底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

清原和博の告白を見て底辺が感じる事 孤独と孤立

ども。底辺くん。

1年ぶりにテレビ出演した清原和博が離婚、人が離れていき、本気で死を考えた、と。子供いなかったら危なかった、と。

かなり私に近い状態だ。違うのは彼には離婚しようが子供という家族がいて、なおかつ1年ぶりとはいえ、禊が済んだ度合いで再度メディアの仕事がもらえる、という事。それでも死を考えた、なんて。

そう、私もとっくに自殺については考え済み。しかし、何度も、色々な方法を考えても自殺には決定的な問題がある。それは、他人に迷惑をかけてしまう、という事だ。

私は普段から社会のマナー、ルールをきっかり守るタイプで、他人に迷惑をかける事が嫌いだ。それは決して利点ではなく、今は性格の欠点だと思っている。ま、性格の事は置いておいて、国内での自殺は確実に他人に迷惑をかけてしまう。腐敗、白骨化した遺体を発見する人の身になったらとても出来る事ではない。そうなると、海外で、という事になる。ジャングルの真ん中や死体が処理されやすく、人に見つからない大海原かつ、通常航路外の場所等。頭の中でシュミレーションもしたのが、自殺ポイントにたどり着くまでのハードルと金が大変で、それをクリア出来るのであれば自殺する必要がない、というか、むしろ自殺するための努力によって立ち直れるのでは?と思う程の労力である。なので、私は未だに生きている。

実は清原和博と私には決定的な違いがある。それは、清原和博は孤独な状態だっただけで、孤立はしていなかった、という事だ。

 

孤独と孤立は違う。経済的苦境であっても、孤独とは仕事上あえて作る事があるものでもあるので、決して人間の精神にマイナスだけ、というわけではないのだ。

しかし、孤立は違う。孤独よりも深い。意思が介在せず、経済的苦境にもなれない。なぜなら、経済活動が無いから。社会に属していないから。まさに社会から抹殺されているのだ。

孤立している人は多分、底辺層という言い方も違うのかもしれない。社会のヒエラルキーから完全にはじき出されてしまっていてどこにも属していない存在。死を実行する意味も価値もない存在。それが今の私だ。

 

だから、私は死んでいない。だから生きている。ただ、孤独で死を考える人と孤立で死を考える人との間にはマリアナ海溝程の溝がある、という事を再確認した。