底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

教師が生徒を殴る動画での世間の反応での違和感

私は教師であろうがなんであろうが、暴力で相手のいいなりにしようとするやり方は全く賛同できない。それを「教育」「指導」などと言い訳を付けてやるのはもってのほか。

気になったのは、あれだけ挑発されたら殴っても仕方がない、という雰囲気で発言する人が少なからずいた事だ。そういう人はプライベートで人を殴った事があるのだろうか。

私は総合格闘技を11年ほどやっていたが、子供の時から今までも人をプライベートで殴った事は無い。学生の時に喧嘩をした事はあったが、実は殴っても蹴ってもない。一方的に殴られる事もあったが。というのも、自分は昔から体が大きく、また力もあったことと、人を殺す術をずっと考えていた事で、もし自分が殴ったりしたらその時は相手を殺してしまうかもしれない、と小学生の頃から思っていたからだ。だから、どんなに挑発されようが殴った事はない。20代の時に酔っ払いに電車で絡まれた時、口論になったが結局電車内で仲良くなったり。ぶつかってくる酔っぱらいに暴言吐かれた時は払腰で体を浮かして、そっと怪我しないように着地させた事はあったが。だから、あの動画のように生徒をボコスカ殴る教師はどんな事情であろうとも、一旦教職は離れるべきだと思うのだ。大人同士でもありえない事を子供相手に行使出来る人は精神状態が普通だと思われないからだ。相手が悪くてカチンときたら何してもいい、というのでは強引は割り込みをされて怒って追いかける煽り運転と何ら変わらない。

 

問題はまず、この教師が暴力をふるった、その是非を問う事ではない。以上のように、人間が人間をプライベートで殴るという、常人ならありえない事をしてしまうまで追い込まれた精神状態である、という労働環境だ。この動画だけで彼は殴ったわけではなく、今までの蓄積があることは想像に難くない。そのフラストレーションを解消する事ができない仕事場が、一人の教師の暴発につながるのだ。生徒、親、教師内。強ストレス環境が生む負のエネルギーをどうしたらいいのか。それを考えないと今後も教師の不祥事(暴力、性犯罪等)は無くならない所か増える一方だろう。蓄積した負は発散しないと本人が壊れてしまうわけだから。

また、生徒側の教師を追い込むやり方にも目を向けないとならない。この動画の挑発までに、日常でじっくり精神的に追い込んでいたはずだ。こんな会社のパワハラのようなやり方をまだ未成年の生徒が今までは出来るわけがなかった。それが生徒側が出来るようになった、という事実。これはもちろん、大人がそういった社会を見せているからだ。SNSで見る、公人に対する罵詈雑言。特に未成年の芸能人に対する大人の誹謗中傷などは恐ろしいものがある。それらを見て育ったSNS世代の子供たちは、立場の違いを理解した上で自分達のフラストレーションを発散する術とそれをやっていい、と社会(大人)から学んでしまっているのだ。

 

この動画は以上の、「教師という現場がヤバイことになっている」「子供がヤバイことになっている」という現実に向き合うモノであり、それらは今の大人たちが蔑ろにしてきたツケ(負のエネルギー)が溜まっている場の象徴的な出来事だと思うのだ。

今東京では、子供よりも大人が率先して社会のルール、マナーを破るのが普通になっている。子供は当初しっかり守るのだが、親やコーチ等、大人が守らないので次第にそうなっていく。その過程をここ数年見てきた。私の子供の時は大人はそれらを守る存在で、子供は大人に隠れて破るモノで、見つかると怒られる、ということで社会規範を学んできたものだ。しかし、親やコーチが当然破るのであれば、道徳を教える教師が軽んじられるのは当たり前だ。破る方が個人的に得をするのは必然だからだ。それによって社会が回らなくなるとか知ったことではなく、自分達が得をすればいい、というのが今の東京の親達の教えらしい。もちろん、そうではない人もいるが、そういう人の子供は徐々にクラスから浮いた存在になってしまうだろう。

 

この動画を自分達には関係無い教育現場として自分達の勝手は正義感で論じるのではなく、自分達の振る舞いで今こういった教育現場を生んでしまった、と、当事者として考える事が我々大人の勤めなのだと思う。

 

と、結婚もしていなく子供もいない孤独なおっさんだから言えるんだろうけど。心に余裕があるから。

 

 

漫画、ホムンクルスを読んで

衝撃だった。主人公はまさに自分だったからだ。

ベンチャーから仕事初めて。キャリアを得る為に転職を繰り返し。世界有数の会社に入社出来るようになったら世間からの扱いがガラッと変わった。私自身は何も変わっていないのに。不動産屋でも、「まあ、立派な会社にお勤めですから」と、態度が急変。マンション投資等の電話も急に多くなった。違和感だらけだった。私の今ままで会社にささげてきた実績、努力に対する評価は?大会社勤めだったらそれでいいのか?と。しかし、唯一当時の彼女だけは私という人間を見ていてくれているのかも、と思っていたが、フラれてそれも崩壊し、酒びたりの生活になった。そこに逃げるしかなかった。

 

立ち直るには私のような理論はそれなりに論理が必要で。散々悩んだ末に出た結論が、

「私という人間には価値は無い」

という事だった。社会的にも人間的にも底辺の存在。それが私。底辺であれば後は上がるだけだと思った。しかし、世の中そんなに甘くはなかった。過去に会社名や会社での業績で評価された、という事はそれが無くなったら単純にその人で評価される、という事。日本では年齢で人を判断、差別する事は肯定されている社会だ。そこに離職期間が加われば、私は希望するアルバイトを受ける事さえもできない存在になっていた。

 

ここで問題なのは、ずっと底辺の生活でその環境しか知らなければ、見識もその範囲で悩みもその範囲であった、という事。しかし、もともとBtoCサービス専門で一般消費者にアンテナを張るタイプであった事に加え、更に自分が底辺になった事でより幅広い階層社会の現実を知る事となってしまった。だからこのブログを始めることで精神の均衡を保とうとした。この状態はまさにホムンクルスの主人公の冒頭の状態だ。他人の事が分析できてしまう。わかる、というのとは違う。人は自分が生きている階層での常識にとらわれて、それが決定思想のバイアスとなっている事が多いからだ。自分は立場は底辺だが、この人達とは違う、と思いたい気持ちが強くあった。

 

月日もたち。自分の中に残っていたプライドが全て無くなって思ったのは、「人間、みんなほぼ同じ」という事だった。自分も他人もそんなに変わらない。性格という事ではない。人間という存在自体だ。大きく心に10個ほどのスロットがあってそこに何を埋めているか。会社、家庭、子供、自分の趣味等、人はそこに全て埋まったら他は考える事はできない。そして善悪も完全なものではなく、大概上限2割ほどまで悪があり、その悪の出し方は人によって濃くでたり薄くでたりする。合計その人の2割ほどが完全(社会的に)悪であり、この2割を超えてくると犯罪者になったりする。この悪の部分の影響力はヒエラルキーの上位になるほど大きくなる。しかし、人間単体としてみた場合、全員同じ。

この状態がホムンクルスでいうラストに近い境地だ。

 

ホムンクルスのレビューをネットで見てみたら、後半理解できない、というのが多かった。これはこの境地に至っていないからだ。前半までの境地は一般的に人にある、「自己顕示欲」だ。なぜレビューを書き、わざわざネットに晒すのか?ツイッターは?インスタは?他人に、いいね!(もしくは逆でも)反応してもらいたい、承認欲求も混じっている。社会に生きている限り、相対的に自分の価値を評価してしまうわけで、その結果をわかりやすく理解できる結果でないとその欲求は埋まらないのだ。ネットでの誹謗中傷者も同じ。自分勝手な正義感=正義、と信じて発する事で自己顕示欲と承認欲求を埋めている。誰もが持っている感情だからそれが他人を攻撃する事に向かわなければ仕方がない部分だとも思う。では、私のように自己の評価に比べて、社会から年齢、経歴で孤立させられている人間はどうやって人間本来の欲求を埋めるのか?

 

ホムンクルスでは主人公は不毛な手段を取らざるおえなかった。しかし、その行動は痛いほどわかる。社会的には何もかも失った自分に残された、自分という存在価値、存在意義は人間たる能力、思考そのものだからだ。そう、人間本来の存在価値、個性というのはこの思考回路であり、この外見や肩書を越えた人の区別であり、だからこそ機械作業と人間作業は区別されている部分であるはずなのだ。しかし、日本社会は人間をそのように見ない文化が歴史的に長い。まずは階層。そして性別年齢。為政者が作ったその社会バイアスに庶民は長い間支配されてきた。近年、急にマスメディアでも人間の多様性を入れてきているのは作り手側の挟持とも思うが。しかし、法律という秩序最高峰でもまだ差別が当たり前のこの国でこのバイアスから逃れるには自分でそれなりに勉強をしないとならない。それができないとホムンクルスの主人公のようなラストを迎える事になる。現実としてああなる、という事ではなく、メタファーとして脱する事のできない人生になる、という事だ。

 

では、自分はどうなのか。実はラストの主人公と大して変わらない感じになっている。この漫画を読むまでもなく、自己分析は常にしているから。というのも、見なければいいのにmixiの胸糞悪いニュースのコメントなどを見てしまうからだ。まだ底辺初期の頃はむしろ見る事ができなかった。その悪意の塊に心がやられてしまったからだ。しかし、自分をある程度取り戻した今は、むしろやばそうなニュースの時にちらっと見るようになっている。例えば、日韓系や芸能人の不倫、未成年の性暴力、レイプ事件等だ。必ずといっていいほど、そういった事件の時のコメント数は膨大な数になり、そのほとんどが糞のような内容で、それに多くの「いいね!」が付くからだ。そう、私はホムンクルスの主人公のように、それらの視野の狭い非論理的な正義感、もしくは誹謗中傷を見て、「自分はまだこのレベルにまで落ちていない」「自分はこの人達とは違う」と心の安寧を得ているのだ。これはインスタやFacebookで自己を晒して他人からの自己顕示欲を得る事と、手段は違っていても変わらない。承認欲求が無い分、精神的に辛いのだが、ここはホムンクルスの主人公と同じとも言える。

 

とても哲学的な漫画だった。多分、ネットで自己顕示欲を満たす必要のない、多くの人達にはこの漫画は響いたのかもしれない。自身の救いはどこにあるのか。それは自分で考えて答えを出さないとならないのだなぁ。と思った。ただ、今のように、他人は自分である、という考えが根底にあるうちは思考として見識の狭い人達を区別して見る事=見下す事につながらない、なぜなら自分も同じ人間であり、見下す=自分を見下してしまう事になるから、見識の狭い人でもその他で私よりも勝り、結局総合的には私と同じ、もしくは少し上かも、というのが、果たしどうなのかしら、と疑問が湧いてきた。

というのも、それは真理かもしれないが、それで私が幸せか、という事だ。単純に自分は特別で世の中はバカ、という見方をしているおっさん達の方が精神的には私よりも幸せなのでのでは?私のように何でも複雑に様々な観点で考えるよりも、単純な善悪とか、テレビの報道を信じて一喜一憂したり、他人の活躍を同一視して元気を貰える性格の方が人生楽なのでは?私もホムンクルスの主人公もそれができないで自分を問い詰め、答えを出そうともがく事に終始してしまっている。それは幸せとは遠いのでは?

 

そんな事を最近悩んでおります。なのでまた社会で組織に所属する仕事をして、様々な階層の人間に会う仕事がしたいなぁ、と考えているだが、年齢で書類も通らないのだろうなぁ・・・。

NGT48 山口真帆の暴行事件で思うこと

運営の対応がどうこう、とかいう正論は他の人達にまかせて。私が思ったのは今の日本社会では「会いに行けるアイドル」というビジネスモデルはもう限界になったのでは、という事。

秋葉原48として始まった時はファンとはオタクであった。ざっくり言えば、多くが「電車男」的な男性が多く、チェックシャツをインする、小太りもしくはみすぼらしい青年中年が中心。スクールカーストで言えば底辺あたりの人達。こうした人達が中心となって、冴えない自分と違ってアイドルを同一視して応援する。だからこそ、アイドルが輝く事が嬉しいわけで、応援する。同一視なので、それは社会で底辺あたりの自分も満たされる事と同じだからだ。

しかし、この会いに行けるアイドルブームが起きてから10年以上。未だにテレビでインタビューするのは世間がイメージするオタク(メガネ、ファッションがださい)人ばかりを映すが、そのようなオタクもたくさんいるが、むしろ普通のファッション、むしろかっこいい方なのでは?という若者や綺麗な若い女性が多く、昔からの中年的ヲタ達が一角に集まっているだけ、というグループもあるぐらいだ。これは会いに行けるアイドルというのがもはやヲタクの同一視の対象ではなくなり、一般的になった、ということ。

私の1割理論で言えば、昔から一定数は悪いヲタクはいた。しかし、絶対数が少ない事と、ヲタク同士の監視の目(トップヲタ制度)等、尽くすヲタク同士の尊敬や敬意があった事で防げる部分もあった。しかし、一般的になった、という事はこの秩序が崩れる。ヲタクの世界が一般社会の人の配分に近くなる、という事はそれだけ悪い人間の感じも一般社会に近くなる、という事。アイドルを応援したい、近づきたい、という事で起きていたファン的な事件だけじゃなく、一般社会と同じわけだから、自己承認欲求を満たす為だったり、単純に性欲だったり。事件のバリエーションが増えていく。

 

川栄李奈入山杏奈が暴行されたり、冨田真由がめった刺しにされた時に業界は気づくべきだったのだ。今の日本社会は会いに行けるアイドルというビジネスモデルが成り立つほどの民度では無くなった、という事を。

多分、一部の人達は気づいていただろう。だから握手会をしないアイドルというのも出てきている。しかし、先駆者であるAKBGが止めない限り、その他のアイドル達(というか企業側)はこの美味しいビジネスを止められない。CD(握手券)が売れるからだ。少女達には夢の実現という事で薄給で済むので、利益が予想がたてやすいのも魅力だ。

であれば、完全な安全を確保すればいいのでは?という話もある。それは絶対に無理だ。なぜなら、これだけのアイドルグループがある、という事は関係者もそれだけ多い、という事。つまり、人間が増えればそれだけ人間の悪さも出る。運営側の人達が全員、自身のアイドルの事を一番に考え、仕事をするわけがない。自己保全が第一で、その後に自己の欲求を満たす事、というどの会社にも当たり前にいる人が運営側にいる事だって当たり前なのだ。余談だが、私は様々な経験をして金持ちになった事もあるので、金銭的欲望も無いし、結婚もしていないから自己保全も無いので、滅私奉公が出来る、というPRでAKSの管理業務を受けた事があったが、書類で落ちてしまった。私は若い時に100人以上のコンパニオン系の女性の管理業務をした事もあったが、女性に手を出さなかった社員は私一人だけだった。私はそこを誇りに思っていた(今となってはクソ真面目すぎたと思うが)。つまり、私のような人間はほぼいない、というわけだ。しかし、年齢経歴等で面接さえも出来ない。逆にいえば、手を出すかどうかではなく、天秤があったら自分の倫理よりも自分の欲求が勝つ、というのが普通であり、そういった人間が運営側、という事だ。あの秋元康だっておニャン子クラブメンバーに手を出して結婚しているわけだから。

 

話が逸れたが、そんな人間達が管理をしているわけだ。つまり、アイドルグループを作っているのは少女であり、情操教育や人間教育も必要、という事が理解出来ていない人達も多い、という事。それはそういった事が仕事のはずの学校の先生でさえ、真面目に取り組む人達は精神を病むほどの仕事だ。サラリーマンがするわけがない。つまり、メンバーも管理が薄い無秩序状態になる。そうなると、学校でもある、メンバーカーストだって生まれやすくなるだろう。メンバーの心のケア無しにメンバーに差を付けるのだから。それも完全に透明性があるわけでもなく。疑心暗鬼や嫉妬が生まれやすい土壌で、しっかり管理が出来るほどの責任感のある社員がどれだけいるか。むしろほぼいないのではないだろうか。学校にスクールカウンセラー制度があっても自殺が減らないのがいい例だ。カウンセラーというのは業務であって、真に子供を自殺させたくない、という人間性を伴っている人というのはそうはいないのだ。

握手券を数百枚単位で購入してくれる太い客が数人いる子に、購入が1枚だけど100人ファンがいる子が負ける事もある世界。逆にどれも少なくても運営から推される子もいる。コネ加入の子もいるからだ。ホテルでファンと定期的に密会、ジャニーズ等との合コンなど、ストレスのはけ口を性的な事に求める子が出てくるのも当たり前だ。キャバクラ嬢よりも収入があるはずの風俗嬢の方がホストに貢いで金が貯まらないのと同じ。よりストレスのある仕事の人の方が、よりはけ口を求める。全員が例えばディズニーランドに行って散財する事でストレス発散できればいいのだが(実際、そういう子も多い)が、ディズニーランドというゴリゴリ資本主義のやり方に自分達も乗っかっている、と見えてしまう感受性の高い子や感覚の鋭い子は、別の手段をとってしまうもの。それがいじめだったり、性的な行動だったり。それらの複雑な心理をどれだけ敏感に運営側の人間が感じられて制御出来るか。まず無理だ。

 

つまり、アイドルを取り巻くファン社会はもはや日本社会になった事で犯罪は防ぐ事は出来なくなり。

アイドル達は受ける負のエネルギーは増え続け、特殊な仕事から一般化した事でメンバーもアイドル志望だけでなく、権力者のどら娘なども増え、内外からのストレスで秩序の崩壊を防ぐ事ができなくなり。

運営側の人間も今どきの人(自己保全優先)となり、上記の問題などどうでもいい事となり、事件を防ぐ事も少女を守る事も出来なくなり。

つまり、この日本の「会いに行けるアイドル」というビジネスモデルは既に崩壊した、という事で、今止めないと今後更にこういった問題が起きるのは確実。

 

山口真帆Showroomツイッター等の道具があった事よりも、23歳という年齢もあるのか、本人がアイドルとして強かった。だから1ヶ月我慢出来た。これが10代の子だったらもしかした自殺していたかもしれない。実際、自殺した農業アイドルの子は16歳だった。

また、今回の事件で、頭のおかしい人は「ほぉ、アイドルの家に行ってレイプ出来るな、これは」と思って行動するだろう。そういう人は絶対にいるのが人間社会だから。

 

なんでこんな社会になってしまったのだろう、日本は。最近ずっと考えている。

 

 

 

ピーチジョンのラブポーション発売中止をうけて考える事

「こっそり食べさせる」という広告表示に批判が集まったとの事。その批判の根拠としては最近睡眠薬を飲ませて性的暴行を加える事件が多発しており、そんな中、媚薬的なモノをこっそり入れる、というのは不謹慎だ、というのだ。同社は販売を中止した。

 

こんな玩具のような媚薬になんの効果も期待出来ないだろう。しかし、それが犯罪を想起させるから駄目となると。

ほぼ毎日のように全国ニュースにのる、日本国内で教師による未成年へ対するわいせつ行為による懲戒、逮捕事件。毎年200人以上の教師がそれ関係で何らかの処分を受け、全然減らないどころか、SNSのおかげで更に潜れるようになり、増えているとも言われている未成年への教師のわいせつ行為。

これを問題視していたら、ピーチジョンへの批判を例にすれば、「中学聖日記」や「先生、、、好きになってもいいですか?」などは大批判、炎上してもおかしくないはず。なのに、そうならない。ネットライター達はプロモーションで「純愛!」などと煽る。なぜ?

 

私が学生の時、「Juice」という映画を見て衝撃を受けた。当時流行っていたDJのスクラッチの技にではない。もちろん、それはかっこいいのだが、若い人を中心に人気のあったラッパーの2Pacが劇中、銃を手に入れる事によって悲劇的な最後を終える、というストーリーにだ。日本では若い人に人気の役者が悪事をしても、それがかっこいい、となっていたのに、だ。仲間だけを大事にして世間一般への悪事はワルとしてかっこいい。それが当時の日本だった。そんな中、アメリカは若者へ影響力のある、悪童で売っていたラッパーが銃(暴力)による悲劇を描いていたのだ。私はこの時、「ああ、日本はアメリカには勝てない理由はここにあるのか」と思った。発信する力のあるもの、権力があるものが社会に対する影響もそれなりに考える、という自浄作用というか。その志というか。もちろん、全てではないが、そのアメリカの懐の深さにびっくりしたのだ。その後、2Pacは映画のように、実際銃で死んだのだが。

 

あれから20年以上経って。日本は当時と何か変わったのだろうか。子供を守る環境作りをしなければならない大人達が定期的に人気俳優を使って教師と生徒の恋愛を綺麗に描き、まだ世界を見る力の少ない子供達に事の問題の重要さを曇らせ続ける。こんな子供じみた媚薬の広告に目くじらを立てるほどの倫理観があるのであれば、なぜ教師と生徒の関係を純愛っぽく描く作品にクレームを挙げないのだろう。なぜ犯罪を防ぎたいのでれば、まず子供たちを守ろう、とは思わないのだろうか。ネットなどでは売りを示唆する投稿をする未成年側を責める大人もいてゾッとする。そういった未熟な未成年を問題視したいのであれば、そういう発想をする子供を生んでしまっている社会を構成してしまっている自分たち大人を責めるべきなのに。

 

要は、ラブポーションの広告にクレーム付けるぐらいの倫理観があるなら、目の前に当たり前に広がっている事にも気付いてね、という事。

ま、この非論理的思考、矛盾が人間というものなのかもしれないけど。

 

追記:この投稿の日、雑誌SPAが「やれる女子大ランキング」というクズ記事を作り、上位5校の大学が「著しく生徒の安全を脅かす」「女性蔑視だ」とクレームを上げた。これがまともな対応だ。となると、教師からわいせつ行為で被害を受けるのは更に年端もいかない小中高校生なのだから、マスメディアや既得権益側が教師と生徒の恋愛を綺麗に純愛っぽく描く作品を作ったら、各教育委員会、校長が団結して「教師への教育、統率に問題が生じる」「わいせつ教師から守りたくても生徒側へ間違った認識が受け付けられる」とクレームを毎回入れるべきなのだ。子供を守り、本気でワイセツ教師を減らしたいのであれば。

ただ、今日全国ニュースになった中学生へのわいせつ行為での逮捕は50代の校長だったのだが・・・。

なんだ、これ。

CMから降ろす、発言は問題なのか?

大前提として、日本でCMに起用されるタレントは企業のイメージアップに利用される為にあり、なので、CMから降ろすのも起用するのも企業の自由。

 

という事はあるのだが、ここで話したいのは「責任」という事。

例えば、アメリカでは有名なタレントは車やジャンクフード系のCMに出る事は無い。なぜなら、車にリコールが合った場合。「あなたがCMで勧めているから購入したのだ」と訴えられるリスクがあるからだ。太って病気になった場合も同じ。「スリムなあなたがCMやっているので問題無いと思ったからだ」と訴えられる。つまり、企業だけじゃなく、庶民に陽動する広告塔としてのタレントにも責任がある、という事だ。

 

私はこれは当然な事だと思っている。だからこそ、タレントはリスクある企業のCMはやらない、つまりその分の収入は無くなるのだが、その分、自由に政治的発言が出来る。逆に、その政治的発言に賛同する、訴訟のリスクの無い企業(ファッション系など)はそのリベラルイメージ等を利用しようとしてCMタレントとして起用する。これこそ企業とタレントが対等な関係。

しかし、日本では違う。海外のタレントも訴訟リスクの無い日本で車のCMをガンガンやる。バカな庶民は「あのタレントが宣伝しているから」と購入してしまう。真矢ミキの「諦めないで!」のCMでどれだけの人があの化粧品を購入しただろうか。彼女の宣伝無しにあれだけ売れる事はなかった。消費者は企業よりも真矢ミキを信じて購入したのだ。しかし、それで皮膚被害になった。その時に真矢ミキは宣伝しただけ、という事で責任はない、というのが日本だ。そんなむちゃくちゃな論理がありえるだろうか。消費者は商品だけでなく、タレントイメージも込みで購入したにもかかわらず。しかし、そのむちゃくちゃ、が日本なのだ。そんな日本でタレントが政治的発言など出来るはずもない。

しかし、ローラは発言をした。そして、TBCはそのローラを広告塔に起用し続けている。これは画期的な事で、費用以外なかなか差が出にくくなったエステ業界に、リベラルな企業である、というイメージを付ける事にもなる。信念も無く何も考えていない人には関係無いが、社会を考えている人には選択肢の決めてにもなるだろう。これはタレントにとっても企業にとってもプラスで、日本が世界基準に近づいた一歩とも言える。

 

多数決で多い方が正義という間違った民主主義を貫いて教育してきた日本では、企業やマスメディア、為政者はマジョリティーのみを向いた事をやってきた。しかし、それを支えてきた人達(庶民)はすでに高齢者。それが通じるのはあと15年~20年ほどだろう。生き残る企業はブランドイメージ戦略をさらに突っ込んで特定の層に刺さるようになるだろう。ライブコマースの成功がいい例だ。それが企業規模になるほど移民も増え、多様性が当たり前のになった近い未来では今の古い時代の日本のマーケティングは通じない。

 

今回の件はそういった時代の変化に対応していなかった企業側、タレント側にパラダイムシフトを促す一石になったかもしれない。競争が今後も激しく、価格競争に陥りがちな業界は、今が商品に関係無い、思想的ブランドイメージを付け、価格競争から外れるチャンス。タレントも事務所制約(権力)からはずれ、個人事務所ではなく、フリーのエージェントを付けて活動するチャンス。そして、フリーエージェントという、事務所に代わる仕事をする仕事が増えるチャンス。

 

と、言いながら、日本社会はそんな簡単に理論的に変わるわけない、と知ってもいるのだが。

上沼恵美子への暴言事件

該当の動画は見た。松本人志の「上沼恵美子がどれだけすごい人かわかっていない。相手がいない所で悪口を言うのは違う。(自分自身の過去の反抗)は面と向かって本人に言っていた。また、酔って言うのも違う」(要約)もオンタイムで見た。本人が謝罪する、という自体になり、ネットニュースの素人ライターもとろサーモン久保田とスーパーマラドーナ武智を叩く記事を書くようになっている。

私はお笑い好きだが、録画して見るようにしている。なぜならCMを見たく無いし、審査員の評価コメントも聞きたくないからだ。自分が面白いかどうか。それだけでいいので純粋に漫才シーンだけを続けて見ている。それでもちょっと家事等をする時には早送りしていないので、上沼恵美子の「嫌い、好き」というコメントを聞いたいた。

正直、当事者でもないし、審査点などどうでもいいと思っているので面白ければいいと思っているので彼女や審査員に何も期待などしていない。ただ、当事者にとってはとろサーモン久保田が言うように1点で人生が変わる、という気持ちがあるのであろう。それを酔った場で生配信して、審査員の悪口を言う事に何が悪いのかイマイチわからないのだ。

というのも、上沼恵美子とろサーモン久保田、スーパーマラドーナ武智とは業界内でのレベルの差が雲泥の差だからだ。日産の平社員がカルロス・ゴーンの悪口を生配信するのと対して変わらない。審査員とは本来相手の人生を担うぐらいの重さがあり、だからこそ、そのジャッジには責任がある。審査される側から文句を言われても、それをはねのける信念も必要だし、審査される側から「おかしい、不公平だ!」と自由に声が上がる事によって、また審査員も襟を正すし、審査方法が進化する事もある。審査される側が一方的に従わなければならない、というのは日本の権威社会主義の上下関係を押し付ける、パワハラそのものだ。

というのも、M-1で大事なのは、審査員の顔を立てる事でも、敬う事でも無い。面白い漫才をゴールデンタイムで行う機会を得て、売れるチャンスを売れていない芸人に与える事だ。つまり、審査される側が主人公なのだ。確かにダウンタウンは昔は面白かった。しかい、今はちっとも面白くない。そういう人だってたくさんいるはずだ(私もそうだ)。しかし、それをどこでも発信出来ないというのはどうもおかしい。

面と向かっていえない自信の無さ、立場。それがとろサーモン久保田に暴言を吐かせたのであれば、そういった若手の不満を受けて、過去に偉大であり、今でも日本の平均年収を超える収入がある、審査員の立場やシステムを作る立場であれば、「今の人は昔の天才肌とかいう感覚ではなく、分析したり数字化したりする世代。であれば、審査員も感覚派と分析派を視聴者や演者にわかりやすく提示するか。いや、感覚を点数化した方がいいか」など、考えるべきなのだ。それこそが再配分であり、それを出来ないで審査する側=上、される側=下、という序列を設ける為のコンテストなら即刻やめるべきなのだ。

ただ、これは視聴者というか、社会が求めているシステムでもあるのかもしれない。テレビを見ている人などすでに中高年以上ぐらいだろう。未だに年齢、経験=偉い、と勘違いしている世代だ。年齢、経験によっての「今」がすごい人のみが尊敬されているのであって、過去にすごかった、なんて何の評価もされない現実を一番知っているくせに、とろサーモン久保田に肩入れしないのは、自らの立場を客観視出来ていない、としか思えない。これが、いわゆる老害だ。

 

ま、それが日本社会なのであれば私の方が少数派ではあるのだろうが。

安田純平さんへのバッシングの根深さについて

私はバカなコメント等は見ない事にしているので、そもそも彼がバッシングを受けている事を知らなかった。自己責任論とか色々あるらしい。まあ、これはいつもの事。ただ、そのようなバッシングをする人達の発想の根深さに気づいた出来事があった。

それは「ワイドナショー」というCX系の番組内での事。言葉はうろ覚えなので、覚えている限り。

長嶋一茂氏「ジャーナリストって言うけどさ、それが日本国民にとって何の役に立つかピンとこないんだよ、我々には」

堀潤氏「例えば、安保の時にもあったのですが、シリアで戦争があったら石油の値段が上がって結局日本国民の生活が大変になって。だから戦争に加担するような事になったら、巡り巡って日本国民にダメージが来る事に・・・」

長嶋一茂氏「いや、だからさ、わかるよ、子供がなくなったり、ひどい事があったり。可愛そうだなぁ、とは思うけど、直接日本になんかあるのかわからないじゃん」

ここで、同じゲストの千秋氏が流れを変えようとする。

千秋氏「でもさ。知りたいと思わない?遠い国で何が起きているか、とか」

長嶋一茂氏「思わない。関係無いもの(だったかな?)」

 

この一連はまさに社会の構築を考えない、考えようともしない今の日本の国民性を良く表しているなぁ、と思った。ドラマにもなった「乱反射」は、このブログでも何度か言っている、「自分と家族、仲間に直接関係無い事には無頓着」な人間の「点」の悪意、悪行、反社会的行動が巡り巡って最大の不幸を受けてしまう人間を描いている。難しいのは、その「点」で反社会的行動をする人達は日本社会では普通の人達だ、という事。近所にも見かける人達はいると思う。大通りではタバコを吸わないくせに、裏道に入った途端に吸うスーツのサラリーマン。駅の近所のスーパーの駐輪場に子供共々自転車を止めてそのまま電車で出かけるお母さん。細かく言ったらキリがないほど、平気で社会のマナー、ルールを破る人達はごく一般的に見る事が出来る。その人達は多分、「乱反射」を見ても「ひどい事する人達がいるもんだねぇ」となって、自分たちがしている反社会的行動に責任があることなど微塵も想像できない、いやしないだろう。

 

見たい事だけ見る。信じたい事だけ信じる。

 

これが徹底しているこの多くの日本人達からすれば、ジャーナリストとテレビやツイッターをまとめている記者の違いなどどうでもよく、むしろテレビをまとめてくれているネットニュースの方が有意義に感じているかもしれない。

遠い国の出来事。自分たちに関係無い事。この長嶋一茂氏の意見は戦場ジャーナリストとマスメディアの関係とか、何がジャーナリストなのか、とか、そういう事以前に、日本社会が今陥っている根底の問題に気付かされた。理論的とか論理的に、とか関係無く、そもそも自分家族仲間に直接関係無い事は想像力が働かないのだから。

 

なぜこんな社会になったのだろうか。一つは教育になる。怒られるからやらない。殴られるからやらない。そういった教育を受けてきた人はなんでその行為が駄目なのか、ということを学ばずに大人になってしまっている。なので、罰則が無いマナー、ルール系はガンガン破る。自分が得になるのであれば。ただ不思議なのは私も含め、そういった教育を受けてきた人達でもしっかり社会の構成員としての意識がある人達も少ないがちゃんといる、という事。ただ少ないのが問題で、そういう人達は無償ボランティアとか「いい人」として搾取される側になる事も多い。

この社会風土は根深い。実は第2次大戦中の日本でも戦争に無関心だった日本人が多かった事がわかっている。配給が減ってきつくなってきたねぇ、ぐらいで、太平洋の先で起きている事、程度に思っていたらしい。そこをいいように国に使われてしまった。

では、安田純平さんへの非論理的なバッシングが一般的だとしたら、今も第2次大戦中と同じように、日本国民は国にいいように使われてしまう土壌がある、という事だ。

そうならないためにも、自分で考え、社会の構成員として、短期的な損得以外に、広く社会、世界を考えないとならないのだが・・・。

まあ、無理か。