底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

このブログを始めたきっかけを再考してみた

人口の上位1%の入るヒエラルキー層から底辺層に落ちた時、私は「お、これは私自身の人間的成長にもつながるかも」と思ってしまったわけです。これは明らかに奢りでした。底辺層の生活とはそんな簡単なものではありませんでした。

まず、精神をやられます。鬱にならないようにするためには内に籠もる精神を開放するしかないわけです。しかし、開放する相手もいない。なので酒に頼って自分の存在を消す手段を取ります。

酒は便利です。朝から飲んで、意識をなくして寝て。起きたら飲んで。また意識を無くして。生きながら死んでいる感覚を得る事が出来ます。しかし、それが続くともちろん、アル中にもなりますし、外見がヤバイ状況になります。もう、キモいオヤジにしか見えなくなります。中年でデブ。更に心が引きこもるようになります。底辺どっぷりの発想になるわけです。そうなると、今度は自己憐憫が起きます。今まで見なかったネットのサイトを見る事によって他罰的にもなります。何でこんなアホな人達ばかりなの?といったように。しかし、誹謗中傷などをして憂さ晴らしをするような教養を持ちあわせていません。社会の様々なヒエラルキーを経験する事によって自我が肥大化し、多種多様になり過ぎていたわけです。今の底辺の立場しか知らなければ、適当にネットを荒らしても良心の呵責も感じない人間でいられたかもしれないのに。

これはとてもよくないわけです。このまま行くと、まるでよくいる老人のように「昔の俺はこうだった」と昔話しで相手を見下して、自分が人よりも上である、という事を感じる事で満足する人間になってしまうような恐怖がわきました。で、まずは愚痴と感情の吐露を吐き出せる場所を作ろうと思いました。で、始めたのがこのブログ。SNSだと「見て欲しい」という認知欲求、仲間が欲しいという親和欲求が発生してしまします。それは依存につながり、アルコールとなんら変わりがありません。なので、ブログ。アクセスも関係なく、誰に見てもらおうとも欲しない。あくまでのはけ口なので、完全クローズでは意味がありません。そこは認知欲求とは違い、大自然で立ちションベンをするような開放感みたいなものです。なので、書く時は一気に書いて、誤字脱字も文章の出来具合もチェックしない。もちろん、アクセス数なども気にしないし集客もしない。そんな感じのスタートでした。

 

で、現在。更新が滞りがちになっています。それはこのブログを始めた頃の「底辺くん」と「上からさん」が自分の中で統合されつつあるからだと思っています。私自身の立場は現在でも底辺ではありますが、私という人間が底辺なのではないわけで、もちろん、以前立場は上だったかもしれないが、その時でも私という人間が上だったわけでも無いのです。そもそも人間という存在に上も下も判断するにはあまりにも複雑な見方があり、どれも正解でどれも不正解でもあったわけです。

 

精神を中庸に保つ。その昔、仕事で陰陽五行を学んだ時に頭では理解はしていました。しかし、今ならその意味が少し理解出来ているのでは?と思っています。

ただ、難しいのはこの後です。「アナと雪の女王」じゃありませんが、今の自分のレベルでは中庸の精神とはいわば「ありのまま」の姿に近いモノ。社会ではここに鎧を付けないと生きてはいけないのです。

まだまだ中庸の精神には程遠いですし、そもそもそれが今自分が目指すモノかどうかもわかりません。ただ、以前のような「底辺くん」「上からさん」は自分の中からはほぼ居なくなり、今はただ、立場が底辺くんな存在になっています。

 

まだこれからもあるので、今の強い気持がどこまで保てるかわかりません。アル中になる時点で依存体質なわけですから、それがどこまで改善されているか、という実験も繰り返さないといけません。

意図しない社会からの孤立状態によって得られた気付き。意図する孤独とは違って孤立は精神を蝕むように言われますが、東京の中心地に住んでいる限り、孤立によってでも学べる事も多いと思います。むしろ実家等の多少田舎に引きこもった方が孤立が深まるのかもしれません。

 

さて、今後私がどう転ぶか。肥大した自我がまた分離するのか。もしくは縮小するのか。いい感じに収まるのか。等身大の自分を受け入れる事が常駐化するべく、自分に対して夢を見ず、期待せず、過信せず。あらゆる依存を断ち切るべく、孤独で孤立した状態のまま、人生という戦いは続きます。