底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

どの政党になったって世の中変わらないのだから、選挙に行っても無駄、という風潮

今回の総選挙でネットで多くつぶやかれた庶民の本音である。結局どの政治家を選んだ所で自分の生活がよくなるわけではないので、選挙に行かず、自分を変化させる事に時間をかけよう、というのだ。選挙に行く数分を自分に費やした所で何が変わるのかは不明だが、どの政治家を選んだ所で世の中変わらない、というのは結構的を得ていると思うのだ。

 

ビジネスで多くの人と会っていた時は瞬時に相手を判断する癖がついていた。それは自分に得があるかどうか、である。この得にも色々あり、ビジネス上のメリットが主である事が多い。その後、リスクとして人間性も分析する。これはビジネスパートナーとして信用出来るかどうか、という事だ。もちろん、相手の会社での権力(決済レベル)も重要。しかし、底辺層で引きこもりだと相手の社会的立場や権威などがまったく関係なくなり、純粋に人間性を見ることが出来るようになった。そこで気付くのが、人間は良くも悪くも、まずは私利私欲が最初の行動欲求である、ということ。滅私奉公を出来る人は余程恵まれた人生を送り、もう何も必要ないか、もしくは代償的自己が亢進してしまった、精神疾患体質の人である。

そのような目で人間を見ると、日本での政治家、というのはどういった人間か。立候補するにも金が必要。政党に担がれるには支持者が必要。そもそも、今回の総選挙では有権者の6分の1しか安倍政権を支持していない。つまり、与党の政治家とは原則、有権者の6分の1の為に働く人達。なぜかというと、元作家や芸能人、弁護士で無い限り、通常政治家に当選しないと無職者と同じであり、弁士、などという肩書にならざる負えない、リスキーな職業だからだ。当選し続け、無職を避けるためには、地元の有権者の6分の1の人達だけが得する事をし続けないとならないのだ。そして、そんな彼らを支える地方議会議員達がいる。そして職を追われる多くの中年官僚達の天下り先確保はあぶれた議員達とのバーター関係で成り立っている。(庶民の多くの中年は職を追われるだけで天下り先などないので、無職引きこもりが増加している。)

 

日本の政治がこの構図である限り、どの政党になった所で確かに庶民にとっては何も変わらない。私は以前、この事に気付いた時に「民主主義の限界」と呼んだ。日本の選挙制度は民主主義をいかに反映しないようにするか、いわば庶民の投票率を下げる事が重要になっているし、選挙に行く一部の庶民もマスメディアに操作されるような人達も多く、アリストテレスの言う、「善良な人達」が大前提で無い限り、民主主義は成り立たないのだ。

 

一部例外な政治家もいる。それは橋下徹大阪市長だ。彼は弁護士でありタレントであった。そこで十分な金も稼いでいたし、政治家で無くなってもタレントとしてやっていける、帰る場所がある。そうなると、マズローでいう、自己実現欲求が占める部分が通常の人間よりも大きそうに見える。なので通常の人間の私利私欲の大部分を占める金と権力の部分の「金」を自ら削減する事が出来るのだ。ただ、維新の会の人間全員がそういった人間であるわけは無い。ほとんどは私利私欲の為に党を利用しているだけであり、日本では清らかな志の人間など政治家には成れない制度になっているからだ。とはいえ、彼も政策を実行していく上で権力者との持ちつ持たれつ関係、所謂「しがらみ」を避ける事は日本社会ではかなり難しい。なぜなら権力者は組織票を持っているからだ。しかし、大阪は旧勢力が税金をポケットマネーのように使いまくってしまい破産寸前まで言ったので旧勢力が維新に勝てる程の票を集める事が出来なかった。東京での土地高騰操作や株操作のような、金の餌が無いからだ。それを知った上で、橋下徹大阪市長は庶民の票を味方に付けた。自民党有権者の6分の1の人達で十分であるのに対し、維新有権者の6分の5を味方に付けようとしているのだ。

 

そして、実際、大阪の改革は進み、実績が出始めている。つまり、庶民が選挙に行き、今までの政策を担ってきた旧勢力以外を選んだ事で、社会を変える一歩が出来たのだ。

 

しかし、これも長く続くかどうかわからない。庶民を味方にして一気にカタを付ければ何とかなるかもしれないが、大阪都構想実現が長引くとその効果の前に庶民が疲れ、目先の利益に走るし、その票の埋め合わせとして票を持つ権力者を味方に付けざる負えなくなり、しがらみが生まれてしまう。そうなると旧勢力と対して変わらなくなってしまう。今大阪では理論的でも論理的でも無い理由で、とりあえず橋下徹大阪市長が言う政策には反対して成り立たせないという、遅延方法を旧勢力が取るのはこういった為だ。反対し続け、庶民が飽きるのを待っているのだ。心変わりした庶民に責任を問うのは酷というものだ。彼らはそういった事に気づかないから庶民なのだから。

 

つまり、社会ヒエラルキーのどの層であっても基本、私利私欲で生きている限り、どの政治家を選んでも社会は変わらない、というのは大阪のような特殊な例でも無い限り無理、という事になる。現状、選挙に行っても無駄、というのは正しのだ。

 

では、橋下徹大阪市長のような政治家を沢山排出すればいいのか、という事になるが、日本の選挙制度は金持ちでないと立候補出来ないため、自己実現欲求まで行っている人は海外で城や島と買って優雅に過ごしてしまい、日本社会の為に邁進するような教養の人物は稀有な存在。もしそういった人がいた場合、むしろプライベートでは支持者が少ないだろう。付き合ってもメリットが無い人になってしまうわけだから。私利私欲よりも社会正義を優先する人間など、日本のトップビジネス界では頭のおかしい人だ。そうなるとタレント等、庶民への知名度を武器に立候補する事になり、いよいよ狭き門の人材になってしまう。特に東京は金と権力が集中しており、既得権益者以外が付け入る隙はない。

 

多くの庶民がここまでシュミレーションをして結論を出しているわけではない。庶民の側にはその程度の差はあれ、接する事が出来る社会の権力者やリーダーがおり、彼らを見続ける事によって、実感的に「人間はクソだ」と決めつけてしまっているふしがある。身近に多くの立派な権力者、リーダーがいればいいのだが、旧日本のように、庶民が地元の大地主に頭を下げ続け、搾取されても感謝する時代(地方はまだ多いが)では無いのだ。

 

もともと貴族院であった参議院の役割さえも変える事が出来ない日本の政治制度ではこの傾向は続くと思われる。有権者は選挙にますます行かず、しがらみのある人達は加齢によって減るため、投票率は下がり続けるだろう。それでも無職になるのが嫌な政治家、官僚達が庶民と同じ人間である限り、制度は変わらない。ここまで追求すると次は哲学の問題になってしまうので今日はここでおしまい。