底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

晴れてまだ無職になりました・・・

2ヶ月間、ちっとも転職活動が上手く行かず、また無職になってしまいました。なのでこのブログの更新頻度も高くなるかも?w

たかがアルバイトなのになぜそれさえも受かる事が出来ないのか?私には不思議でならない。私がホワイトカラーの時には採用にはランクがあった。

 

・アルバイト=英語の通り、パートタイムジョブ。誰でも出来る仕事、作業をおまかせする人材。IT系だったので、主にコンテンツの更新作業等をお願いしており、いつ辞めても替えが効く場所。大学生やフリーター(主にバンドマン)が多かった。というのも、誰でも出来る仕事なので、業界的に私服がおしゃれ、というだけで選んでいた部分もあった

・派遣、契約社員=簡単に替えが効かない仕事を任せていた。主に社内社外のハブ役。業務内容や流れを覚える必要がある。後に辞められた場合や派遣会社との賃金交渉の手間等のコスト、仕事への敬意もあり(抜けられると困る)、積極的に社員にして囲い込みをはかった

・社員=会社の業績に責任がある人材。なので、個人の目標だけでなく会社の方針も目標として抱える必要がある。

 

これがあっているかどうかはあるが、概ね、賃金と見合った仕事内容だったとは思う。例えば私が探しているのは当座生活が出来る生活費が稼げるアルバイトだった。しかし、ただの流れ作業は向いているとは思わなかったので、経験があって知識のあるスポーツジムのインストラクター業に幅広く応募してみたのだった。

 

しかし、現実は年齢で落とされる事が大半。その他は面接に行っても中にはアルバイトなのに「最低2年ぐらいは働いていただける人を」とか。おいおい、それだったら契約社員でしょ?と。そして質問内容も社員並に突っ込んだり。おいおい、学生だったらそんな質問しないでしょ?と。そもそも、接客業、とくにジムのインストラクター業は専門職であり、経験も必要。実際。過去にお客様から「若い子が悪いわけじゃないのよ、でもね、やっぱりアナタの方が話しやすいし相談しやすい」と言ってくれた客は1人や2人ではない。当たり前だ。学生のアルバイトのお父さんの年齢だ。幅広い層にアプローチする話術も持っている。知識もある。しかし、まったく初心者の大学生の方が採用される。まったく意味不明なのだ。客も求めている。シフトも都合よく入れる。学生のように「大学に履修が入って」と突然休むことやシフト変更、辞める事もない。それでも、頑なに中年はいらないという風潮。

 

先日、吉祥寺のハンバーグ山本に行った。基本外食はしないのだが、この日は退職する仕事がラストだったので自分へのご褒美のお疲れ会として行ったのだ。そこに私よりも年齢が上と思われる、ロマンスグレーのオヤジのホールがいた。もう1人は学生っぽい女の子。その女の子の愛想の悪さと手際の悪さ。まあ、事実、私はこれが普通と思っているのでなんとも思わなかったのだが、対照的にオヤジさんの接客の素晴らしいこと!手際がいいだけではない。距離感が絶妙なのだ。馴れ馴れしいの一歩手前というか。押し付けがましくないフレンドリーさと紳士的な雰囲気。正直食事よりもあのオヤジさんの接客の技術の方が記憶に残っているぐらいだ。もちろん、時給は違うだろうが、あの拙い若い女性と同じ業務を客から見たらしているわけで(もちろんバックヤードでは色々あるのだろうが)。こういう事だ。たまたまこのオヤジさんが仕事が出来るだけで、別に中年オヤジ=仕事出来る、と言っているわけではない。公平に見る事が企業側が出来たからこそ、このような素晴らしい接客に出逢えたのだ。もちろん、若い人にだってこのような接客が出来る人だっている。ただ、このオヤジさんは自分の外見(大人である事)も利用していた。そこさえも上手かった。

 

年齢差別をする必要が無いのにする業界は単純にこの年齢で最低賃金で働く人=ずっと社会のヒエラルキーの底辺にいる頭のおかしい人、と決めつけているのかもしれない。人間性を疑っているのかもしれない。確かに、私は都の生活保護よりも安い金額で暮らしている。もうこんな貧乏生活はいやだ。その為にもまずは今の

生活を維持するにあたって、そこまで責任を負うつもりもない。だから最低賃金でもいいよ、というスタンスだ。賃金が高い=責任が大きい、というのが本来の正しい形だ。最低賃金なのだから、それで他の人よりも仕事が出来るのならOKでしょ?と思っていたのだが。まさか、年齢で差別されるなんて。

 

いったいこの現状をどうしたら変える事ができるのか。シリコンバレーのように、起業家達、という言い方ではなく、日本はマスメディアで発言できる人達が「若い」を付ける事で社会にバイアスがかかっている、とか。そういう発言をするテレビマン達を叩けばいいのか?いや、それは意味がない。

私と同じ、ベビーブーム世代は数が多いので結託すれば社会を変える事が出来るはずなのだが。いかんせん、恵まれた人とそうでない人の落差がありすぎてなかなか他のヒエラルキーを私のように横断して経験しないとなかなか慮る事が出来ないのが結託の妨げになっているのと、そもそも社会を変えようとする気概がない世代でもある。

 

難しい。

 

菊池桃子氏へのストーカー事件を一般的なストーカーと一緒には

するのはちょっと違うと思うんですよね。

底辺を知らない一般人からすれば、ストーカーというのは一方的に好きになった人に付きまとう、という定義だと思います。確かに行動的にはそうだと思います。ただ、過去に付き合っていた人、妻等へのストーカー、電車等で出会った一目惚れした人へのストーカーと元タクシー運転手・飯塚博光容疑者(56)のは根本的に違うと思うんです。もちろん、勝手な想像ですけどね。

56歳でタクシー運転手。誇りを持ってお仕事をしている人には申し訳ないのですが、私が若い頃から登録していたリクナビネクストでは、若い時には様々な会社からアプローチがあったのですが、年齢差別をされる歳となった今、大東建設かタクシー会社、警備員会社からしかアクセスが無いです。つまり、この3つの業界が年齢経験関係無く、人間であればいい(人手であればいい)という3大底辺仕事業界なわけです。そんな中、飯塚容疑者はまだ56歳。年齢差別社会の日本ではオワコンではあるが、人間としては全然元気な歳。その事を本人が一番知っているはず。自分はなぜこんなヒエラルキーの底辺でずっと人にペコぺコし続けなければならないのか。それもこの給料で。そうしたうつうつとした負のエネルギーは人間力があればあるほど溜まるものです。

そんな中、菊池桃子氏と接触する機会が出来てしまった。もしかしたら若い時にファンとは言わずとも、彼女のアイドル全盛期をしっていたのかもしれない。惨めな底辺な自分と輝かしい彼女。最初は眩しいだけだったと思う。

しかし、時間が立ち、冷静になってみると、なぜ自分だけがこんなに惨めなのだろう、と普段から考えている気持ちとの対比が頭を出してくる。調べてみると、菊池桃子氏は年齢も自分と近い。結婚してもおかしくない年齢差だ。そういう人生もあるのでは、と妄想するようになる。

その妄想は惨めな自分に対する別の人生の可能性として色が付くように成る。短期的な精神逃避行動、ちょっとした解離症状だ。昔の言い方でいえば短期的な精神分裂病。しかし精神疾患者ではないので、分裂したままで持続する事はできない。となると、どちらかを選択する時がくる。

そして彼は別の人生の可能性、菊池桃子氏と結婚してこの惨めな自分の人生が浮き上がる、という妄想を選んだ。その時点で妄想が現実となったのだ。だから現実の自分は切り捨てた。だから生活の糧であり、それを無くしたら再就職は難しいとわかっているタクシーの職を無くした。当たり前だ。自分には輝かしい未来が待っているのだから。

 

正直、相手が菊池桃子氏である必然性はないと思う。たまたま自分が知っている輝いている芸能人で年齢が結婚するに適当であれば誰でも良かったのだと思う。今の自分を救ってくれる程のエネルギーがある人であれば。この部分が、恋愛によるストーカーと違う所。恋愛ストーカーは少なくとも自分の事を相手は多少知っており、その自分を拒否する=自分が否定された、という事を認めたくない、という部分が大きい。飯塚容疑者は今の惨めな自分から脱するきっかけが欲しかっただけだと思う。そういう意味では彼は自殺願望もうっすらあったと思う。こんな自分の人生ならもう消したい、と衝動的に思うような事が何度かあったと思う。

 

だからマスメディアで言っているような「タクシー運転手がどうのこうの」という意見は的外れだと思うのだ。まだ元気な人でも中年というだけで虐げられる、ヒエラルキーの底辺に押し込まれる社会が生んだ事件だと私は思うのだ。そしてこうした感覚は多くの中年(中には若者でも)が抱いていいる事でもある、と思う。

 

新卒のみがバブル期よりも有効求人倍率が高い=その他は就職出来ない、と同義だ。日本の会社が欲しいのは奴隷。そこからはみ出ようとする意思がある若者には多くの経営者、ファウンダーがサポートする。では、その他大勢は?

そんな社会のヒエラルキーの中でもがいている人間なら誰でも起きうる事件であり、たまたまタクシー運転手がストーカー事件を起こしてしまっただけなのだ。

 

私はその気持ち、よくわかる。なぜしないか?簡単な話。自分だけが浮き上がる事に興味が無いからだ。そうした自己愛が欠如しているから私は底辺にいるくせにこうした感情はわかっても行動をするような事は無い。

改正健康増進法が他国より劣る内容になりました

WHOは「たばこの無い五輪」を目指しており、イギリスは伝統のパブでも禁煙とし、あのネトウヨたちがいちいち悪口を言う中国でさえも飲食店も禁煙となった。しかし、日本は100平方メートル以下の飲食店(ほとんどじゃないか?)は除外、公共機関でも敷地内禁煙ではなく、屋内だけ禁煙、という緩い場所が多く存在する、世界で比べても一番緩い規制となった。ここの日本人の頭の悪さ、社会的な知能の低さが露呈されている。

まず、認知の歪み。

飲食店の支持や実際の経営者である議員達の反発が強かった、とあるが、実際全面禁煙にした所で売上が落ちたというデータは存在しない。むしろ売上が伸びたというデータもある。なのに、

「禁煙にしたら客が減る」

と信じて疑わない。これは認知の歪みというもので、現実を自らのバイアスで歪めて見てしまうのだ。

そして、自らの欲望を優先する姿勢。

まだ外国人と対等に仕事(底辺労働層ではなく)をしたことがない庶民が多い日本では未だに社会的ヒエラルキー(年収、権力)=自分たちの自由にしていい、と思われている節がある。本来はノブレス・オブリージュヒエラルキーの上位になればなるほど逆に社会の事を考えなくてはならないのに、タバコを吸う議員が多い&将来の天下り先として日本タバコ産業を狙っている人達はそんな事よりも自らの快楽を優先する。

最後にそうした為政者達の怠慢、傲慢さを責める事が出来ない庶民の存在。

国際基準で下回るこのタバコへの政府の処置について、特に何かと中国が、とネットで騒ぐネトウヨ達は今ここで自分たちがその中国に社会的法整備で劣る事について、どう心のバランスを保っているのだろうか。お得意の「しかし◯◯は・・・」と論理のすり替えをしているのだろうか。「野党が森友学園でもめているから」とか誰かのせいにしているのだろうか。それとも「ここは日本だから国際基準に合わせる必要ない」とでも思っているのだろうか。

であれば、東京オリンピックなどやらなければいいのだ。国際化とは他国の人々の最大幸福を目指すのではく、最低限の基準、最低限の幸福を満たす事だ。それさえも出来ない。自国の幼児が遊ぶ公園のベンチでタバコを吸うのが当たり前という国民だ。ダイバーシティなど程遠い。

であれば、北朝鮮のように国際的に孤立してみればいいのだ。そんな事は出来るわけがない。

であれば、自国の人も他国の人も。皆が幸せになる健康基準を施行するのは当たり前だ。日本人はいつもこうだ。世界という規模よりも一部の数える事が事が出来る利害関係者だけを優遇する。青函トンネルの経済的損失の計算が出来ない人は今やいないだろう。それを世界規模の話でもやってしまう。

なんと愚かで醜い事か。日本で権力を握る人間とはここまで国際社会どころか日本の未来さえも考えない、自分たちの事しか考えない事が平気で出来る、という事なのだろう。

なぜだろう。なぜこんな国になってしまったのだろうか。そろそろ昭和の雰囲気から脱してもいい時期だと思うのだが。

ふともも写真の世界展 はアートなのか?表現の自由なのか?

人間の肉体の美についての写真について、それがポルノか芸術か、と言われたのはロバート・メイプルソープが記憶に新しい。彼は男性も女性も関係無く、性器も撮影の対象とした。私は彼の写真は芸術として美しいと思った。

そして今回のふともも展。朝点けっぱなしにしてたテレビ(モーニングCROSS)で丁度その話題をしていた。コメンテーターの見知らぬおっさんが「表現の自由」の話をしていた。展示会は有料なんだから見たい人だけが見ればいいのに、こんな事で中止するなんて、アートが無くなってしまう、とも。司会の堀潤氏が「いや、でも、未成年(と思われる雰囲気)を性の対象とする問題も・・・」と話を戻そうとしていたが、全然戻らない。結局コメンテーター達はふともも展をアート(芸術)であり、表現の自由だというのだ。

 

もともも展が文字通りであれば何の問題もない。ロバート・メイプルソープと同じだ。肉体の筋肉の7割は下半身だ。その中で最大の太もも。子供からご老人。車椅子の人だったり、車椅子でもパラリンピックの選手とかの太ももとかはまた違うのかもしれない。機能としての太もも。そこにフューチャーした写真展だと多いに興味がある。しかし、今回のは「ふともも」なのだ。

 

若い女性のすべすべした太もものみ、の写真なのだ。これのどこがアートだというのだろうか。これはアートではなく、フェチ、というのだ。つまり、性癖。性欲の対象物としてのふとももだ。例えば、「お前はまだグンマを知らない」という映画がある。この主人公は机の下に文房具を落とした時に周りの女子の足に欲情した。この行為がどうのこうではなく、映画に使われるぐらい、若い女性の生足というのは欲情を誘うものなのだ、という事だ。これが100歩譲って、若い女性ではあるが、色々な足、という逃げ道もあった。しかし、実際は程よい肉付きの一番所謂そそる足ばかりだ。このフェチ道をアート(芸術)と呼ぶのは芸術の世界をバカにしている。

 

そして表現の自由は社会規範に違反しない事が前提として考えるべきだ。反国家的だとダメ、という意味ではない。最低限、未成年は守るべきだ、と言っているのだ。若い女性のふとももを愛でる性癖(フェチ)を社会的に肯定してしまうと、実際の女子高生がJKリフレ等でふとももを見せて金を稼ぐ事を肯定する事にもつながる。その先の売春行為(肉体的接触)のみを問題にする人がいるが、未成年にとって、自らの精神性(アイデンティティー)の前に肉体(性欲)で評価される事による心のダメージは図りきれない。成人しても心と体の一致が出来ずに奔放な性生活を送る人も少なくない。フェチを否定する気はない。性癖は変わらないからアンダーグラウンドでやればいい。その商売の自由はある。しかし、それを丸井という日向でやる、という事は若い女性に「体を売りにしていいんだよ」と社会が言っている事と同じだ。

 

以上の点から、ふともも写真展は個人的には嬉しいが、それはアートでも表現の自由でもなく、たんなるフェチ、性癖の点であり、だからこそ表舞台でやる事ではなく、エロ本のごとく、アマゾン等でひっそり通販していればいいだけの話なのだ。

つまりこの点からコメンテーターという存在がいかに偏った存在であり、だからこそマスメディアには必要ない、という毎回言っている結論にもつながるのだ。信念や社会の一員感が無い人にとってテレビに出ている人の意見=自分の意見の後押しになる事が多いからだ。考える力が無いからコメンテーターが欲しいのだから。

 

しばらく見ないうちにテレビは恐ろしい箱になっている。視聴率の低下によってそれに毒される人が少ないのがせめてもの救いか。

 

ゴールドジムのアルバイト、年齢だけで落とされた件

完全に愚痴ですが。

もう一度しっかり起業するために(特に精神面で)、まずは健やかなかつ前向きな姿勢になる事が大事かとも思い。一番やばかった時の体重110キロから3ヶ月で35キロ以上体重を落とし。その時の経験から近所のジムでトレーナーとして勤務を始めて引きこもりから脱出。そのうち、人間の体を更に知りたくなり、整体師としても働き、解剖学的観点からも人間の体を見るようになれました。もちろん、頻度は減りましたがトレーニングは継続していて。ただ、そのトレーニングは自重と陸上トラックを使用した走り込み等の追い込み系のみなので、そろをろウェイトトレーニングの世界もしりたいな、と。とはいえ、あくまでも起業するまでの生活費を稼ぐアルバイト。なので4月から勤務が一番職もあるかな、と思ったのだが、やはり職はある。

 

どうせ勤めるならジムの頂点。ゴールドジムだろう。ちょうどタウンワークから申し込みが出来た。アルバイトなので経歴書などを書く欄はなく、名前と連絡先と生年月日と職務場所希望欄。せっかくなのでトレーナー経験者である旨も付け加えておく。

 

朝に入力して。その日の正午に連絡が。

「選考の結果、見送り」

へ?選考って、名前と年齢しか入れていないんですけど。

マジか。

私が今勤務している場所でも思うし、自分も40歳を過ぎてわかったのが、肉体の加齢の変化。そんな事プロの筋肉ムキムキの40歳以上の人ならみんな知っている、と思っているかもしれないが、私ぐらいの丁度一般人に毛が生えた程度の人に訪れる加齢による変化はこの歳にならないと決してわからない。総合格闘技をやっていた若い時には気づかなかった事が今になって沢山あり、それで肉体の衰え、回復の遅さ、故障の多さもわかってきた。つまり、トレーナーは若ければいい、というわけではない、と思っている。しかも私のように継続してトレーニングしているにも関わらず、ムキムキなプロっぽいくない人はそうはいないと思う。そして客も30代、40代、50代が一番多いはずだ。

客からの需要もある。こちらも提供できる知識もある。なのに会社(株式会社THINKフィットネス)側から年齢でNoと言われる。募集要項には「未経験者歓迎」とある。

 

なんだ、これ。年齢だけで落とされる。年齢関わらず体を鍛え続ける事で精神も鍛える事が出来るはずだ、と思っていたのに。その国内一番の会社が年齢だけでたかがアルバイトの採用を落とす。こんな事があっていいのだろうか。

いや、これが今の日本の現実なのだ。嫌なのであれば

「そんな会社、どうでもいいじゃん(ゴールドジムなんて、クソだよね)」

じゃない。そんな日本社会を変えないといけない。それがバブル世代に虐げられてきたベビーブーマー世代の私達が出来る事だ。

 

と強く思った。

でも、正直落ち込んでます・・・・

以上、愚痴でした。

先生と生徒の恋愛モノがなぜ日本で問題にならないのか、その根深い社会問題

やっとその根深さの原因がうっすらとわかってきた。それは日本に根深くある、

「年齢差別」が原因なのだ。

 

ここでおさらい。なぜ未成年の学生(主に女子)と先生の恋愛が問題なのか。

法律的。淫行。しかし、真剣交際ならOKというバカな判例があった。まずここだ。

そもそも未成年には色々な成人と違う制限がある。なぜなら、自分で責任を取れない、また多角的な判断を出来る経験が少ない、など、未成年としての理由があるからだ。

そんな中、中学、高校は閉鎖された世界であり、触れ合うのはクラスの生徒と教師だけだ。バイトをしている人はその限りではないが、中学生では始めて多くの時間接する大人が教師という人が大半だろう。多くの大人みて比較分析をするも何も、その選択肢も少なく、分析できる程の知識、人生経験が無い。しかし、小学生から中学生になると、途端に自分が大人になったようなきがするもんだ。いわゆる、思春期だ。この時期は情報への渇望感が半端ない。ネットや雑誌、友達や先輩の異性交友話等を興味深々に聞いたりする。そしてその次には欠乏が起きる。思春期独特の衝動の受け皿が無いのだ。男女とも自慰行為に熱心になる事もある。

そんな中、教師という絶対的に近づける立場の人間がアプローチするのだ。選択肢が無いのだから、大半の子は落ちる。元々未成年で視野が狭いのに、思春期の興味と情動がトンネリングを生んでその教師しか見えなくなる。そして、教師はそのことを児童学で学んでいるので知っていて利用する。

この、恋愛におけるトンネリングは実は成人にも起きる。同じ会社内の上司と付き合った時。会社内では頼れるし、相談に乗ってくれるし。だからこその恋愛だったはずなのだが、いざ結婚してみるとただのおっさんで、会社で見ていたかっこい上司の姿とはほど遠い。よく見るとだらしない中年だ。しかし、これは本人が自分の目にフィルターがかかっていた事をちゃんとその後自覚しているし、それを選んだのも自分だから自己責任である、という事もわかっている。なぜなら大人だからだ。

問題は子供、未成年の学生にその自己責任を課す事がいかがなものか、という事だ。会社の上司よりも精神的にも中にはいる事が出来る教師という立場を利用した人間との恋愛に本当に妥当性があるのだろうか。むしろ、判断力がない未成年だからこそ、守る事が社会で必要であり、その為の教師である事をなぜ日本社会は追求せず、教師と生徒との恋愛映画ばかり作るのだろうか?諸外先進国なら児童虐待で重大犯罪だ。

ここに、映画での教師役にヒントがある。イケメンの20代俳優である事が多いのだ。以前に、教師を目指している大学生にこの問題を言った時に

「高校生なら16,7歳でしょ?俺が卒業したら23歳。6歳差のカップルって普通じゃないですか?」

と言っていてたまげた事を思い出した。今までの文章の中で、私は教師と未成年の生徒、としか言っていない。つまり、教師という立場が問題だ、と言っているのに、現場の学生は年齢を言ったのだ。ここに日本社会の闇を見たのだ。

 

教師という職業の大切さ、道徳よりも、教師を単なる身近な若い、優しいイケメンの異性とだけ捉え、そのモラルハザードに目を向けようとしていないのだ。

 

これは日本がすべてにおいて年齢差別が存在している事が根本的原因だ。

例えば、映画の相手役が中年のおっさん、しかも決して外見がイケメンじゃない場合はどうだろうか。実際はそうした見た目の教師が毎年女生徒に手を出している例を私はいくらでも知っている。それが現実だ。それだと反対、という事になるだろう。いきなり、教師という問題を出してくるだろう。

あらゆる所にこの「年齢」という差別が日本にはびこり、物事の本質である重要な事から目を背ける、見ないようにしている。モラルや機会、人間性。あらゆる所で人々の判断基準になってしまっている。

 

教師と生徒の恋愛に若いイケメン教師ももちろん、いるかもしれない。その点だけを見て、本来守られるべき生徒に純愛的バイアスをかける必要が本当にあるのか。大人たちはしっかり考えるべきだ。

 

我々しか子供を守る事はできないのだから。

 

安室奈美恵の引退について

もちろん、本人の人生だから他人がとやかく言う事ではない。しかし、日本社会という点において、やはり言っておかないとならいとは思うのだ。

数年前から安室奈美恵はマスメディアに出演する事はせず、コンサートでもMCをしなくなった。人間性を感じる事なく、安室奈美恵は徐々にイメージが先行というか、勝手にカリスマとなっていく。かつて下品な物言いの元祖として人気のあった梨花がTV出演を止めて喋らなくなったら勝手に雑誌の表紙等の仕事が増え、本来芸能人として活躍していた頃のイメージと違った、美のカリスマ的イメージが勝手に作られたと言っていたが、勝手かどうかはおいておいて、そうした面はあるとは思う。安室奈美恵もその領域にここ数年は入っていた。つまり、安室奈美恵は年齢を止めてしまったのだ。人間安室奈美恵ではなく、ミニスカのディーバとして時が止まってしまったのだ。

人間である以上、そんな事は無理であり、老いがやってくる。そうなる前に引退を決めてしまった。

 

だが、私はあえて安室奈美恵は等身大で居続ける事が出来る人だと勝手に思っていた。マドンナのように歳を重ね、子供も登場しても活躍する人になれるのだ、と。というのも、日本はロリコン文化であり、年齢で女性を判断する。こうした世界を破る事が出来る象徴として安室奈美恵はあって欲しかったのだ。女性の社会進出、女性が自分らしく活躍出来る社会の象徴として。もちろん、そんな事を彼女に背負わせる事など他人が出来ないが、彼女程のカリスマだったらそれが出来るのではないか、そんな期待をせざる負えないほどの存在ではあった。

しかし、40歳で引退。以前と変わらない歳を取らない安室奈美恵のままで。これではやはり女性は若い方がいい、というロリコン文化、女性蔑視の社会は変わらない。

 

残念。