底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

知的障害者という言葉

ども、底辺くんです。

私は幼い時から「障害者」という言葉が嫌だった。小中学校とも公立だったため、研究学級というクラスがあり、いわゆる、「知的障害者」と呼ばれる子供達が集められていた。私は何度かクラスに遊びに行く事もあり、「確かに、会話のキャッチボールは出来ないが、それだけ」というイメージだった。実家の隣の家に同じような子がいて、よく叫んでいたのも私にとって日常の風景になっていたのかもしれない。なので、なんか「障害者」という言葉が一括りでネガティブなイメージがあって、子供心に口にする事をしなかった。

 

なぜこのような話になったかというと、底辺にいる引きこもり無職無収入デブはこのまま貯金が尽きればホームレスになる事が確実。私ほどの経歴と実績があっても(あるからこそ)、中年かつ無職歴が長いマネジメントレイヤーは就職出来ないのである。就職だけが生きる道ではない。しかし、何にせよ私自身、自分がデブで醜いと思っているようでは新しいチャレンジなど出来やしない。で、近所の運動場で運動をするようになった。時間は売るほどある。

 

毎日その運動場に行っていると、決まった時間に特別支援学校の子供達が運動をしに来る事がわかった。一人で走れる事もいれば、教員と手をつなぎながらの子、何か同じ単語を叫びながらの子もいる。何度も会っているうちに、ふっと「そういえば、彼らは知的障害者、と呼ばれていたな」と思った時、はたと気づいた。

 

「知的」な部分で「障害者」とはどういう事だろうか。運動場での特別支援学校の子供達。彼らには毎日通う場所があり、受け入れてくれる社会があり、家には待っていてくれる家族がいる。

 

それに比べて私はどうだ。私の年齢なら結婚して子供が成人になっている人もいる。私は中年で未婚。無職無収入。社会に何も貢献できていない。オマケに友人もいないので、一人、社会から完全に孤立している。これはコミュニケーションに難がある、という証拠なのではないか?つまり、私こそが「知的」な部分で「障害」がある人間なのではないか?

 

そう気づくと途端に生きているのが怖くなった。辛くなった。しかし、ある四肢に生まれつき障害があるXスポーツのプロの言葉を辛うじて思い出した。

 

「俺は生まれつきこの体だから、自分が障害がある、って思ったことは無いんだ。他の人と違う、ってだけで俺は俺だからね」

 

ふむ。今私は社会の底辺にいる知的障害者かもしれない。でも、昔からこんな性格だし、それで今までやってきたから。自分を変に卑下する事なく、個性として認めて前を向いて出来る限りの努力をしよう。

 

 

なんて、強く生きれればいいんだけど・・・・。