底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

人間の尊厳を傷つけられる事とは。人間性の無視とは。

SNSで直接「死ね、消えろ」。こういう事が大概尊厳の否定にあたるという認識が多いと思う。100のイイねよりも1の誹謗中傷が心に残る。これは有名なスポーツ選手が言っていた。しかし、何も特徴も無く目立たない(目立たないように生きている)一般人が直接誹謗中傷を受ける事って少ない。なのでジャブのように他人の尊厳、人間性を否定して削っている事に気が付かない、もしくは気付いているけど止められない人が多い。これが日本式の人格否定のやり方だ。はっきり差別や区別、誹謗中傷としてのパンチラインがあるわけではない。なので受け手はじわじわ心を削られ、尊厳が失われて自信を無くし、その鬱憤はの発散は内にこもるか外に向く。

 

むかし、いとうあさこがレオタードネタの時の冒頭で「今の年齢になって最近、イライラする!」というセリフがあった。更年期的なホルモンバランスの欠如の年齢ではなかった。私は当時からこれは「女性は年齢で差別されるもんなぁ」ぐらいは思っていたが、今自分が同じような歳になって更にわかる。特に直接言われるわけではない。それでもあらゆる挑戦を阻むものに(年齢)というのが日本では根強くあり、細かく自身の尊厳が傷つけられて意欲が削がれていく。

何度も言っているが、私はやっと獲得した路上喫煙禁止の中でも煙を吸わされる時にいつも自分という人間が無視されている感じを受ける。他人に吸わせる権利が無くなったのにそれを守らない=私を他人、守るべき人間を思っていない事が明白だからだ。

例えばこういうのはどうだろうか。たった3ヶ月で会社を辞めた人がいたとする。自分はまだその会社にいる。しかし同じチームの人は「アイツがいればなぁ」「アイツに認めて欲しいなぁ」といい続ける。今は自分がやっているにも関わらず。それは今目の前にいるアナタの人間としての尊厳が無視されている事でもあるし、業務としての感謝もない。例えあったとしたらそんな酷い事を言うのは更に問題だ。逆にそれぐらいで辞めた人間よりも今のアナタのスペックが低いからだ、という意見もあるだろう。しかし、それはスペック比較を細かく優劣を付けて比較するという問題であって、例えその結果劣になったとしても今目の前で仕事に従事している人間を比較して卑下し、尊重しなくていいという理由にはならない。

 

毎回同じ事なのだが、結局は人間を条件、スペックとして優劣をつける事=人間性の優劣を付けて見下す、尊厳を傷つける事、はイコールではないという事だ。これをわかっていない人が多すぎる。だから

・芸能人だから多少の誹謗中傷は受けるべき

・風俗嬢だから性的欲求のはけ口として扱っていい

・家族友達、気になる人等の指定された人間以外の人間性は無視していい

という発想になるのだ。確かに、人によって人間の評価は違う。絶対に男性は身長が高くないと駄目、と認知の歪みがある女性にその思想を否定するつもりはない。それは価値観だ。比較して小さな男性を下に評価として下に見る事もあるだろう。しかし、だからと言ってそれが相手の尊厳を傷つけて、人間性を無視していい理由にはならないのだ。

 

日本社会はこの、自分にとって都合のいい人間のスペック的評価(年齢、外見、年収、趣味等)で他人の尊厳を無視していい、という暗黙の了解があるように思われる人が多い気がする。

というのも、憲法学者の木村草太氏に噛み付いた匿名一般人がいて、もちろん論点がずれているから議論にはならなくて、

・木村草太氏は現状改善としての新しい提言

・一般人はその事を否定するエビデンスの無い個人意見をぶつける

の図式で、それに対して木村草太氏は「私は何も不快に思っていない。そうではなく、自身の憂さ晴らしにSNSを利用して攻撃してきた事を詫びるべき」と一貫していた。そりゃそうだ。未来の改善提言に対して現状こうだから全部無理、なんていう否定は議論ではなく相手の全否定だ。それは人間が考える生物、思考生物と考えれば人間性の否定だ。そんな事をするのは議論をしたいのではなく、相手を否定したいからであり、論破したいという欲求。その根源は結局自身が何かしらイライラしているからというわけだ。だからといって相手を全否定する権限は無いという事なのだ。

 

私は自分がゼロになった時にものすごく考えたし、今年になってストレート・エッジを止めた事で再度確認出来た。自分がスペックとして客観的に社会的優劣が付けやすい時とは違い、ゼロ、いや、社会的にはマイナスになったと感じていても他人との接点は同じように生じる。ちょっとした事、こちらを人間として認識した気遣い。それはしっかり今まで以上に伝わるようになった。逆に言えばこちらを尊厳を無視し、人間性を無視する人達の事も今まで以上にわかるようになった。

 

確かに誹謗中傷という大きなパンチはやらないが細かく他人を傷つける事、無視する事はOKという人が多くないだろうか。そこまで気を使ってられないという人もいるかもしれないが、私の知人で未だに一切SNSをやらずネットにも詳しく無い友人は対応がとても優しい。これは他人に気を遣うというキャパに余裕があるのではないか、と思う。リアルの接点などそんなに時間を取れるものではない。そこに当たり前に人間として接する。それだけ。

様々なSNSマッチングアプリ、会社、友人。人との接点が多ければ多い程、人によっては他人を尊重尊敬するというキャパがオーバーしてしまうのではないだろうか。もちろん、常に他人を尊重して感謝をする、人間性を磨くという信念の人は自身のキャパを増やす事になるのでそういった穴に落ちる事は無いのだが、そこまで自身の人間性を伸ばそう、客観的に注意しようという人の方が少ないのではないだろうか。

 

自身が当たり前のように他人から大事に扱われてない人は同じように他人に接する。恋愛、家族愛、友人関係。すべては承認欲求や認知欲求で説明が付くのだから、欲しい相手からだけ大事に扱われればOKで(つまり多少必要な演技をする)、その他の人間の尊厳を傷つける事、人間性を無視する事が平気に出来るようになる。だからネットの誹謗中傷を法律等で制限しても意味はない。問題は言葉狩りではなく、いかに他人を尊重できるか。尊厳を守る事が出来るか、だからだ。その根底を明確に認めないから法律で暴力が禁止となるとパワハラが起きる。DVが禁止となるとモラハラが起きる。法律に引っかからないように他人の尊厳を傷つける行為をする輩が減らない。ここがたまに芸能人が言っている、「自分がやられたらどう思うか考えてみて」が通じない所だ。なぜなら誹謗中傷する側も常に細かく尊厳を傷つけられ、人間性を無視され続けているからだ。その蓄積は人間性を破壊するには十分の威力がある。楽しい事は蓄積するが悔しい事、侮蔑的な事は蓄積ではなく熟成する事が多い。そのぶつけようも無い焦燥感、怒りは自身の精神をついばみ続け、結果、自身の尊厳を守る為にはその矛先を他人に向けざる負えなくなってしまう。

 

またとりとめもない備忘録。

 

木村花さんの件で気になるもう一つの視点

 大きくはモブ化の延長でもあるけど。本当に個々の正義って自分がしっかり人生の中で考えてきた結果なのかしら?って思うのですよ。ネットの反応見ていると。

木村花さんが亡くなった事で普段誹謗中傷を浴びる芸能人が声を出すのはわかる。でも一般人はどうだろうか。常日頃考えている誹謗中傷問題。もしくは今回をきっかけに考えるようになった。それでもいいと思う。それは木村花さんというキャッチーなアイコンだからではないだろうか。美人で活躍していて若くてスタイルが良くて。芸能人に対する誹謗中傷問題、と簡単に片付けていないだろうか。それは逆に言えば芸能人以外なら誹謗中傷(それに準ずる)扱いをしてもいい、という事にはならないだろうか。つまり、結局他人をモブ化していないだろうか。そして、その考えに一貫性はあるのか。あなたの歪んだ正義(認知の歪み)が日々他人を傷つけていませんか?

 

例えば同じ自殺でも女子中学生がいじめを苦に自殺したとしたらどうだろうか。ネットだと自殺するくらいなら逃げろ、とか残された人の気持ちを、とか。自殺者側を責める声が多数上がる。周囲に追い詰められた末での自死という点では木村花さんと変わらないのになぜこんなに死の扱いが変わるのだろうか。

こんな例もある。女子高生が教師(成人男性)との恋愛のもつれで自殺。この場合は女子高生側が責められる事も多い。年齢的に成人側が未成年を性的搾取をしたのにも関わらず。自殺の扱いが変わる。

自殺行為には命を絶つ以外にやってはいけない手もある。無差別殺傷だ。死刑になる為に関係の無い他人を襲う。この行為は責められるべきだが、自殺行為でもあり、彼らをここまで追い込んだモノに思いをはせて悩み、共感出来ないまでも理解しようと努力しているだろうか。

 

つまり、自分が選んだ人間(大切だと思う人間)のみ誹謗中傷を問題にしていないだろうか。今、木村花さんの死を悼み、誹謗中傷は良くない、と叫ぶ一般人は過去にAKB時代の前田敦子さんに対する鬼のような誹謗中傷の嵐の時、何を思っていたのだろうか。

 

この人間に対する目線の一貫性の無さ。差別。この歪みの吐き出し口が単純に誹謗中傷なだけで、人によっては不倫だったりパワハラセクハラだったり、いじめだったりするだけではないだろうか。

自分がどういう倫理観、人間として生きたいのか。そんな問いかけを常にしていないで刹那的に「これ、駄目」と言っていると必ず歪みが鬱憤となって他人を傷つける行為を平然と出来るようになる。

人間性が問われると思う。

木村花さん死去でのネットの反応と人間のモブ化について

毎回こういう事があると悼む側は

・誹謗中傷はよくない。芸能人だって人間

SNSは匿名性無くす、プラットフォーマーに何かしら規制できないか

誹謗中傷を肯定する側は

・誹謗中傷されるのは芸能人税だ。嫌なら公人やめろ

スルー力を身に着けろ

・前向きに返事等の思考の転換を身に着けろ

となる。論点が完全にずれているので噛み合うわけがない。

 

私が思うのは日本人は異常に家族や仲間(友達)等、自分が決めた人以外をモブ化しすぎじゃないか、という事。他人を人間として見ていない、人間性を無視している人があまりにも多いのだ。だからなんでも細かく法律で決められないと社会の事を考えて行動が出来ない人間の方が普通になってしまった。

私は人間観察において、細かい反社会的行動(路上喫煙等)をする人間の共通点をずっと探してきた。例えばマンハッタンのウォール街の路上でタバコを吸う人を発見出来なかった。セントラルパークでも。もちろん、路地に入ってもいない。たまに見かけるのはいかにも移民系の人。数日滞在して路上喫煙者は2名だった。しかし、日本はどうだろう。スーツを着た人でも年齢関係無く路上喫煙が駄目な場所でも私有地ならOKと、ビルの敷地でちょこんと立って吸っている人、路地に入った途端に吸う人。沢山いる。アメリカと違ってこういった社会行動に年収差が無いのだ。そんな中、気がついたのは喫煙で言えば法律云々ではなく他人にタバコの煙を吸わせる権利が無くなった、という社会の為のルールというのを理解しているアメリカ人と法律守ればいいんだろ?という日本社会の違いだ。そして、法律守ればいいんだろう??社会の日本では抵触しなければ何をやってもいい、となっている感覚を持っている人が年収関係無く多い。

 

そんな中、他人を自分と同列の人間として見ない、尊重しない特定の行動をする人達はその他の場面でも他人を尊重する事が無い言動をする。それが基本の思想となっているからだ。例えば先の例で言えば路上喫煙で他人に煙を吸わせる事をなんとも思わない人は自転車で無灯だったり、邪魔な場所に駐輪したり、無料の施設だから汚したり、と細かい所で自分勝手な事をする傾向がある。こういう人は子供がルールを無視していても注意せず、他人が注意すると「ほら、おじさんに怒られちゃうから」とルールを守る事ではなく怒られないようにする事を子供に教えたりする。暴力は駄目だからモラハラ、セクハラ、パワハラはする。目に見えないからだ。自分の為に他人を利用するのもなんとも思わない。世の中には利他的に思考出来る所謂「いい人」と呼ばれる属性の人達がいる(私もそうだ)。こういう人達を存分に利用しておいて人間性の尊重、尊敬をする事はしない。利他的行動ができる人達は私の役にたった事自体でうれしい、満たされているんでしょ?と勝手に自己解決している。

 

つまり、誹謗中傷するなという当たり前の行動単体の話をしても意味がないと思うのだ。横にいる見知らぬ他人も自分と同じ人間だと思う事。尊重する事。たった1m以内の事。ここからなのだ。

誰だって子供の頃、いじめっ子、いじめられっ子、傍観者。どれかを経験したはず。全部経験した人だっているはず。そして本を読み、映画を見て劇を見て。年齢を重ねるに連れ自分の痛みと他人の痛みが理解する能力が身につき。そして社会が個の集合帯で出来ている事を知る。日本社会はこの当たり前の心の成長がどこかで欠落するのだ。

長年生きていれば一度はマンホールが開いていて中で作業しているのを見たことがあると思う。しかし、その穴にタバコの吸い殻を捨てる人の多さたるや。自分が認めた人以外の他人を同列の人間と思っていないから店員に横柄な態度を取ったりも出来る。

 

こういう人達はモブ化した他人が死んでもなんとも思わない。だって同列の人間と思っていないから。でも自分が認めた人間が亡くなった場合は大いに悲しむ。こういう人達は海外の犯罪者プロファイルで言えば孤独な中年という事なるだろうが日本ではむしろ逆の事も多い。家族もいて安定した職があり。遊んだり相談にのってくれる友達が多い人達だったりする。日本で孤独な人達は自分以外はむしろすべて社会であり、だからこそ悪意が増幅した時は社会全体が悪になったりもするが、そんな事はなかなか無く自分が所属する場所が無い為に誹謗中傷する場合は承認欲求としての行動である事が多く、この解決は難しく無い。問題は前者の所謂普通の人達だ。この人達は他人をモブ化しているのでたちが悪い。普通に仲間内では「誹謗中傷、良くない!」って主張したりする。他人のモブ化してその人の人生を尊重しない事が根底にあるので、不倫も平気で出来る。自分の役に立つのであれば相手の時間を使う事になんらためらいも無いし、独身の不倫相手も「お前も楽しんでいるだろ?」と認知の歪みまで持っている。そしてこういう人達はモブ化している他人をゲームのごとく動かす術を持っている人も多い。口から心にも無い耳触りのいい言葉を平気で吐く事が出来る。だからその逆に相手が心底傷つく誹謗中傷も言える。

 

誹謗中傷を止めよう、なんてざっくりした大きな話じゃない。隣の他人、すれ違った人。全員自分と同じ人間であり、その集合体が社会であるという当たり前の感覚を持つ事。それだけでいいのだ。一般庶民が政治家のようにざっくり「アルバイトが出来ずに困窮した学生」というクラスターで人を見る必要はないのだ。近所の閉まっている店があったら、(ここのアルバイトの人、収入無くなって大変だろうなぁ)と思いをはせるだけでいい。アルバイトが出来ないで無収入に学生も中高年も関係無いからだ。

 

この人間をモブ化して他人を尊重しない人達の傾向としてもちろん、従来の孤独で自分以外は社会であり、その社会から弾かれているので自分も無視するという属性の人はいる。しかし最近思うは所謂普通の人達。この人達は自分が決めた(選んだ)社会だけはずっとある、むしろ選択出来ると思っている節がある。例えば、正社員で家族がいて決まった友達がいて。この自分が選んだ社会が壊れない限りその他は自分の快楽や憂さ晴らしでモブを利用する。あまりいい例ではないが、独身の中高年がガールズバー若い女性に恋をするというのがある。これは孤独な人が他人に優しくされた事でキュンとなってしまうから。それが相手は仕事であるという事を無視するほどに。つまり社会との接点が少ない人は他人の優しさに感謝できるという事。しかし普通の人達は自分が選んだ社会さえあればいいので、その他は自分には関係無い。利用出来る人間は利用する。そこに感謝はない。むしろ相手は自分の為に動けて幸せでしょう?ぐらい思っている。

となると、社会との接点。となりの他人に優しく接するまでいかなくても、モブ化せずしっかり自分と同じように傷つく人間、考えている人間と思って相手の人間性を尊重して接するだけで、その扱いの気持ちは相手に届く。ちゃんと人間として接してもらうだけで人は癒やされるものだ。この癒やしは知覚しない事も多い。所謂深層心理の部分だ。この知覚しない心の底がポカポカする事だけで気持ちが変わる。また例を出してしますが、不倫相手の独身女性が長く続かないのは体とその場の楽しさ以外既婚者は求めない事で通常の交際相手よりも楽で楽しい分、自分の人間性が踏みにじられる感覚があるからだ(これは知覚出来ない人もいるがしっかりダメージは残る)。

 

出来る事は簡単だ。他人をモブ化しないだけ。ただ、これがシンプルなだけにとても日本社会では難しい。それは人間の多様性を認める事だからだ。公的期間でも年齢差別で職がないように、まずは年齢。そして世界で120位以下でもある性差別。この年齢性別という2大クラスター化には様々な決めつけも紐づく。逆に言えばそこに入らない人はドロップアウト組でモブ扱いされる。政治が庶民の多様性を認めない中、庶民が身につけたのは「じゃ、がんばっている私がゲットした社会以外はモブよね」だった。これは為政者からすれば都合がいい。

 

とりとめもなく書いてしまった。とりあえず、誹謗中傷をなんとかしたい人達は関係無い他人の人間性、人生を尊重する所から初めてみてはいかがだろうか。それは伝播してきっと社会の雰囲気を変えると思うのですよ。

 

ストレート・エッジを止めた結果

2014年から。このままだとアルコールで死ぬ事になると思い、生活の立て直しを決意して断酒。暴食も止め、元々ドラッグもタバコもやらないし、愛の無いセックスも元々できない(相手もいないが)生活を続けた。この時に出会った人からは「まるで修行僧だ」と言われるほどのストイックに自分を追い込んだ。所謂、ストレート・エッジだ。

 

実は今年からお酒を解禁にした。それは既に6年も続けていたストレート・エッジそれ自体が目的となって、自分のプライド、誇れるものになっているのではないだろうか?という疑問が出てきたからだ。つまり、例えば生き方そのモノがパンクな人がストレート・エッジを選んでそれも主義として取り入れている場合は結果的にそういう選択なだけであって本人はそこまで意識していない。しかし、私は主義主張で禁欲生活をしているのではなく、禁欲生活によって等価交換的に別の世界が見えるのではないか、とか、逃げ場を無くすため、とか打算的ストレート・エッジであり、根本的人間性の延長になっていないのではないか?その事事態が目的となり、勝手に自分に自信を持ってしまっているのではないか?と思ったのだ。

 

そんな意味の無い自信など壊すしかない。そうすれば、

「おれ、2014年から断酒して一滴も飲んでないよ」

「ええ!すごいなぁ」

という小さな称賛のやり取りがなくなる。自己紹介の時に私を客観的に褒める部分がゼロになる。つまり、更に客観的に褒める部分を作らなくてはならなくなる。という自分を追い込む図式になるのではないだろうか。

 

そして実際今年から酒を飲んでみた。コロナ騒動で無収入になった事で更に暴飲暴食が進み、体重は10kg増えた。

 

ここで気付いたのだ。自分が普通の自信を取り戻しつつある、という事を。

というのも、ストレート・エッジ時代は自身の価値の最前線はあれだけ毎日浴びるほど飲んでいた酒をスパッと止めてストイックな生活をしている、という事だったのだ。なので一般的な社会を少し離れた目線で見てしまい、自身の居場所はそこに無いという感覚になっていた気がする。

しかし、自堕落な生活でぷくぷくに太った事で、今までの自分の人生全体、人間全体を含むように見る事が出来る感じになった気がする。久しぶりに、「俺、アイツに全然負けて無いしむしろ上だし」という感情が出てきたのだ。

今までは自己の尊厳のポイントがストレート・エッジであり、それ以外は負けている、自分がフラれるのは仕方ない、と、自分を責める日々だった。今は全てが同じ土俵に立ったわけで、経済的条件やその他諸々ポイントでは負けている部分はもちろん変わらないのだが、諸行無常の人生において、「しかし、俺は負けていない。」という感覚を持つ事ができたのだ。

これは所謂根拠の無いネットの「無敵の人」とは違う、

・私は生きていて良い

・私をふった人が私の尊厳を剥奪する権利も否定する権利も無い

という事であり、そこに私の小さい時からの思想「人間性自体の善悪に人は大差はない」という事が融合して、常に自分を下に見るクセが無くなって来たのだ。

 

このブログのタイトルがまさにそう。自分の事を「底辺くん」と自身で蔑んでいた。しかしそれは私自身の人間の事では無かったのだ。

人間性を否定する時、その人の周辺情報、時には外見や年齢だけで判断する人はどうしてもいる。そういう人は自身もそのように周辺情報を揃える、整える事で自身の価値の見出している事が多い。極端に言えばカキタレというお笑い芸能人専門のサセコなどもそうで、芸能人とセックスする事で自分の価値が上がったという錯覚する価値観。私のストレート・エッジも結局そういう事になっていたのだとわかった。ストイックな生活=私が人間のステージが上がった、と勘違いしていた。

 

そうではない。私は元々高いのだ。全ての人間は基本的に尊厳を保たれるものなのだ。

もちろん、そう思い続けるのは容易ではない。私の人間的価値を認めない、見下す、他人と外見や年齢で比べて落とすような人は周囲にいる。何も無くなった今の方がそういう人達の態度のダメージは大きいが以前のような反抗心は無い気がする。だって反抗する必要が無いから。負けてないんだもん。私の価値がわからない貴方は可愛そうね、ぐらい思える。

 

この新しい価値観によって、今年やっと私を苦しめてきた10年付き合った彼女からフラれた傷が完全に違うベクトルになった気がする。今までのように自分を責めてばかりいない。そもそも私を苦しめる人間って何?

 

今年は前向きにいきます。

経済死が増えるんじゃ無かったの?

news.tbs.co.jp失業率が1%増えると○○人自殺者が増える。これはよく言われていて今回のコロナ騒動でも様々な数字で経済死を防げ、という話が出ていました。しかし、自粛で私のように無収入になった人、減収の人も多いはずなのに先月は減っている。もちろん、今後倒産や長引く自粛による鬱状態からの自殺者も増えるかもしれない。だが、先月の数字は経済死よりも日本人を殺すのが経済活動や学校等でのコミュニティーが一番の問題である事を示唆していると思うのです。

 

私は底辺(今もそうだが)でほぼ引きこもりで沈んていた時、立ち上がる為には自分を知らないとならない。今まで会社や他人に尽くしてきた自分が何をしたいのか。そこを徹底的に自己分析しました。過去に遡り自分を見つめたりして。そしてまず思ったのが、今までのサラリーマン人生は楽しかったし金もあったけどストレスもすごくて、その原因が不正義な上司に使われる事であるのに気がついたのです。当時は酒量もすごかった。つまり、金よりもストレスが無くなれば人生幸せなのでは?と思ったわけです。

で、今はそういう生活してます。ただ、未来への挑戦をするためにあえてこの状態から脱したい、という状況にまで追い込んではいます。所謂ストレスを与えているわけです。

脱線しましたが、何が言いたいかというと日本人はハッキリと意思表示が出来ない、しない社会である為、この人間関係による軋轢のストレスが人を自殺に追い込む一番の原因になっているのではないか、という事。こんなに他人を追い込む、傷つける事を簡単に出来る社会ってなんなのだろう、って思うわけです。それが中・高生の妊娠の相談が現在過去最多という事にも現れていて。ちょっとここら辺の他者問題は次回しますが、そろそろ金よりもストレスが問題という事に気がついてもいい時代な気がするのです。

 

お金は確かに大事で、サスティナブルな仕事は確かに正社員が最強。しかしそれでストレスで心が死んでいくのであれば意味が無い事に気がついていい時代なのに、なぜそうならないのか、が不思議なんですよね。多分、何をするにも金がかかりすぎる問題もあるのかもしれない。田舎に住んだからといっても都会と変わらないほど結局コストかかるし、排他的な所もある。一番は正社員で仕事も楽しい、高給でプライベートも充実。それが最高なのだろうがそんな人はほとんどいない。

ストレスで死んでしまう人は精神的に打たれ弱い人だけではない。誠実、真面目、何事も真正面から一所懸命という人も公私共に利用されるからストレス死するタイプ。例えば両者とも仕事をぐっと減らして月給10万以下の生活にした場合。二人が結婚すれば合わせて20万。週休は3から4日。都内の良いところでも家賃9万円で2Kくらいの所に住める。質素だがストレスの無い生活を送れるのだ。

ストレスよりもあえて貧乏。もちろん、貧乏がストレスという人もいるのでそこは経済観の作り直しが必要ではあるが、そういう生き方も見直されてもいい気がする。働いて収入が増えたら自殺者が増えるなんて正常な社会とは思えないし、社会はそんな簡単に変える事は出来ないから、自分のストレス性質が社会との関わりであれば自発的に社会から距離を置くという手もあって、その為の戦略的結婚という手もある、という事。

 

もちろん、今は現実的は話じゃない。でも、アフターコロナの社会にこうしたネオ・パートナーシップと呼ばれるような金銭的欲求よりもストレスを敵とする人達、生き方が増える予感がする。

自粛生活、いかがお過ごしでしょうか。人間、見えてます?

こちらは職場が閉鎖されて絶賛無収入、考えていた事業もアフターコロナの世界がどう変わるか不確定な中、ストップという絶望しかない状況です。政府が初めて国民に対応した466億かけた布マスク2枚、この対策の意義は「できるだけ素早く配布する為」だったはずなのですが、未だに届きません。既に民間が原価マスクの販売を初めて安く手に入る環境が整いつつあるんですけど。政府が言う「早急対応」ってなんなんだろう、って笑える毎日。

徐々に自殺や同居人への暴力、強盗の事件が増えてきましたね。これは人間が追い込まれて通常思考じゃなくなる事なのでそういった状況下の人に「金の問題だったら、」とか「そんな仕事を選んだ自己責任」というのは意味が無いです。

で、最近気になっているのが個々の庶民が他人が見えなくなっているのではないか、という事。これはこのブログでも何度も言ってきた事だったのですが、それが今回顕著になった気がします。例とあげると、国はざっくり飲食店を分類します。そこを本来各都道府県の首長は自分たちの地域特性を考えて更に細かく分類する必要があります。今それが出来ない法律を知事会は政府に訴えています。で、今議論になっているのは更に東京だったら区でも特性が違うのでは、という話。地域を統べる為政者はこうしてマクロの範囲を狭くしていく。じゃ、庶民としてはどうなのか。

そんな社会目線を全ての人が持つ必要はなく、気がつく隣人の苦難に寄り添えればいいわけです。個の他人への共感力。それがなんかオールジャパンじゃないけど集団の力というか、クラウドファンディングのせいなのか、目に見えるグループや店等を救おうという発想にはなってもその裏にいる働いている人間達への目線がとても冷ややかに感じるのです。そうした他人への冷酷さが失職、収入減少の自営業やフリーランスの人たち、私のような人間への「自己責任論」での切り捨てやコロナにかかった人、医療事業者への嫌がらせにつながっていると思うわけです。

 

これは以前から言っていた、「喫煙者が路地に入った途端に歩きタバコする」の発想と同じで条例で禁止されている理由が他人を害する権利が無くなったという事を理解していない=他人への配慮が出来なくなった人、というのと似ていて、家族と友達以外は人間として自然と認識しない能力が日本人は特化して進化(退化)したのでは、と思うのです。

 

そんな中でのアフターコロナの社会ってどうなるんでしょうか。そんな事を考えたりしてます。

 

紅白でのレインボーフラッグが注目浴びたけど。真の浸透は難しいというお話

先のエントリーのヘイトともかぶるお話なんだけど。

LGBT(今は更に頭文字加わったパターンがあるけど、ここではこれで)に対する差別を止めよう、という世界の流れ。日本では現在マツコ・デラックスも活躍しているし、意外と早く「私は別に差別しないよ」という声が世間でも聞かれるようになっているのよね。でも、ここには日本独特の建前と本音がございます。というのも、

「差別しない」

という人は自分の周囲に実際に該当者がいないのを前提としている事が多いのよね。要は表面的に自分は世界最先端の考えをもっている、というアピールの方が優先、もしくは当事者意識が無いから言える事。これは日本人独特な感覚。例えば・・・

ど田舎に住む白人男性。村おこしで古民家を修理して民泊をして稼ぐ。周囲の人も最初は遠ざけていたけど次第に仲良くなって・・・。

よく聞く話だ。しかし、これが中年の一人男性だとどうだろう。または黒人男性だとどうだろう。村八分に合う確率の方が高い。いやいや、中年になってから田舎移住でうまくいっている独り身の芸能人もいる、という話もよくきく。それも芸能人だからだ。

夫婦別姓の選択の自由さえも認めない差別意識が強い国民性という事をしっかり理解すれば横軸でわかるはずなのに、なぜか点で見ると「田舎っていいなぁ」となったりする。移住募集要件に「結婚している40歳以下」とかいう差別的な選択があるのが普通だったりする地域なのに。

そういう民族性を考えれば、LGBTのムーブメントを受け入れる事自体は簡単。しかし、権利を与えるか、となると別。マツコ・デラックスが受け入れられているのは外見も含めて非日常感が強いからだ。これが今までヘテロセクシュアルと思っていたイケメン系芸能人がホモセクシャルとカミングアウトしたらCM契約がどうなるかわからない。ファンは知っているので受け入れるとは思うが。なので、

LGBTの問題、同性婚問題の前に、夫婦別姓等の非日常と思っていない事柄の多様性を認めてから、という順番にならないと差別が根付いた社会意識は変わらないのではないか、と。

まあ、様々な社会の人がいる場に意識的に行かないと多種多様な人とは出会えないのでなかなか視野を広げたり、当事者意識を持つのは難しいとは思うのだけれど。