底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

卑屈とはなんだろうか

私ぐらい守るモノが何もなく、世間体や執着するモノがほぼ無くなると結構発言も自然体になったりする。なので、自分の事も客観視に判断出来るため、世間一般の幸せとされる人生を送っている人達に比べたら、今現在かなり底辺層にいる事を認識している。先日、そんな認識を偶然社会人の知り合いに話をしたら、「そんな卑屈になるなよ」と言われてしまった。

卑屈?現実なのだが。ここでふと考えた。卑屈とはどういう事なのか。

卑屈 「必要以上に自分をいやしめて、いじけること」とある。謙虚と違う部分は、自分を卑しめ、いじける、という負の部分が強い事か。では、自分の事を卑しい身分だ、と客観的に理解している人にとっては、どう表現したらいいのだろうか。例えば、女子の会話として、

「私なんか駄目だよ、ブスだから」

と言われた場合。通常、こういった発言は卑屈な発言と言われる。ここで、卑屈とそうでない人の区別として大事なのが、「いじける」という部分ではないだろうか。

・日本のマーケット的に外見はブスの部類に入るから、モテるのは難しい

と客観的に理解しているが、だから何?私は私だし。という人と。

・今までいつも外見で差別されてきた。かわいい人は得よ。

と思い続けて、自分に価値が無い、と思ってしまっている人と。

同じ表現でもまったく意味が変わってくるのだ。もちろん、現実はこんな単純な分け方な事は無いが、卑屈な内容と思われる発言でも、発する人の人間性によって意味が全く変わってくるとのだ。

 

そうなると、卑屈な発言となってしまう事にはもう一つの要素がある。それは受け取る側のバイアスの問題だ。上の例で言えば、対象の女性を「この子、ブスでかわいそう」と心の中で無意識でも差別感を持っていると、発言する人がどんな人間性であれ、卑屈な発言、と思われてしまう。

 

また、ここで難しい問題が、卑屈ではなく、現実を肯定した上での発言であったとしても、その客観的に卑しい状態を本人が肯定してしまって、埋め合わせをするような努力や自信等が無い場合もあるのだ。その場合、卑しさに屈する状態となり、いじけていなくとも、卑屈という事になってしまうのではないだろうか。

 

そう考えた場合、私はどうなのだろうか。卑しさに屈している部分が本当にゼロだろうか。デブのアル中からの脱却の為に日々努力をしているとはいえ、無職引きこもりの孤立した中年である事には変わらない。ベイビーステップだとしても、今の期間は自分を段階的に引き上げる事に本当に繋がっているのだろうか。そして、そんな自分を信じて努力出来ているのだろうか。私は客観的に見た私に屈していないだろうか。

 

人はどんなに辛い状況であっても次第に慣れていくという。私の心の中に慣れてしまっている部分がないか。再チェックをするいい機会と考えて、卑屈の意味を今後も考えていきた。