底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

中学聖日記

このブログでは何度も対象にしているが。

日本では教師の未成年へのわいせつ行為事件が後を絶たない。年間200件以上の処罰対象の教師がいる、という事は潜在事件(表面化しない)を含めると、私がざっと見積もっただけでも都内の公立中学に一人は必ずそういった教師がいる事になる。これは携帯すらポケベルもなかった私の中高時代でもそうだったので、この比率が下がる事は無いと思われる。

そんな中、社会と形成する大人達は自分たちの社会をどうするか選ばないとならない。教師は子供が始めて密接に触れる大人なので、親と比較するので立場上好意を抱きやすい(もちろん、その逆もあるが)。逆にSNSが普及している事でワイセツ行為目的の教師は手を出しやすい。そういった背景の中、どうしたら子供達を守る事が出来るか。

ある程度固まった信念の元に自己判断が出来ないから未成年であり、だから選挙権が無い。そうした未成年を守る為に法律(なぜか条例レベルだが)ができ、淫行条例がある。つまり、教師という立場を利用して生徒に手を出す事は児童虐待と実際は同等なのだ。

ただ、教師と生徒、という恋愛関係を創作するな、というのはまた違う。表現の自由はあるので、漫画であろうが小説であろうが。アダルト動画であろうがそういった作品はあり、その嗜好の人は購入するだろう。問題があれば18禁にすればいいだけの話で、各個人の嗜好まで止める事は無い。その欲望を抑える事が出来るのであれば、そういった嗜好の人が教師になる事もあるだろう。

ただ、そういった題材(好意的にワイセツ行為を描く)を地上波で幅広い人達に放送するのは問題が別。見なければいい、という話は視聴者側の能動的な行為であり、それはその他創作物と同じで、小説やアダルト動画と同列に地上波テレビを扱うのはどう考えても影響力が違う。例えれば、電車で痴漢された女性がその痴漢に恋をする、というのを好意的に(痴漢されるOL役が有村架純、女子高校生役が広瀬すず、とか)描くのと同等だ。

考えないとならないのは、少なくとも年間200人以上の被害生徒(男女含む)がいる、という事だ。自分が身体だけで弄ばれた事を全員がいい思い出、となっているわけがない。人によってはPTSDで苦しんだり、人によっては自分の存在価値が身体だけ、と自己評価が下がり、お金に苦しんでいなくても風俗に身を投じたり。そうした子供達がいる、という事だ。その子供たちはこういった、教師と生徒の恋愛を純愛のように描いたドラマを人気俳優が演じ、それを称賛するようなネットPR記事を見た時にどう思うだろうか。「私があの時我慢すればよかったのだろうか」と世間から自分が取り残されたように思わないだろうか。また、現在、ワイセツ教師からまさにオンタイムで行為を受けている生徒は「これはあのドラマのように、純愛だよね」と自分を納得させる事にならないだろうか。

大人の判断と子供の判断を同列にするのではなく、自分が中学生の時を思い出して、その時の判断力、見識を考えて子供を社会で守る事。それは日本という国を構成する日本人としては当たり前の事だと思うのだが。

 

それでも、自分の欲望、性癖を優先して地上波や映画で教師と生徒の恋愛を描きたいのであれば。描き続ければいい。その時はいつか自分の子供、知り合いの子供が被害にあう事をしっかり想像して。

 

ゲームショウの女性コンパニオンは日本やアジア中国などのアジア圏だけになっている

オタク=大多数が男性、によって出来た、女性キャラと言えば、幼女、妹、巨乳、ウエストが細く、足長とか、色々ある世界観にスマホゲームや漫画によって今やファンの半分以上が女性というモノもあるぐらい、女性が進出した事によって、「ん?なんで女性って全部同じ扱いなの?」的な目線が生まれて、欧米では女性コンパニオンという文化は消えている。

これは当たり前の話で、男性だけで作られた世界に女性が交じる事で均衡が取れただけ。男性の欲望を具現化した世界は生存し続けるだろうが、それを大手ゲームメーカーが率先する必要は無い。ただ、アジア圏の先進国では未だ女性蔑視、女性は性のはけ口であり、男性よりも劣っている、という発想が強く残っており、その象徴が女性コンパニオンだ。

いやいや、これは文化だ、とか、やらしい目ではない、という人もいる。しかし、実際にレイヤーの撮影会を見れば、やらしい撮影をする人の数は決して少なくない。では、なぜ欧米の方が先に女性コンパニオンは女性蔑視だ、と消える事になったのだろう。

 

それは簡単。欧米の男性は自分たちの性を開放する事で快楽を得るからだ。これは欧米のアダルト動画を見た事ならわかると思うが、男性が達する時、「オーマイガ!」的に叫びながら口を開けている事が多い。これは開放=快楽の絶頂を意味している。この延長上が女性への接し方。普通の道であっても、夏に日本女性のような裸に近いセクシーな格好&ヒールなど履いていると、若者が「おいおい、やせてくれるのか~?」とからかってきたりする。だから渋谷にいる若い女性のようなかわいい格好は例えばフランスだと、男性から卑猥な言葉をかけられまくるので出来ないという。

しかし、アジア圏は逆。成人動画で男性がイク時は「う!」と目を閉じて唸る事が多い。一瞬苦痛なの?と思うような表情。これはアジア圏では抑え込む事によって快楽を得るからだ。

なので、女性コンパニオンを触ったり、卑猥な言葉をかけて男性目線の欲望を表に出す欧米の方が先にその問題点が表出化しやすく、廃止になる。アジア圏の男性は思っている事は同じなのに、それが表出させないので、それが問題視されにくいのだ。表面に出ていなければ表面ではいくらでも嘘が言える。別に卑猥な目で見ていない、これは文化だ、と。

確かに、日本では行動に出す人は欧米に比べて少ない。だからこそ、それを想像力という形で創作意欲として性欲を開放してきた部分もあるかもしれない。しかし、女性蔑視、女性を性欲で見ている事には変わりない。

 

表現の自由はある。だから、今までの通りの制作をしていても構わない。それはまた昔のオタク文化のように育ち、オタク文化は表と裏に別れていくのだろう。だが、未だに女性の性を商品としている女性コンパニオンをナショナル企業が大々的にバックアップする事はアジア圏を文化的にガラパゴス化させる行為だ。

 

ちなみに、私は綺麗であれば女性も男性も好きなので、コンパニオンは男性と女性がペアでいるべきだと思っている方である。女性がいないと寂しい、とかではなく、2次元の世界の3次元化にワクワクするからである。

 

ある一定の恵まれた層が考える悲しさとは。ある劇団の旗揚げ公演

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。

アニメがヒットした時期があった。実写にもなり、ドラマでは今昇り龍の浜辺美波が中心キャラの「めんま」を演じた。感動した、名作だ、という声を聞き、両方ともチェックしたが私にはそんなに響く事は無かった。当時はなぜ感動しなかったか、の理由を確か

萌え要素の気持ち悪さ

・いくら好きな人とはいえ、まだ未熟な小学生の頃の出来事をひきずるのはおかしい

と思ったからだ。

本来の作品的にはそれはきっかけであり、ある意味それを逃避先として現実の辛さから逃げている、という事なのだろうとは思うのだが、実際の描写は本当にそれが原因のようにしか思えない描写であり、小学生から中学生になるとガラッと世界が広がり、それは学年が上がるほどに恐ろしい勢いで成長していく、という現実を考えるとあまりにも不可思議だった。

 

なぜこの話をするか、というと表題の少劇のオチがかなり似ていたからだ。ていか、インスパイア作品とも言える。ただ、違うのは小学校の転校生(死んでいない)を振り返る人達が全員30代という設定。これがまったく面白くない。

 

そもそも、劇というのは2つあると思っている。いわゆる、ただの劇。演者が楽しんでいるだけのマスターベーション。そしてわざわざ劇で描きたい、というだけの主張がある場合だ。もちろん、後者こそが私が金を出して見に行く価値のある「劇」だと思っている。そうした劇は説教くさくならないように、多くは表現にギャグを入れていわゆる、笑いあり、涙あり、のギャップで泣かせるモノがおおい。そして実際にブワッと劇中に涙が溢れ、終劇後なかなか席を立てない事もある。

 

表題の劇もギャグはしっかり入っていた。しかし、30代の人達の「あの花」ごっこに誰が共感してホロリとするのだろうか。しかしも、その30代の約10数人ほどがそれを引っ張っている(再度言うが、たかが級友の引っ越しだ)事による、現代の問題が一切描かれていない。なので、その劇を見た人達の感想のつぶやきを見ると

・笑った!面白かった!

・演者の人達の勢いが良かった!

ほぼこれだけだ。笑いたければお笑いライブを見に行った方がもっと笑える。演者を褒める事よりも、その演者によって何が表現されたのか、が大事なはず。その演者達によって何が表現したかったのか、がまったく感じなかったのだ。

 

ここで私はふっとわかった事があった。「あの花」で私が感じた違和感がやっとわかったのだ。それは、過去を振り返ってなんとかしたい、というその過去がある事自体が恵まれた人達の悩みである、という事なのだ。「あの花」は死という問題もあるが、それ以上にそこまで仲いい仲間のグループを持っていた、という事が既にリア充なのだ。

劇は更にひどい。30代になって小学生の頃の問題を解決したい、というのは自分たちの思い出を完璧なものにしたい、という傲慢でしかない。それは、現代で仲間、恋人、家族などがいて恵まれている人の発想だ。つまり、こんな事を感じる人達は「孤独」ではない、という事だ。

 

人間にとって病気よりも辛い事。それは望まない孤独であり孤立。これは全世界共通であり、結局どの物語もそこに尽きるという部分もある。だからこそ、誰もがそこを起点にして共感し、感動する。それは人間誰しもが自分が完全に理解される事はない孤独の世界に生きている証拠でもある。しかし、劇団の人達はそういった苦しさ、辛さはなく、自分たちが恵まれている環境にいる上で、「何かホロっとさせるオチ、ないかね?」と考えたのだろうなぁ、と思ってしまうような薄い内容。そんなもの、わざわざ劇で描く必要無い。いや、もしかしたらだからこそ、劇で描くのかもしれない。マスターベーションとして。まだ見ている世界が狭い中学生、高校生の劇みたいだ。

 

自ら孤独になる事もあるだろう。しかし、決して孤立する事はない人達が考える感動など、こうしたレベルの薄っぺらいモノなのか、と実際に喪失を体験して孤立してからずっと社会の底辺にいる私には更に自分が精神的にも孤立している事を感じる夜になった。

 

ドラマ「乱反射」から、再度考える事

小さな悪意やモラルの無さが社会全体を変えていく。

これはこのブログでも何度も主張してきた事だが、それに近い内容がドラマ、しかも地上波(もちろん原作があるのだが)で流れた事にびっくりした。なぜなら、私が見ている社会はこの通りであり、また、このドラマを見た問題意識のない人達は多分、「出ている人間、みんなクズだなぁ」と社会への当事者意識が無い事が多いからだ。つまり、ほぼ地上波では意味が無いと思われる内容だ。

 

今まで思ってきたのは、

・一人ひとりが社会に対する意識、それは目の前「個」の他人を尊重する事からスタートする。その意識の集合体が社会だ

という事だった。しかし、その意識が最近揺らいできている。そんな事無駄ではないか?大きな流れこそが社会であり、それはこのドラマのように、小さな悪意、モラル違反、マナー違反等の負のエネルギーの側面から逃れる事は出来ない、いや、それらが大きくなっているからこそ、格差が広がっていて、幸せな人と不幸な人の差が大きくなっているのだはないか。そして、不幸な人達はもう這い上がる事は出来ず、幸せな人達がより幸福になる為に社会は動き、どんどん不幸な人達が増えているのではないか。それが現実社会なのではないか。そう悟りつつあるのだ。

 

個人でできる事などたかがしれている。私が底辺にいる限り何も出来ないし、何の影響力もない。でれば、社会や他人など無視して好きかって生きている方がいいのではないだろうか。底辺ができる小さな悪意などたかが知れている。

・幼児がいようがいまいが、関係無く私有地、公園でタバコを吸う

・自転車で片手で傘をさす

・自動車で右左折の際、歩行者、自転車が若者で反応力がある場合、無視して優先してまがる

・ゴミを道に捨てる

・犬の糞を片付けない、リーシュコードをはずす

・粗大ゴミは路上に放置する

・自転車に乗ってその後電車に乗る場合、駅前のスーパーの駐輪所に長時間止める

こんな所だろう。もちろん、すべて私はする事が出来ない。ルールが云々ではない。そうした事を平気でする人間が一人でも増える事にる社会の変化に対する責任が取れないからだ。そう思っていた。

 

それも、一人よがりのバカな思想だったのかもしれない。

乱反射。不思議と善意はほぼ乱反射しない。ちょっと影響を受けて真似する人が出るくらい。

やはり、悪は強い。それが人間なのだろう。果たして私はどう生きるべきか。

 

有望な20代を採用しよう。若手採用ならキャリトレ!

日本は先進国と呼ばれる中では、採用時に未だに年齢差別が公式に横行している人間性を無視する事が当たり前の社会なのだが、それでもさすがに諸外国に対して劣っている国と思われたくない一心に(?)、男女平等(性差別撤回)、採用時の年齢制限の撤廃をうたった。しかし、男女平等とはいいながら、ヤクルトレディーや、カルディコーヒーファームのように女性だけの採用が許されたり、ベンチャー企業で写真が数名しかいないにも関わらず、「長期育成の為」という理由で30歳まで、のような採用が許されてきた。長期育成するほど会社が存続する事の方が難しい、もしくは長期に転職しないでその会社に居続ける人間である事の方が難しいのに。このようにはっきり性差別、年齢差別をうたうならまだいいのかもしれない。当たり前のように年齢だけで切る事が当たり前。そもそも職務経歴書だけでいいのに、履歴書まで提出しなければならないのがそもそも年齢で切る事が前提なのだ。

(ちなみに、ヘッドハンティング等の場合、職務経歴書だけでOKで、採用が決まった時に本人確認等で履歴書的なモノを提出するだけ)

 

そんな中、表題の通り、なんと企業の採用時の年齢差別を逆手にとって、採用サイトを作った会社のCMが流れ始めた。これが広告倫理を通ったのが信じられない。これだけ人手不足(しかし中年以上あまり)とも言われるなか、20代、とはっきり年齢までいっている。採用の世界では今まで30代前半まではまだ若手と言われていたのにも関わらず、だ。

 

問題は企業側、採用サイトの開き直りだ。我々産業界は年齢差別してますよ、と、公に認める事になったのだ。これは社会に大きなインパクトをもたらす事になる。このCMは大量に流れている。社会に問題意識を持って日々生きている人で無い限り、通常脳内に記憶として

有望な20代採用、若手採用

という言葉が刷り込まれる。これは意識的にも無意識でも、

有望な若手=20代

という同義にもなる。つまり、今までチャンスがまだある、と思っていた30代の潜在意識にも「もう、若く無いし、需要ないからおしまいだ」と思ってしまいがちになってしまうのだ。誰にも言われたわけでなくても、意識に刷り込まれていく。この怖さはその昔、誰が正しいと言ったわけでも無いのに、女性が30歳前までに結婚しないと終わり、と信じていてたのと同じだ。多様性無視するようなテレビ(特に日テレ)系などが頻繁に30歳過ぎの独身女性をバカにした事でも刷り込みは始まるのだ。

 

日本は労働においては既に4分の1は外国人でまかなっており、外国人労働者抜きでは社会が回らない。そんな中、同じ日本人を年齢で差別して切り捨てる。

雇う側はほぼ株式会社だろう。会社は利潤の追求、株主への還元が主な仕事であるのは確かであるが、それも商売できる社会があってこそ。雇う側は確かに立場が強いから選ぶ立場ではある。しかし、人手不足の中、日本人を豊かにしろ、とは言わないまでも、日本人を年齢差別して貧困層を増やす事に未来があるのだろうか。今は毎月定給を貰える人達だって初めてがあったはず。それは年齢等のタイミングもあっただろうが、「新人」という点で、年齢はほぼ関係ない。物覚え悪い人、ITに弱い人等は正直年齢関係無い。

 

こんなCMが許される日本。最近の様々な事件を見ていても、日本人は日本人を追い込んで人口減や犯罪者にさせているとしか思えない。

 

ま、私も現在絶賛年齢差別受け中なんですけどね。

マンガの実写ドラマ化、『幸色のワンルーム』テレ朝が放送中止 「誘拐肯定では」指摘受け

男性が女性を誘拐、拉致した上に精神的支配下に置く、というのは昭和の映画でも定石であり、アダルト作品でも多い。そして、それが未成年であれば更にやりやすい。本人の意思(家庭での虐待等で)があっても、自分の身の振り方の判断、責任が取れないから未成年なのだから、そうした子は保護するのが当たり前であり、それは知識の無い一般人ができるものではない。今や多少犯罪心理学系ニュースを見ていれば、悲惨な状態から救いだしてくれた人=救世主=好感を抱く、という心の流れぐらい知っているだろう。あとは懐柔して情報をシャットアウトすれば、自分だけを慕ってくれる人間が出来上がる。情報を遮断しないと性的対象にされている客観的事実に気づいて恋心が覚めるという事もあるのだが。それには数年かかる事もある。いや、性的対象ではなく純粋に保護したかった、と主張する犯罪者もいるのだが、それにしては監禁される女性は一般的に外見が整っている、いわゆるかわいい方に入る子が多いのがおかしい。差別発言になって気が引けるが、こういう事件で実際にいじめられているだろう、デブでブサイクな女の子ってほぼいない。この時点で少女を性的な目で囲いたい、という欲望が完全にない、とは言えない。

 

精神的に落ちている人間を引き入れるのは比較的に簡単とされている。女性を口説く時には前の彼氏と別れた直後、とか。不倫で悩んでいる女性も落としやすい、とか。私も失職してから宗教の勧誘が激しくなったり、とか。強度のストレス状態は精神的に不安定になり(自立神経失調状態)、自ら安定を作ることができなくなり、外部に救いを求めるからだ。思春期はそもそも精神的に不安定。男女とも今までとは違う異性への感情(性欲、といってもいい)が芽生える。その時に引き込む事はやはり比較的簡単だ。そこにさらに問題(家庭環境、部活、いじめ、成績等)があったら更に簡単だ。だからこそ、毎年200名以上の教師が未成年へのわいせつ行為で処罰されるのだ。何度もこのブログでも言っているが、そうした異常な状態をなぜかマスメディアは肯定的に描く映画、ドラマを作りたがる。

そして、今回はついに、最近頻繁に事にもなっている拉致監禁にも手を出した。連日、SNSで知り合った家出少女を自宅に泊める、連れ回す、というニュースがあるにもかかわらず。未成年保護の為に出来た法律を理解していない大人が大多数いるのでは、と推察してしまう。何も強制していない。未成年側が勝手にやってきたのだから問題ないのでは?SEXしなければOKなのでは?と。これは社会に無責任な日本人らしい発想で、例えば今年の4月から都の条例で子供のいる前では喫煙は禁止となったのだが、保育園児が遊んでいる公園でタバコを吸う人は全然減らない。屋外の敷地内で吸う人も減らない。他人、といってもわからないバカばかりだから、せめて子供、という言い方にしてもわからない。それが大多数の日本人なのだ。

だからマスメディアがこんなマンガを公共の電波で不特定多数に流そう、という事を企画し、誰も反対せずにずるずる進んでしまったのだ。

 

未成年を大人が食い物にする。自分の欲望の為には他人の人生を曲げても構わない。そうした人があまりも多いのは、自分の鈍感さ(の一部分)が他人も同じだと勝手に思っている身勝手な人間が多すぎるからだ。

未成年へのわいせつ行為→期間限定でやめるから問題ないよね

PTSDへの無理解)

パワハラ→自分もそうやって育てられた

(都合良く自分と他人の同化)

教師のわいせつ→生徒が勝手に慕ってきたからいいよね?数回だし

PTSDへの無理解)

他人にタバコを吸わせる→ちょっと吸わせても体調に問題ないよね

(他人を不快にさせる側である事を認識していない)

 

ありとあらゆる事にあてはまりすぎて支離滅裂になったが、自分の欲望の為に他人の人間性をないがしろにする社会。ここからいったいどうしたら脱却できるのか。

その方法がまったくわからない。民衆を先導すべきマスメディアでさえこの体たらくなのだから。

 

創価学会への勧誘が更に激しくなった件

 前からもちょくちょくあったんだけどね。今無職の状況が続いているよ~、と伝えたら、勧誘、激しくなるよね。聞かれたら嘘つく必要もないからさ。

そう、私は人間を無視するとか、そういうのは一番卑怯なやリ方、って思っている人なの。マザー・テレサがいう、「愛の反対は無関心」っていうのを、結構信じちゃっている妖精的な部分があるわけ。だからラインをブロックなんかしない。ちゃんとがぶり4つで付き合う。でもそれも限界くるよね。なぜなら話の平行線になるから。

私、議論は大好きなの。違う意見の人とやり取りして。新しい考えを取り入れる。肉体が筋トレ等、トレーニングよって鍛える事ができるのと同じ。精神もトレーニングして鍛え続けないといけない。そのやり方は常に刷新して行く力、自分で考える力だと思うし、それが人間の力の根源だと思っている、ちょっとライトノベルの精神世界的発想なわけ。もちろん、これはこの長い辛い人生でたどり着いた事。だから、全員が同じ教義でつながっている宗教という団体はそれによる安心感、そしてその安心感から生じる幸福感。そうした事を否定する気はサラサラないのだけど、私からすれば精神トレーニングの停止であって、私の生き方と相反するわけ。

後、同じく、生物の反映には多様性が必要とも思っている。それは肉体や種だけでなく精神にも多様性が無いと、成長も反映も無い、と思っている、ちょっと神目線な主義でもある。だから色々な考えの人がいるのが当たり前で、それを皆尊重し合う事が大事、と思っているの。

だから、絶対に宗教はやらないのさ。この事は面と向かって説明している。でも宗教家からすれば、「本物の宗教家にまだ合っていないからだ。」と言うわけで、更に上の幹部に会わせようとするのよ。本人は支部長なんだけどね。

もし会ったとして、私は他人を無碍に出来ない質なので、そうなると先方も「いや、別に入会しないでいいから」と連れ回す戦法になるのは必死。そしてずるずる色々な会や催しに参加させられて。最初は無料だけど、超極上の肉会とかはさすがに有料とかなって。そうなると、今度は有料の会が増えて。それつながりで仕事を何本かして。そうなると外堀が埋められる。

「途中の仕事A、B、Cを完結させるにはDが必要。でもDは学会員じゃないと出来ない。だからまだ半信半疑だと思うけど、とりあえず、学会に入会したら?だって、今までの入金考えたら正直入会しているのと変わらないよ?」

なんて言われてしまったら。もちろん、そうした事を利用して芸能界で活躍している人もいるでしょうけど。私、人間の成功とは精神の統一も含んでいるのでね。自分の信念を曲げてまで生き続ける事に疑問を覚えるので、やっぱり無理よね。だから私のような断れない人ははじめから参加しちゃいけない。

だからついにはっきり言ったよね。

「勧誘は迷惑で、私の気分を害する権利はアナタには無い」

ってね。そうしたら止まった。

 

ただね、彼は本当に良かれと思って勧誘しているんだよね。中年で無職で孤独なんて。なんて酷いんだ。アナタはそんな所で埋もれる人材ではない!って本気で救おうとしてくれている。ただね、これは結局今の私が世間的に不幸な存在である、というのが前提なのよ。これがまた腹が立つのさ。確かに、このブログの作り始めの時は自分が世の中で一番不幸だ、ぐらい思っていたさ。何か吐き出さないと自殺しそうだったからブログ始めたのも事実よ。でも、その孤独と社会のヒエラルキーの底辺でじっと耐えた結果。それはそれで新たな境地に達しているわけさ。立場は何も変わっていないどころか年齢を重ねている分、年齢差別がある日本社会では更に底辺の存在だと思う。でもそれは他人が決めつけている事であって、自分が決めつける必要はないよね。もちろん、何も考えずに毎日ゲームとかしてい精神鍛錬も何もしないのであれば確かに年齢の重ねなんてなんの意味もないのかもしれないけど。私なりに修行僧のように鍛錬しているわけよ。だから、世間一般の常識で見て私を不幸と決めつけているその態度って何さ、となるわけよ。本人はもちろん私を馬鹿にしているつもりは無い、っていうけどね。自分が知っている常識の範囲を越えているんだよね、私って。そりゃそうだよ。神様じゃないんだから、他人の人生を推し量って決める事なんて出来ないんだから。

それとね、幸福ってある程度誰でも決まっているのよ。定職があって、定収入があって。家族がいて。友人がいて。幸福学だと年収700万以上は金額による幸福度は変わらないっていうしね。実際私もそれ以上もらっていた時もあるけど何も変わらなかったね。でも、不幸は違う。不幸は人それぞれ。全く違う。年収2000万円を超えていていても人生に不幸を感じる人もいる。それはつまり、他人に理解されにくい、という事。つまり、不幸とは、孤独なんだよね。

あ、これ名言。不幸とは孤独。他人に真に理解されない、という点でね。だから宗教家はそこに寄り添ってくるのよね。基本、不幸は他人には理解されない。だからこそ、そこに親身になってくれる人ってなかなかすごいわけよ。でもこれを計算として切り捨ててしまうのはかわいそう。彼らは本当によかれ、と思っているのだから。足りないとしたら、不幸で弱っている人間の思考を本人の意思とはいえ、洗脳に近い形で勧誘してしまう事に対する罪悪感を全く感じない所かしら。まあ、それが善行なのだから罪悪も何もないんだけど。

 

という事で、無事怒涛の勧誘攻撃から逃れる事が出来た、というお話でした。