底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

栗原心愛さんはなぜ亡くなったのか。児童相談所の問題とは

虐待をしていた親に、「職員の個人名名指しで訴訟起こすぞ!」と大声で恫喝されて心愛さんを引き渡してしまった、とのこと。

こういう問題になると、大体上がる児童相談所の改善策としては

・職員を増やす(人員増)

・権限を大きくする

というものだ。しかし、本来の問題はここではない。過去の児童相談所の問題を見てもそれは明らかだ。それは、多くの職員が子供を守る為に働いていない、という事だ。職員は自分の定職を守る為に働いているのだ。自分が一番大事。だから権限があろうが、職員を増やそうがそれは変わらない。

それは警察を見ればよくわかるだろう。交番の警察には今、定年退職した元警官がなぜか再雇用されている(人員増)。そして権限もある。では、それによって警察の本来の仕事(秩序の向上)はしているだろうか。巨悪ではなく、あえて交番とした所に注目してもらいたい。児童相談所が子供を守るのであれば、交番警察は庶民間の秩序。しかし、庶民間の法律は増える一方。マナー違反、ルール違反は増える一方だ。これは警察が自分たちのポイントにならない問題は無視しているからだ。交通安全週間とか、ポイントになる時にほんの1m右折車線に入るのが遅くなった車を捕まえる事に躍起になるだけだ。つまり、児童相談所に職員を増やそうが権限を与えようが何も変わらないのだ。

 

誰もが自分を守りたい。自分が大事。それが人間である。しかし、他人の子供を守る為に頑張っていったい何になるのだろうか。それが評価されて賃金UPするわけでもなし。であれば、問題を起こさない事が一番。それが当たり前の選択になってしまう。その事を裏付けるように、地方公務員としての児童相談所の長は大体2年で移動になる。つまり、2年間問題を起こさなければ公務員としてまた幸せな生活が待っているのだ。だったら何もしない方がいい。他人の子供の為にがんばる必要などないのだ。それを責めるのはおかしい。政治家だって警察だって。権力がある人達がそれを社会正義の為に使うなんて幻想がそもそもおかしい。自分と同じ人間が権力をもったらどうなるか。そういう事だ。

 

では、どうしたらいいのか。答えは簡単。児童相談所の地方公務員システムを止め、NPO法人等、本当に子供の為にがんばりたい、という人達が集まる機関に委託するのだ。国は金だけを出す。それだけ。

 

適材適所というのがある。本能が無くなった人間には親でも子供に愛を注ぐ事は知的作業やバイアスのおかげであり、それを全員に強制出来ない以上、自ら望んで子供の為に働きたい、という人達が児童相談所をやるべきなのだ。

子供=人間だから、それを扱う人間にもそれなりの資格が必要=人間性が大事なのだ。

しかし、国がやることは下手に資格制度を設けて、人間性よりも客観的事実のみを重視する事だ。これでは、資格を取るだけ(仕事がもらえる)、という大人を排除出来ない。

子供を保護する、という事はとてもデリケートな作業だ。であれば、それを扱う人間もデリケートに採用し、デリケートに組織を作る。人間性を排除して権限だ、資格だ、と言っている間はこの問題(相談をしたのに子供が亡くなる)は無くならないだろう。

 

まあ、その人間性無視、が日本社会の特徴でもあるのだけれど。

 

「火付けてこい」明石市長暴言問題 批判一転、擁護論とか、メディアの「報じ方」に課題とか。

表題の通りの意見を目にするようになった。これがとっても不思議。なぜなら全文を見た所で、見解については何も変わる事が無いはずだからだ。これを別の例にするとわかりやすいと思う。

 

ある男性が彼女をボコスカ殴った事でDVで逮捕。しかし、物語には続きがあった!

「お前の為にやってしまったけど、こんな事したくないんだよ?何度も同じ失敗繰り返すし、自分で言った約束破るからさ。俺の親がそういった嘘つきだったから、これから生まれてくる二人の子供為にも、この部分だけはしっかりしたいんだ。俺が毎月貯めている、二人の為の貯金が100万円たまったら、それを資金にして結婚しよう!」

なんて事があっても、世間は許さないだろう。これがDVの手口だ!と騒ぐだろう。今の世論だと、逆に被害者女性も責められるかもしれない。

これは、「暴力」という定義が目に見える肉体的なものだから、何の努力も考える時間も使わずに想像出来る事が大きい。後、他人を責める時の後ろ盾としての絶対正義として、暴力=法律に反している、という単純な理論で話す事が出来るのもある。

 

では、この表題の問題は。まず、発言の酷さと言ったら。大人同士でこんな汚く酷い発言をされる事なんて、ほぼ人生で無いのでは?と思える内容。その精神的苦痛はまさに言葉の暴力。まずここ。相手に言葉の暴力で苦痛を与える事に関して、鈍感な人間が多いのが日本人の特徴。これは教育者や警察等が罰する基準として肉体的暴力を与えた側が一方的に悪い、として楽をしてきた社会の結果。なので、肉体的暴力よりも時には遥かに強力な言葉の暴力について、考える事も軽んじられてきた社会背景がある。なので、まず、言葉の暴力も肉体的暴力と同じである、という認識が必要なのだ。法律的にどうこう(罰則の大きさとか)や、「私だったらこれくらい」じゃないのだ。被害者の気持ちに共感すれば、肉体的苦痛も精神的苦痛も同じ事であるのがわかるはずだ。

ここに、絶対的に立場が上の「上司」という肩書が加わる。これによって上司の暴力=パワハラが成立する。しかも、わざわざ録音を用意するぐらいだから日常的に発言されているのだろう。

 

なので、報道する記者からすれば、全文載せようが載せまいが、結局アウトであり、そのアウトの質からして疑いようも薄まる事も無く、貴重な文字列の中でわかりやすくその部分をピックアップして報じるのはそんなにおかしくない。言葉で仕事をしている人間からすれば当たり前の判断だろう。しかし、全文掲載されたらまさかの擁護論とか、偏向報道批判とか・・・・。

多分、記者達からすれば・・・

「なんでこんなにバカばっかりなの?」

だろうなぁ・・・。

正直、全文を読んだ時の私のリアクションは

「うわ・・・悪質!散々罵詈雑言浴びせた後、いかにも正論を吐いて、相手が悪いように(言われた事は仕方ない、と精神的に追い込んで)して締めくくるなんて。まさにDVと同じ手法だわ。」

です。

底辺に落ち込んだ私がなぜまだ自殺していないのか。(川の底からこんにちは)

言葉で説明は難しいので、作品でその時の状態を説明したいと思う。

時系列を数字で表すと、古い順から

1(絶望期)

2(退廃期)

3(這い上がり期)

4(底辺期)

5(底辺期2、現在)

という感じかしら。1~5まで通して、以前紹介した漫画「ホムンクルス」状態。なので今は他人を有機物として感じるようになっている。年齢は関係なく、時には性別さえも関係無い、個の「人間」としての存在がそこにある、という感じ。その個体差は感性や考え方、人との接し方等様々な分析の上にあり、その中でも私が強く惹かれるのは悪意であり、その悪意の種類、表現方法等がその人を個として表している、とも言えると考えている。しかし、これらの考え方を会得するにはあの漫画のような、自分や他人と向き合う辛い時間を経ないとならない。しかし、それでは自殺に至ってもおかしくない。そういう意味ではホムンクルス状態は3の無い、4,5,とも言える。

 

では、2から3に至る時の私の思考は。

もちろん、2の時は自殺を考えた。しかし、私の性格上他人に迷惑をかける死に方はしたくない。様々な方法を考えたが、死体を発見した人にトラウマを残したくないので、一番の方法は海外で、海の真ん中もしくはジャングルで死ぬ、というやり方。それには金がかかるのと準備に時間がかかる。生きる気力も無いのにそんなモチベーションがあるわけがない。そこで気がついたのが。

・今、私は死んでいない=生きている

という事。死んだも同然、と思っていたがそうではなかったのだ。単純に2分けしたら、私は生きていたのだ。ならば、生きる為に思考すべき、と考えた。

1日にワイン1本、ビール2,3リットルという大量飲酒をして現実から逃げていたが、スパッと断酒(今も続いている)。そして自分と向きあってみた。

1(絶望期)を少し説明すると、会社での業績、評価こそが自分、という自分の人生の幸福を考える事が出来なかった私は、昔から友達がおらず、彼女がベストフレンズであり、理解者であり、それだけでよかった。会社も失い、彼女からフラれたしまった私はもはや何の価値もなく、自己肯定感を満たすものは何も無かった。しかも、世間からは年齢で全て判断されるので、私の人間性は関係なく否定される。自分の人間としての存在が「無」になったのだ。本来ならここで自殺するのだろう。

 

さて、3(這い上がり期)の話。周りを見渡しても現実も私は底辺だった。しかし、まだ自分には少しプライドがあった。それなりの人生経験を積んできた、という挟持だ。その時ぐらいに始めたのブログのタイトルがそれを表している。だが、おかしい。それが事実であれば私はなぜ彼女にフラれたのだろうか。なぜ世間はここまで私を無視するのだろうか。答えは簡単だった。

・私は本当に底辺の人間である、という事実

それだけだ。この状態は映画「川の底からこんにちは」の冒頭の主人公に近いかもしれない。自己を否定され続けた人間は自尊心を無くしてしまう。この時の私は自己評価がゼロだった。電車の中で生活を感じる他人を見て自然と涙がボロボロ出る事もあった。

しかし、ここで「ホムンクルス」が出てくる。もともと人間観察が趣味でもあった私。様々な人を観察していくと、案外、切り方によっては人間とは同じような存在である事に気付き始めた。それは人間の歴史が証明している。なるほど、自分だけが信じていた彼女からフラれるべき、最低の人間なのではなく、人はそういった部分(私のある思考的には)では等しく最低な部分がある、と思ったのだ。年齢で人を判断したりする社会はそれを構成するレベルの人間性を集合と考えれば、皆何かしら不都合な部分があると。つまり、それは「人間」という事だ、と。

そうなると、自分だけが底辺=不幸=自殺、という理屈が通らない。なぜなら、皆同じ人間なら、皆不幸な部分がある、という事になるからだ。であればどうするか。ここで再び映画「川の底からこんにちは」で説明すると、後半。自分は中の下(私は自身を底辺と考えているが)だが、所詮周りも中の下。だから頑張るしか無い。映画では実際に行動する事道筋があるが、私の場合はこの過程が精神内で起こる事が大事だった。注意が必要なのは、「他人も同じ=見下す」ではなく、映画と同様に、自分も社会に属している(自分も同じ人間である)、という自己で自己を肯定する理屈を構築する事なのだ。

 

そして今、5(底辺期2)。漫画「ホムンクルス」のような他人への目線と、映画「川の底からこんにちは」のような自分と他人への理解。それが今の私の精神を支え、自殺まで追い込まれても留まる事が出来た理由だと感じている。後は、自分の精神を尊重しながら、年齢と離職期間で判断する社会とどう折り合いを付けていくか、だ。

友達が出来ない、人付き合いも出来ない。しかし、彼女さえいればそれでいい、と思って生きてきた私には今は真の孤立状態だ。今後性格がガラッと変わる事を期待するよりも、丁寧に過去の自分を分析して表面に出ていない深層の欲求と向き合って現在を踏み勧めなければ、と今は思っている。

 

生活保護をもらっている人よりも遥かに低い収入で生きているが、その分自分と向き合う時間はたっぷりある事は貴重な時間だと思っている。

 

教師が生徒を殴る動画での世間の反応での違和感

私は教師であろうがなんであろうが、暴力で相手のいいなりにしようとするやり方は全く賛同できない。それを「教育」「指導」などと言い訳を付けてやるのはもってのほか。

気になったのは、あれだけ挑発されたら殴っても仕方がない、という雰囲気で発言する人が少なからずいた事だ。そういう人はプライベートで人を殴った事があるのだろうか。

私は総合格闘技を11年ほどやっていたが、子供の時から今までも人をプライベートで殴った事は無い。学生の時に喧嘩をした事はあったが、実は殴っても蹴ってもない。一方的に殴られる事もあったが。というのも、自分は昔から体が大きく、また力もあったことと、人を殺す術をずっと考えていた事で、もし自分が殴ったりしたらその時は相手を殺してしまうかもしれない、と小学生の頃から思っていたからだ。だから、どんなに挑発されようが殴った事はない。20代の時に酔っ払いに電車で絡まれた時、口論になったが結局電車内で仲良くなったり。ぶつかってくる酔っぱらいに暴言吐かれた時は払腰で体を浮かして、そっと怪我しないように着地させた事はあったが。だから、あの動画のように生徒をボコスカ殴る教師はどんな事情であろうとも、一旦教職は離れるべきだと思うのだ。大人同士でもありえない事を子供相手に行使出来る人は精神状態が普通だと思われないからだ。相手が悪くてカチンときたら何してもいい、というのでは強引は割り込みをされて怒って追いかける煽り運転と何ら変わらない。

 

問題はまず、この教師が暴力をふるった、その是非を問う事ではない。以上のように、人間が人間をプライベートで殴るという、常人ならありえない事をしてしまうまで追い込まれた精神状態である、という労働環境だ。この動画だけで彼は殴ったわけではなく、今までの蓄積があることは想像に難くない。そのフラストレーションを解消する事ができない仕事場が、一人の教師の暴発につながるのだ。生徒、親、教師内。強ストレス環境が生む負のエネルギーをどうしたらいいのか。それを考えないと今後も教師の不祥事(暴力、性犯罪等)は無くならない所か増える一方だろう。蓄積した負は発散しないと本人が壊れてしまうわけだから。

また、生徒側の教師を追い込むやり方にも目を向けないとならない。この動画の挑発までに、日常でじっくり精神的に追い込んでいたはずだ。こんな会社のパワハラのようなやり方をまだ未成年の生徒が今までは出来るわけがなかった。それが生徒側が出来るようになった、という事実。これはもちろん、大人がそういった社会を見せているからだ。SNSで見る、公人に対する罵詈雑言。特に未成年の芸能人に対する大人の誹謗中傷などは恐ろしいものがある。それらを見て育ったSNS世代の子供たちは、立場の違いを理解した上で自分達のフラストレーションを発散する術とそれをやっていい、と社会(大人)から学んでしまっているのだ。

 

この動画は以上の、「教師という現場がヤバイことになっている」「子供がヤバイことになっている」という現実に向き合うモノであり、それらは今の大人たちが蔑ろにしてきたツケ(負のエネルギー)が溜まっている場の象徴的な出来事だと思うのだ。

今東京では、子供よりも大人が率先して社会のルール、マナーを破るのが普通になっている。子供は当初しっかり守るのだが、親やコーチ等、大人が守らないので次第にそうなっていく。その過程をここ数年見てきた。私の子供の時は大人はそれらを守る存在で、子供は大人に隠れて破るモノで、見つかると怒られる、ということで社会規範を学んできたものだ。しかし、親やコーチが当然破るのであれば、道徳を教える教師が軽んじられるのは当たり前だ。破る方が個人的に得をするのは必然だからだ。それによって社会が回らなくなるとか知ったことではなく、自分達が得をすればいい、というのが今の東京の親達の教えらしい。もちろん、そうではない人もいるが、そういう人の子供は徐々にクラスから浮いた存在になってしまうだろう。

 

この動画を自分達には関係無い教育現場として自分達の勝手は正義感で論じるのではなく、自分達の振る舞いで今こういった教育現場を生んでしまった、と、当事者として考える事が我々大人の勤めなのだと思う。

 

と、結婚もしていなく子供もいない孤独なおっさんだから言えるんだろうけど。心に余裕があるから。

 

 

漫画、ホムンクルスを読んで

衝撃だった。主人公はまさに自分だったからだ。

ベンチャーから仕事初めて。キャリアを得る為に転職を繰り返し。世界有数の会社に入社出来るようになったら世間からの扱いがガラッと変わった。私自身は何も変わっていないのに。不動産屋でも、「まあ、立派な会社にお勤めですから」と、態度が急変。マンション投資等の電話も急に多くなった。違和感だらけだった。私の今ままで会社にささげてきた実績、努力に対する評価は?大会社勤めだったらそれでいいのか?と。しかし、唯一当時の彼女だけは私という人間を見ていてくれているのかも、と思っていたが、フラれてそれも崩壊し、酒びたりの生活になった。そこに逃げるしかなかった。

 

立ち直るには私のような理論はそれなりに論理が必要で。散々悩んだ末に出た結論が、

「私という人間には価値は無い」

という事だった。社会的にも人間的にも底辺の存在。それが私。底辺であれば後は上がるだけだと思った。しかし、世の中そんなに甘くはなかった。過去に会社名や会社での業績で評価された、という事はそれが無くなったら単純にその人で評価される、という事。日本では年齢で人を判断、差別する事は肯定されている社会だ。そこに離職期間が加われば、私は希望するアルバイトを受ける事さえもできない存在になっていた。

 

ここで問題なのは、ずっと底辺の生活でその環境しか知らなければ、見識もその範囲で悩みもその範囲であった、という事。しかし、もともとBtoCサービス専門で一般消費者にアンテナを張るタイプであった事に加え、更に自分が底辺になった事でより幅広い階層社会の現実を知る事となってしまった。だからこのブログを始めることで精神の均衡を保とうとした。この状態はまさにホムンクルスの主人公の冒頭の状態だ。他人の事が分析できてしまう。わかる、というのとは違う。人は自分が生きている階層での常識にとらわれて、それが決定思想のバイアスとなっている事が多いからだ。自分は立場は底辺だが、この人達とは違う、と思いたい気持ちが強くあった。

 

月日もたち。自分の中に残っていたプライドが全て無くなって思ったのは、「人間、みんなほぼ同じ」という事だった。自分も他人もそんなに変わらない。性格という事ではない。人間という存在自体だ。大きく心に10個ほどのスロットがあってそこに何を埋めているか。会社、家庭、子供、自分の趣味等、人はそこに全て埋まったら他は考える事はできない。そして善悪も完全なものではなく、大概上限2割ほどまで悪があり、その悪の出し方は人によって濃くでたり薄くでたりする。合計その人の2割ほどが完全(社会的に)悪であり、この2割を超えてくると犯罪者になったりする。この悪の部分の影響力はヒエラルキーの上位になるほど大きくなる。しかし、人間単体としてみた場合、全員同じ。

この状態がホムンクルスでいうラストに近い境地だ。

 

ホムンクルスのレビューをネットで見てみたら、後半理解できない、というのが多かった。これはこの境地に至っていないからだ。前半までの境地は一般的に人にある、「自己顕示欲」だ。なぜレビューを書き、わざわざネットに晒すのか?ツイッターは?インスタは?他人に、いいね!(もしくは逆でも)反応してもらいたい、承認欲求も混じっている。社会に生きている限り、相対的に自分の価値を評価してしまうわけで、その結果をわかりやすく理解できる結果でないとその欲求は埋まらないのだ。ネットでの誹謗中傷者も同じ。自分勝手な正義感=正義、と信じて発する事で自己顕示欲と承認欲求を埋めている。誰もが持っている感情だからそれが他人を攻撃する事に向かわなければ仕方がない部分だとも思う。では、私のように自己の評価に比べて、社会から年齢、経歴で孤立させられている人間はどうやって人間本来の欲求を埋めるのか?

 

ホムンクルスでは主人公は不毛な手段を取らざるおえなかった。しかし、その行動は痛いほどわかる。社会的には何もかも失った自分に残された、自分という存在価値、存在意義は人間たる能力、思考そのものだからだ。そう、人間本来の存在価値、個性というのはこの思考回路であり、この外見や肩書を越えた人の区別であり、だからこそ機械作業と人間作業は区別されている部分であるはずなのだ。しかし、日本社会は人間をそのように見ない文化が歴史的に長い。まずは階層。そして性別年齢。為政者が作ったその社会バイアスに庶民は長い間支配されてきた。近年、急にマスメディアでも人間の多様性を入れてきているのは作り手側の挟持とも思うが。しかし、法律という秩序最高峰でもまだ差別が当たり前のこの国でこのバイアスから逃れるには自分でそれなりに勉強をしないとならない。それができないとホムンクルスの主人公のようなラストを迎える事になる。現実としてああなる、という事ではなく、メタファーとして脱する事のできない人生になる、という事だ。

 

では、自分はどうなのか。実はラストの主人公と大して変わらない感じになっている。この漫画を読むまでもなく、自己分析は常にしているから。というのも、見なければいいのにmixiの胸糞悪いニュースのコメントなどを見てしまうからだ。まだ底辺初期の頃はむしろ見る事ができなかった。その悪意の塊に心がやられてしまったからだ。しかし、自分をある程度取り戻した今は、むしろやばそうなニュースの時にちらっと見るようになっている。例えば、日韓系や芸能人の不倫、未成年の性暴力、レイプ事件等だ。必ずといっていいほど、そういった事件の時のコメント数は膨大な数になり、そのほとんどが糞のような内容で、それに多くの「いいね!」が付くからだ。そう、私はホムンクルスの主人公のように、それらの視野の狭い非論理的な正義感、もしくは誹謗中傷を見て、「自分はまだこのレベルにまで落ちていない」「自分はこの人達とは違う」と心の安寧を得ているのだ。これはインスタやFacebookで自己を晒して他人からの自己顕示欲を得る事と、手段は違っていても変わらない。承認欲求が無い分、精神的に辛いのだが、ここはホムンクルスの主人公と同じとも言える。

 

とても哲学的な漫画だった。多分、ネットで自己顕示欲を満たす必要のない、多くの人達にはこの漫画は響いたのかもしれない。自身の救いはどこにあるのか。それは自分で考えて答えを出さないとならないのだなぁ。と思った。ただ、今のように、他人は自分である、という考えが根底にあるうちは思考として見識の狭い人達を区別して見る事=見下す事につながらない、なぜなら自分も同じ人間であり、見下す=自分を見下してしまう事になるから、見識の狭い人でもその他で私よりも勝り、結局総合的には私と同じ、もしくは少し上かも、というのが、果たしどうなのかしら、と疑問が湧いてきた。

というのも、それは真理かもしれないが、それで私が幸せか、という事だ。単純に自分は特別で世の中はバカ、という見方をしているおっさん達の方が精神的には私よりも幸せなのでのでは?私のように何でも複雑に様々な観点で考えるよりも、単純な善悪とか、テレビの報道を信じて一喜一憂したり、他人の活躍を同一視して元気を貰える性格の方が人生楽なのでは?私もホムンクルスの主人公もそれができないで自分を問い詰め、答えを出そうともがく事に終始してしまっている。それは幸せとは遠いのでは?

 

そんな事を最近悩んでおります。なのでまた社会で組織に所属する仕事をして、様々な階層の人間に会う仕事がしたいなぁ、と考えているだが、年齢で書類も通らないのだろうなぁ・・・。

NGT48 山口真帆の暴行事件で思うこと

運営の対応がどうこう、とかいう正論は他の人達にまかせて。私が思ったのは今の日本社会では「会いに行けるアイドル」というビジネスモデルはもう限界になったのでは、という事。

秋葉原48として始まった時はファンとはオタクであった。ざっくり言えば、多くが「電車男」的な男性が多く、チェックシャツをインする、小太りもしくはみすぼらしい青年中年が中心。スクールカーストで言えば底辺あたりの人達。こうした人達が中心となって、冴えない自分と違ってアイドルを同一視して応援する。だからこそ、アイドルが輝く事が嬉しいわけで、応援する。同一視なので、それは社会で底辺あたりの自分も満たされる事と同じだからだ。

しかし、この会いに行けるアイドルブームが起きてから10年以上。未だにテレビでインタビューするのは世間がイメージするオタク(メガネ、ファッションがださい)人ばかりを映すが、そのようなオタクもたくさんいるが、むしろ普通のファッション、むしろかっこいい方なのでは?という若者や綺麗な若い女性が多く、昔からの中年的ヲタ達が一角に集まっているだけ、というグループもあるぐらいだ。これは会いに行けるアイドルというのがもはやヲタクの同一視の対象ではなくなり、一般的になった、ということ。

私の1割理論で言えば、昔から一定数は悪いヲタクはいた。しかし、絶対数が少ない事と、ヲタク同士の監視の目(トップヲタ制度)等、尽くすヲタク同士の尊敬や敬意があった事で防げる部分もあった。しかし、一般的になった、という事はこの秩序が崩れる。ヲタクの世界が一般社会の人の配分に近くなる、という事はそれだけ悪い人間の感じも一般社会に近くなる、という事。アイドルを応援したい、近づきたい、という事で起きていたファン的な事件だけじゃなく、一般社会と同じわけだから、自己承認欲求を満たす為だったり、単純に性欲だったり。事件のバリエーションが増えていく。

 

川栄李奈入山杏奈が暴行されたり、冨田真由がめった刺しにされた時に業界は気づくべきだったのだ。今の日本社会は会いに行けるアイドルというビジネスモデルが成り立つほどの民度では無くなった、という事を。

多分、一部の人達は気づいていただろう。だから握手会をしないアイドルというのも出てきている。しかし、先駆者であるAKBGが止めない限り、その他のアイドル達(というか企業側)はこの美味しいビジネスを止められない。CD(握手券)が売れるからだ。少女達には夢の実現という事で薄給で済むので、利益が予想がたてやすいのも魅力だ。

であれば、完全な安全を確保すればいいのでは?という話もある。それは絶対に無理だ。なぜなら、これだけのアイドルグループがある、という事は関係者もそれだけ多い、という事。つまり、人間が増えればそれだけ人間の悪さも出る。運営側の人達が全員、自身のアイドルの事を一番に考え、仕事をするわけがない。自己保全が第一で、その後に自己の欲求を満たす事、というどの会社にも当たり前にいる人が運営側にいる事だって当たり前なのだ。余談だが、私は様々な経験をして金持ちになった事もあるので、金銭的欲望も無いし、結婚もしていないから自己保全も無いので、滅私奉公が出来る、というPRでAKSの管理業務を受けた事があったが、書類で落ちてしまった。私は若い時に100人以上のコンパニオン系の女性の管理業務をした事もあったが、女性に手を出さなかった社員は私一人だけだった。私はそこを誇りに思っていた(今となってはクソ真面目すぎたと思うが)。つまり、私のような人間はほぼいない、というわけだ。しかし、年齢経歴等で面接さえも出来ない。逆にいえば、手を出すかどうかではなく、天秤があったら自分の倫理よりも自分の欲求が勝つ、というのが普通であり、そういった人間が運営側、という事だ。あの秋元康だっておニャン子クラブメンバーに手を出して結婚しているわけだから。

 

話が逸れたが、そんな人間達が管理をしているわけだ。つまり、アイドルグループを作っているのは少女であり、情操教育や人間教育も必要、という事が理解出来ていない人達も多い、という事。それはそういった事が仕事のはずの学校の先生でさえ、真面目に取り組む人達は精神を病むほどの仕事だ。サラリーマンがするわけがない。つまり、メンバーも管理が薄い無秩序状態になる。そうなると、学校でもある、メンバーカーストだって生まれやすくなるだろう。メンバーの心のケア無しにメンバーに差を付けるのだから。それも完全に透明性があるわけでもなく。疑心暗鬼や嫉妬が生まれやすい土壌で、しっかり管理が出来るほどの責任感のある社員がどれだけいるか。むしろほぼいないのではないだろうか。学校にスクールカウンセラー制度があっても自殺が減らないのがいい例だ。カウンセラーというのは業務であって、真に子供を自殺させたくない、という人間性を伴っている人というのはそうはいないのだ。

握手券を数百枚単位で購入してくれる太い客が数人いる子に、購入が1枚だけど100人ファンがいる子が負ける事もある世界。逆にどれも少なくても運営から推される子もいる。コネ加入の子もいるからだ。ホテルでファンと定期的に密会、ジャニーズ等との合コンなど、ストレスのはけ口を性的な事に求める子が出てくるのも当たり前だ。キャバクラ嬢よりも収入があるはずの風俗嬢の方がホストに貢いで金が貯まらないのと同じ。よりストレスのある仕事の人の方が、よりはけ口を求める。全員が例えばディズニーランドに行って散財する事でストレス発散できればいいのだが(実際、そういう子も多い)が、ディズニーランドというゴリゴリ資本主義のやり方に自分達も乗っかっている、と見えてしまう感受性の高い子や感覚の鋭い子は、別の手段をとってしまうもの。それがいじめだったり、性的な行動だったり。それらの複雑な心理をどれだけ敏感に運営側の人間が感じられて制御出来るか。まず無理だ。

 

つまり、アイドルを取り巻くファン社会はもはや日本社会になった事で犯罪は防ぐ事は出来なくなり。

アイドル達は受ける負のエネルギーは増え続け、特殊な仕事から一般化した事でメンバーもアイドル志望だけでなく、権力者のどら娘なども増え、内外からのストレスで秩序の崩壊を防ぐ事ができなくなり。

運営側の人間も今どきの人(自己保全優先)となり、上記の問題などどうでもいい事となり、事件を防ぐ事も少女を守る事も出来なくなり。

つまり、この日本の「会いに行けるアイドル」というビジネスモデルは既に崩壊した、という事で、今止めないと今後更にこういった問題が起きるのは確実。

 

山口真帆Showroomツイッター等の道具があった事よりも、23歳という年齢もあるのか、本人がアイドルとして強かった。だから1ヶ月我慢出来た。これが10代の子だったらもしかした自殺していたかもしれない。実際、自殺した農業アイドルの子は16歳だった。

また、今回の事件で、頭のおかしい人は「ほぉ、アイドルの家に行ってレイプ出来るな、これは」と思って行動するだろう。そういう人は絶対にいるのが人間社会だから。

 

なんでこんな社会になってしまったのだろう、日本は。最近ずっと考えている。

 

 

 

ピーチジョンのラブポーション発売中止をうけて考える事

「こっそり食べさせる」という広告表示に批判が集まったとの事。その批判の根拠としては最近睡眠薬を飲ませて性的暴行を加える事件が多発しており、そんな中、媚薬的なモノをこっそり入れる、というのは不謹慎だ、というのだ。同社は販売を中止した。

 

こんな玩具のような媚薬になんの効果も期待出来ないだろう。しかし、それが犯罪を想起させるから駄目となると。

ほぼ毎日のように全国ニュースにのる、日本国内で教師による未成年へ対するわいせつ行為による懲戒、逮捕事件。毎年200人以上の教師がそれ関係で何らかの処分を受け、全然減らないどころか、SNSのおかげで更に潜れるようになり、増えているとも言われている未成年への教師のわいせつ行為。

これを問題視していたら、ピーチジョンへの批判を例にすれば、「中学聖日記」や「先生、、、好きになってもいいですか?」などは大批判、炎上してもおかしくないはず。なのに、そうならない。ネットライター達はプロモーションで「純愛!」などと煽る。なぜ?

 

私が学生の時、「Juice」という映画を見て衝撃を受けた。当時流行っていたDJのスクラッチの技にではない。もちろん、それはかっこいいのだが、若い人を中心に人気のあったラッパーの2Pacが劇中、銃を手に入れる事によって悲劇的な最後を終える、というストーリーにだ。日本では若い人に人気の役者が悪事をしても、それがかっこいい、となっていたのに、だ。仲間だけを大事にして世間一般への悪事はワルとしてかっこいい。それが当時の日本だった。そんな中、アメリカは若者へ影響力のある、悪童で売っていたラッパーが銃(暴力)による悲劇を描いていたのだ。私はこの時、「ああ、日本はアメリカには勝てない理由はここにあるのか」と思った。発信する力のあるもの、権力があるものが社会に対する影響もそれなりに考える、という自浄作用というか。その志というか。もちろん、全てではないが、そのアメリカの懐の深さにびっくりしたのだ。その後、2Pacは映画のように、実際銃で死んだのだが。

 

あれから20年以上経って。日本は当時と何か変わったのだろうか。子供を守る環境作りをしなければならない大人達が定期的に人気俳優を使って教師と生徒の恋愛を綺麗に描き、まだ世界を見る力の少ない子供達に事の問題の重要さを曇らせ続ける。こんな子供じみた媚薬の広告に目くじらを立てるほどの倫理観があるのであれば、なぜ教師と生徒の関係を純愛っぽく描く作品にクレームを挙げないのだろう。なぜ犯罪を防ぎたいのでれば、まず子供たちを守ろう、とは思わないのだろうか。ネットなどでは売りを示唆する投稿をする未成年側を責める大人もいてゾッとする。そういった未熟な未成年を問題視したいのであれば、そういう発想をする子供を生んでしまっている社会を構成してしまっている自分たち大人を責めるべきなのに。

 

要は、ラブポーションの広告にクレーム付けるぐらいの倫理観があるなら、目の前に当たり前に広がっている事にも気付いてね、という事。

ま、この非論理的思考、矛盾が人間というものなのかもしれないけど。

 

追記:この投稿の日、雑誌SPAが「やれる女子大ランキング」というクズ記事を作り、上位5校の大学が「著しく生徒の安全を脅かす」「女性蔑視だ」とクレームを上げた。これがまともな対応だ。となると、教師からわいせつ行為で被害を受けるのは更に年端もいかない小中高校生なのだから、マスメディアや既得権益側が教師と生徒の恋愛を綺麗に純愛っぽく描く作品を作ったら、各教育委員会、校長が団結して「教師への教育、統率に問題が生じる」「わいせつ教師から守りたくても生徒側へ間違った認識が受け付けられる」とクレームを毎回入れるべきなのだ。子供を守り、本気でワイセツ教師を減らしたいのであれば。

ただ、今日全国ニュースになった中学生へのわいせつ行為での逮捕は50代の校長だったのだが・・・。

なんだ、これ。