底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

自由には責任が伴う、ということ

ネットではとかく、「・・・は自由だろ?」とか、「表現の自由だ!」とか、自由を振りかざす主張をする人が多い。以前も言ったが、ネット社会などというのは存在しなく、この人達はリアル社会でもそういった思想の持ち主だ。なぜ日本ではこういった思想の人が多いのか。それは日本が「・・・してはイケない」文化だからだ。

小さい頃から校則で縛られ、公園ではそこら中に「・・・禁止」の札。禁止で縛られてきたので、それ以外は自由でしょ?という事になってしまったのだ。しかし、本来自由の方が難しいのだ。

カナダの国立公園は逆に「・・・して良い」という注意書きだという。それ以外は各個人当然考える事、ということだ。ここに自然との調和を考えなければならない自主性が生まれる。

禁止事項以外は自由だ、と思っている文化圏(韓国も同じ)の責任感は、基本個人の最小被害に関する度合い、という事になってしまう。例えば、その自由を振りかざして見ず知らずの他人を不快にさせたとしても、発信源の個人の感覚で、その被害が少ないと思えば自分の自由の方を優先するのだ。少数(と勝手に思っている)人間は無視してもいい、と思ってしまうのだ。その少数の他人とは未成年の芸能人にも向かい、発言の自由を振りかざして公の場で罵詈雑言を浴びせることになんら疑問も抱かない。もちろん、そういった人は見ず知らずの人にもネットであることを良いことに罵詈雑言を浴びせる。

禁止事項で縛られた文化圏の特徴だと思うが、この情報社会。そろそろ自ら考える力を大人が持ってもいいのではないだろうか。例えば、中学、高校の時に誰しも仲間同士で誰がかわいい、かっこいい、と話あった事があったと思う。その時、全員一致する事はまず無い。その時にそれぞれの好み、というのがわかって更に仲良くなったりするのだが、その時、自分の好みじゃない人を挙げた人に対して、ブス、キモい、ブサイクは消えろ、などと言うだろうか。それもしつこく何度も何日も。そんな事をしたら総スカンだろう。もちろん、「え~!あいつかよ!」みたいなからかいは実際あるが、相手の好みを自分の好みで全否定するなんて中高生ぐらいになればさすがになるくなる。しかし、そういった否定が当たり前の社会とはどういう事になるのだろうか。学校で考えてみれば想像出来るだろう。Aさん、Bくん、の事を掲示板でブス、ブサイク、と言い続ける。Aさん、Bくんは生徒会長で人前に出る事も多く、目立つ存在だとする。もちろん、後輩からも人気があり、先生からも信頼がある。しかし、発信者はそういった目立つ存在なのだから、言われて当然。嫌なら生徒会長なんて立候補しなければいいのだ。自分には言論の自由がある。と言うことで、せっせと罵詈雑言を掲示板に書き続ける。どうだろうか。立派なイジメだ。そういった事が正当化される社会を作りたいのであれば、言論の自由をふりかざして罵詈雑言を言い続ければいい。将来の自分の家族がどんな被害にあっても、そういう社会を作ったのは言論の自由を振りかざして罵詈雑言を言い続けた自分なのだから。

実は人種、性別、信条等を否定するような国際的に(日本も入っている)禁止されている。言論の自由は存在するが、それよりも人間への尊重の方が勝るのだ。

自由には責任が伴う。最小被害なら別に構わない、という考え方は個々の人間を尊重しない社会を作り出す。なので、人間をひとまとめにして括りたがる。主には性別や年齢だろう。個々の人間性は無視が基本。そういった社会を否定しながら実は民衆が作っているのだ。

国のトップである政治家が責任を取らない国であるのである意味仕方が無いのかもしれないが、このまま悪化するのなんとか止めたいと思う。