。

それを考慮すると、まったく違った意見になる。それが多様性を理解する力であり、違った立場の人達の考えをその人の身になって考える、という事だ。

ある意味、上から目線の人、自分が見ている景色が上等であると思って庶民を見下している人ホイホイになったなぁ、と思う。

 

まあ、別にいいんだけど。

 

 

痴漢冤罪が問題なのではない。痴漢が問題なのだ。そしてそれは防ぐ事が出来る、という話

何かと問題になる痴漢冤罪問題。正直、私にはなぜそのような事が問題になるのか、がわからない。なぜなら、普通に電車に乗っている限り冤罪をふっかけられるような事が起きないからだ。

例えば、スマホをいじる事も出来ない体も動かせない超満員電車状態という時もある。その時にカバンを持っている手が側にいる女性のお尻に触れる状態としよう。その時に万力の力で手を不自然な状態ではあるがどかす事が出来る。そしてそうした行為を女性はしっかり感じている。この人は痴漢ではない、と。これは一つの例だが、たまに文句的におっさんのツイートで

「ハゲのおっさんだったら許せないが若くてかわいい女性に寄っかかられてそのままにしている」

的な事がある。そうした痴漢ではないが、若くてかわいい女性(男性)に合法的に触れている状態を楽しむような気持ちをまずは全員無くしている事が前提でないと、痴漢を防ぐ事など出来ないのだ。

私が満員電車で通っていた頃、もちろん私は男女とも寄っかかられるのは嫌だし、多くの痴漢から女性を救ってきた。当時も今も「この人痴漢です!」としても会社を遅刻出来るわけではないので、私のやり方は痴漢にあっている事を目視した後に、痴漢と女性の間に無理矢理わけいって話したり、それが出来ないぐらいの状態だと痴漢とその手を交互にじっと眺めるだけで防ぐ事が出来た。そうした行為をしているうちに、どういった女性が痴漢にあって、どういった人が痴漢をするか、が大体わかるようになった。先に述べた超満員電車なら手が見えないからどうしようもないが、大体の痴漢は満員電車程度で行為をする。満員電車とはすべての場所で満員なのではなく、比較的空いている場所もあったりする。そこから調査は十分に出来る。

つまり、私のように「困っている人がいるかもしれない。だったら自分に出来る事をしよう」と乗客の多くが思えば、痴漢自体がかなりやり難くなるはずなのだ。それが他人などどうでもいいどころか、可愛い子と接触するならハプニングでも嬉しい、などと平気でツイートするおっさんがいる限り、痴漢を封じ込める事など出来ないのだ。

社会をどうしたいのか。選択はその社会に生きる日本人が責任をもって決めなければならない。自分の私欲を優先している場合ではない程、痴漢問題は大きくなっている事を逃亡の末死亡という事がおきてしまっても無視して電車内の秩序を保とう、保ちたいと思わない人達がまだ多いのだとしたら。

それこそ、いじめを知っていても見ないふりをしている傍観者と同じ。痴漢と同罪だ。恥を知るべきだ。

 

まあ、無理か。タバコを全面禁煙にしても客足が減るという数値データがないのに、未だに煙を吸わされる弱者よりも吸う権利を主張する人達の方が権力を持っている国だもんなぁ。民族性って怖い。

 

小池百合子都知事は決められない政治家なのか?

マスメディアではそんなイメージをガンガン打ち出しているのが気になって。

そもそも、豊洲移転の件ついて、

「経緯も含めてしっかりした資料だせや。でないと承認でけへんわ!」

っていう事を決めましたよね?それがトップ。そして彼女は情報を公開してしまう。なので、事務方、関与した政治家達はあせるわけです。小さな市町村の年間予算に匹敵、超えるぐらいのビックマネーが動くビジネスなわけです。様々な利権が絡んで、それで儲かる人達(税金を無駄食い)が沢山集まってできたプロジェクト。妥当性もひったくれもないわけです。そこでいきなり「私が承認できる資料だせや」と言われたわけです。それが未だに出てこないわけで。それは小池百合子都知事の問題ではなく、潤沢な都税マネーを蝕む事が目的で出来た無理矢理な資料に正確なエビデンスなどあるわけないですから。そんな事小池百合子都知事もわかっているわけです。じゃ、なぜわざわざ?という所に政局があって、ここは素人がわからない魑魅魍魎が跋扈する世界。そこは置いておいて。

とりあえず、トップがする事をただ淡々と小池百合子都知事はしているだけで。何も決めないどころか、むしろ政治家として号令を出しているわけで、決められないのは妥当な資料を出せないずさんな事務方、政治家の問題で。いや、ずさんというか無理そ事実が出ると困る、という感じか。

 

オリンピックの問題でも開催場所がそのままになった時に小池百合子都知事が「それで儲かる人達がいて。であれば、自分たちの金でやってください、という感じですが」と苦渋の決断をしたのが忘れられません。国際的に後ろのケツが決まっている案件だったので、ここにメスを入れて魑魅魍魎を引きずり出す時間がなく、森喜朗などに負けてしまった。でもスケジュール的に決断しなくてはならなかった。なので決断した。決めてますな。トップとして。

 

マスメディアがすべき事は、「小池百合子都知事が承認、決断出来る明確な経緯を含めた資料が出てこず、未だに責任の所在が有耶無耶、科学的エビデンスも右往左往している状態が異常であり、ここにしっかりメスを入れて都税を貪り食う輩を引きずり出していきましょう!」であり、小池百合子都知事を叩く事ではないのだが。

 

まあ、いいけど。

 

いきなりステーキ を不味い、と書いたエントリーに何度も入る暴言コメントについて

イマイチわからんのですよ。食って人によって好みがある事は誰だって知っている事。

例えば、信者の多い「ラーメン二郎」。

臭くて不味い

という人だっている。その人に対して、二郎信者がわざわざ暴言を吐くような光景を見た事が無い。なぜならそれだけ嫌われる事も個性である、と信者達は知っているし、好きな人達が集うから人気のラーメン屋なのだから。

ちょっとラーメンだとわかりにくいか。では日常会話ではどうだろうか。

食べログで人気の◯◯っていう店、最高に美味かったよ」

「そう?私はあんまり好きじゃなかったなぁ。なんであんな高評価かわからない」

こういった会話こそがある意味食べ歩きをする人達の楽しみでもあるだろう。それぞぞれの評価を持ち合う、というコミュニケーション。これを

「味がわからないお前なんか◯◯」

的に言う人なんて見たことない。

 

自分の舌に絶対的な自信を持っている人なんてほぼいないから、芸能人格付けランキングみたいな番組が出来て、味だけで食材を当てる難しさ、というか多様性を示しているわけで。というか、食べログの評価とか含むネットの評価こそが多様性であって、どれだけ評価の絶対値が高かろうが、それを不味い、と思う人がいるのが当たり前であり、正常な事は人間社会で生きていれば当たり前の事。それをわざわざ自分が美味しい、と思うモノに共感しない人に暴言を吐くほどの行動をする人が本当にいるのだろうか?松屋すき家吉野家の牛丼を初めて食べたけど不味くて二度と入らない、というエントリーを書いた人にわざわざ悪口を書く人がいるかどうか、という事もミラーリングして思考してみた。

 

考えられる事は2つ。

まず、ラーメン二郎の例にあるように、店が大好きな信者という事は考えにくい。好きであればあるほで、賛否があるのがわかるというもの。そのクセ、それこそが信者を支えるのだから。であれば、そこまで信念があるわけでもなく、ただ検索ワードに打った時に予測で出てくる「不味い」で検索し、ひっかかったブログに読みもしないで悪口を打つパターン。これはネットでは一番考えられる。本人にとっては憂さ晴らしなのだろう。まあ、そういう人はどこにでもいる。

もう一つ考えられるのがネット評判対策の会社から委託されているアルバイトの人達。日々悪評を潰すべく、一件◯円で攻撃する。まあ、こんな弱小ブログにはこないと思うけど。

 

まあ、もう面倒だから見ないし答えないからいいのだけれど。まあ、人を見下す事で心がす~っとする事がある心理は理解出来ないわけじゃないしね。

もっと人格を鍛えていきたいなぁ、と思うわけです。

そんな簡単に行かないのが生きる事だったりするわけだけど。

 

 

 

低所得者が結婚出来ない理由の考察

金が無いからこそ結婚したらダブルインカムになるのだから、年収200万円の人が同じ年収の人と結婚した方が明らかに生活費が節約できるので、むしろお得なはず。それなのになぜ低所得者は結婚出来ないし、しないのだろうか。もちろん、金持ちの方が誰だっていいのはわかっている。それでも付き合う事さえもしない、というのは幾分異常な感じがする。せっかくなので考えてみた。

 

学生時代の相手と結婚しない限り、その次に結婚相手は職場(関係)恋愛、その次がネットでの出会い、というのが日本での調査結果だ。ただ、職場恋愛とネットとの出会いでの成就は結構開きがある。ネットでの出会いには色々あるので一概には言えないが、職場恋愛さえも低所得者層は出来ないという事になる。

確かに、低所得者=会社も小規模、もしくは非正規雇用&アルバイト=好みの異性、適齢期の異性の絶対数が不足、という現実問題もある。しかし、世の中それなりにブサ男、ブサ女も結婚している。となると、外見だけの問題ではなさそうだ。

そこで、私はある仮定を考えた。それは、この情報過多の時代で、様々なヒエラルキーの上っ面の世界が見える中、自分の立ち位置に不満がある人が多い事が前提なのではないだろうか。

・こんなはずじゃなかった

・あそこで失敗しなければ

・学生時代の友人は会社の同僚と結婚して戸建てを購入しているけど私は

等々、SNSも普及して一般人さえもきらびやかな生活を送っているアピールをする中、何も無い生活というか、遊ぶ金も無い人達が自分の境遇、生活を良しとする事は至難の業ではないだろうか。そうなると、本来自分の身の丈にあった相手、通常でいう職場結婚というのは男女とも同族嫌悪の対象となる人なのではないだろうか。

私が今まで会ってきた低所得者層の人は、外見もぱっとしないだけでなく、人見知りの人が多かった。これは不特定多数と責任を持ったコミュニケーションを取るような仕事の人が少ないからだ、と思っていたのだが、そうではなくて、人見知りというよりも、人を見知ろうとする姿勢がそもそも無いからだ。つまり、自分と同じヒエラルキーの人間に対する興味がかなり薄くなってしまっているのだ。ただ、男に限ると外見が自分の性欲に値する場合は積極的に動いたりするのはご愛嬌。

逆に言えば、高年収の人は他人とのコミュニケーションが上手い人が多い。他人との会話とは本を読むのと同じ。人生のTipであり、自分が体験出来ない他人の人生の決断等を疑似体験出来るわけだからこんないい事はない。もちろん、個人差はあるが、低所得者層の人見知り(いや、人身知らず)の圧倒的な多さに比べるとコミュニケーション上手といっても過言ではない。

 

高所得者層は自分の立ち位置も将来性も大体わかってきてハイリスクな冒険もしないから、ある程度の歳(30~40歳過ぎくらい)になると他人と自分を比べる事よりも自分が幸せになるチョイスをする。しかし、低所得者層は今の自分に不満があるから常にそんな自分を上げてくれるような存在を探す。ニュース番組へのツイッターや政治家への不満の正論等で自分の社会的価値が上がると勘違いし、他人を見下し時にはわざわざ調べて他人のSNS等に暴言を残して気持ちをす~っとさせる。そうで無いと自分が浮上出来ないからだ。そんな人達が自分と同じようなクラスの人を選ぶ理由がない。

男性の場合、外見、特に若い女性やアニメ等に理想の女性像を作ってしまうかもしれない。同レベルの女性で外見がよくまだ結婚していない人などほとんど存在しないからだ。女性の場合、専業主婦を夢見る人が多い為、同レベルの男性など目に入らない。今の仕事が底辺で辛いからだ。余談だが、大会社の女性になればなるほど、子供を産んでもむしろ仕事をしたがる。それは自己実現欲求であり、金の為ではない。社会で働く事が楽しい職場だから。奴隷のようなサービス業やロボットでも替われるような、自分である必要もない低所得者の仕事ではないのだ。専業主婦でもいいや、というほど金を得ている男性が選ぶ女性はそれなりに若くて外見もいい人なので、これも狭き門になってしまう。

結局、低所得者層の男女は自らの境遇、立場が辛く、相対的な劣等感を覚える事で身の丈に合わない理想を自然と追い求める事で結婚どころか付き合う相手とも出会わず、そのうちに若さという最大かつ唯一の武器を逃し、あぶれてしまうのだ。

 

ちなみに若くて美人、もしくはスタイルがいい女性はどの層であっても関係無く結婚できるのは言うまでもない。

今村復興大臣が激昂した会見について、日本のヤバさ

大臣クラスの政治家にジャーナリストがわざと感情を刺激するような言い方をして相手を怒らせて本音を聞き出す、というやり方は欧米では当たり前の手法だ。今回は今村復興大臣が発言の撤回をした、つまり挑発にまんまと引っかかってしまったわけだ。

欧米では当たり前の手法がなぜ日本では普通ではないのか。それは日本でジャーナリズムが生まれない原因、記者クラブ制度だ。政治家が決められた原稿を発表する事をまとめるだけの記事。どの新聞も同じ内容。個性、違いは個人の私見レベル(ITで言えばブログレベル)の社説という事になる。これには何のエビデンスも無い。この方式は日本のマスメディアにも導入されている。コメンテーター方式だ。社説を書く人=コメンテーターと同じような感じ。彼らの意見など本来どうでもいい。大事なのは事実だ。

しかし、日本ではそれを聞きだす事は出来ない。記者クラブには忖度が存在するからだ。忖度があるからこその記者クラブ。戦時中と同じだ。だからこそ、今村復興大臣の決められた原稿の発表終了後に記者は質問をしたのだ。

 

聞き出した本音を要約すれば

自主避難者については今後は地方(福島)に対応は任せる。国はサポートはするけど手を引くよ」

という事。この「手を引く」という事の基準が曖昧であり、自主避難者が国に対する不信を払拭するに至っていない部分であり、その説明無しに

「自己責任」

という記者の揚げ足取りに乗っかってしまった、つまり大臣の本音が今回出てしまったのだ。

こんな事は日本社会では当たり前の事だ。社会の裏でもなんでも無く、それなりに社会の仕組みを勉強というか、様々なビジネスシーンに触れたりして経験をしていれば日本社会のシステムとして理解出来るはず。つまり、政治家、税金、利権獲得者、支援者等々の仕組みの事だ。しかし、仕組みを知らない人に私が言った所で誰が信じるだろうか。逆に有名じゃないフリーのジャーナリストが暴いた所で誰が信じるだろうか。それよりもテレビに出ている医者、元新聞記者等のコメンテーターの話しを信じる人の方が多いぐらいだ。だからこそ、エビデンスが必要であり、今回は大臣が発言撤回をした以上、大臣に本音を言わせたジャーナリストの勝利なのであり、その本音の部分を検証し、考え、監視するのが選挙権のある庶民の務めなのだ。その材料をジャーナリストは与えているだけ。

 

と、欧米では当たり前のこのプロセス、日本ではどうなったか、というと・・・。

なんと、この報道をするマスメディアを偏向報道と非難したり、このジャーナリスト、西中誠一郎氏を活動家として非難したり、煽り質問を非難するブログ等が続々と立ち上がったのだ。

西中誠一郎氏の活動が個人的に気に食わないのは理解出来る。それでも日本では信条、宗教の自由はあるし、そもそもジャーナリストというのは個人的信念に基いて動いているものであり、その個人のフィルターから真実を暴く活動の事でもある。事実を曲げてはいけないが、その事案のチョイスはジャーナリスト次第でもある。彼がどれだけ自分の考えと合わない人間であろうが、そんな事はどうでもよく、今村復興大臣が発言を撤回した、そうした発言を引き出した煽りが功績であり、庶民が目を向けるべきは今村復興大臣、つまり国の姿勢に対するチェック、それだけだ。

 

なのに、なぜか西中誠一郎氏の個人攻撃が当たり前のようになっているのはなぜだろうか。ここに日本人の根深い人間蔑視、差別意識がある。まずは人の外観というか、取り巻く情報だけで判断するやり方。東大出身=すごい人、みたいな。テレビのコメンテーターをバカにしている人は多いが、彼らの多くは日本中の講演で荒稼ぎ出来ている。テレビに出ている人=自分よりも上位、のような見方。つまり、事実その事のみを点で判断するのではなく、なぜか私情を挟む事が良しというか、色眼鏡がかける方が良しとされてしまっているのだ。こうした人はビジネスシーンでも当たり前にいる。

・後輩の的確な指摘に対して「お前に言われたくない」と制する上司

・会社にとって利益な活動でも「あいつには協力したくない」と平然と言える同僚

会社はまだ人間的利害関係があるのでまだ理解は出来る。ただ、これが為政者である国と国民という関係だとまったく関係はなく、税金を払っている株主の立場の国民として、どんな手段を使ってでもチェックすべきであり、それを自らの信条と違う活動家がしようが、気に食わない芸人がしようが本来関係無いのだ。

 

この自分が気に食わない人間を認めない、というあり方が当たり前、という庶民のやり方が、仕事の年齢制限が公の機関でも当たり前のように行われている日本らしい発想にもつながっている。例えば「アメリカンスナイパー」という映画で実在の主人公は厳しいテストをくぐり抜けて訓練に入るが、そこで「お前みたいなロートルがついてこれるのか!」と訓練士にはっぱをかけられる。つまり、門戸は開いており、体力チェックをクリアしたら年齢関係無くチャンスがあるのだ。日本ではそうした門は年齢で閉じている。極端に言えば、武井壮に勝てない20代がほとんどでも、40代になったら応募すら出来ない肉体関係の仕事の多さたるや。これが欧米ではありえない。本人の努力、資質は年齢に関係無いからだ。その仕事に値する体力がある事、その一点が大事なのだ。

しかし、日本では上記のように、その仕事を行う為の体力、という一点の事実になぜか「年齢制限」をかけるのが当たり前だ。この年齢、例えば39歳と40歳になんの違いがあるのか。明確な線引などない。決めた人の私感だ。そんな人間性を否定するような事が当たり前になっており、だれも文句を言わない。それはその被害を被る立場の雇われ庶民、立場の弱い庶民達も同じように事実の点で物事を判断する訓練、発想が出来ておらず、周辺情報を含めて私情で判断し、他人の人間性を否定する事をなんとも思わない、むしろ人間性を否定している事すら気付かない社会になってしまっているからだ。

 

今村復興大臣の記者会見。ネットで世界情勢が誰でも手に入る時代。少しはリテラシーが向上しているかな、と思ったのだが。何も変わらず、日本社会は庶民自身が作っているという事をあらためて痛感する事となった。