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底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

「絶歌」元少年Aの手記について、その意義とは

単なる日記

サムの息子法とそれが生まれない日本社会の闇については前回のエントリーで述べた。今回はこの手記に意義がある、というライターで飯を食べている人達のエントリーを読んで(読む前から思っていたが)少し反論したい。

 

まず最初に、過去の記憶というのは人間にとって曖昧であり、なおかつ都合のいいように作られるという事。昔の恋人の記憶が甘酸っぱかったり、その逆に憎らしかったり。もしくは思い出す事もない程大した事がない存在だったりする経験は誰でもあるはずだ。これは今現在の状況によって、過去に大好きだったはずの人の記憶が都合よく上書きされているからだ。なので、人は自己分析をする時にはそれ相応の経験と知識が必要になる。私は未だにそれが完成できないでいる。自分の反応一つ一つとってみても、何かしらの過去の出来事の延長上だったりする。そういった事に気付いたのもここ最近。彼よりもずっと年上で多分社会を経験している私でも自己分析は完了しないのだ。多分、一生不可解な自分と付き合っていく事になるだろう、と思っている。つまり、少年A自身が考える少年の頃の自分など、32歳の今の考え方であり、33歳になったら変わってしまうような、そういう類のものなのだ。なので、もしこういった告白の手記に意味を持たせようと考えるのであれば、毎年、「今考える自分」として告白する事を贖罪としてライフワークとする以外、彼の事を知る、という意味での意義は無いのである。そう考えると、贖罪であればブログでも十分であった。

 

次に、そういった類の不確かな手記を読む事によって、「理解した気になる」危険性である。誰もが自らの過去の傷と向き合い、そこに唐辛子を練り込むような自己分析を日々行っているわけではない。つまり、人間とは?という根源の探求を常にしていない人がこういった書物を読むと先に述べたような問題点も日本社会の闇も考えずに、「少年Aの事が少しは理解出来た気がする」となってしまう。そういう発想、単純さこそが日本社会の多様性を阻むものであり、多数決が正当な行為であると疑わないような大人を生んでしまう問題である。

 

もし真に、この少年犯罪にスポットをあて、社会問題として提起をしたいのであれば、第三者のドキュメンタリー作家に客観的に書かせ、それも加害者の趣味嗜好、生活環境がもう変わらないだろう立場、年齢になり、自己分析の結果が何ら変わらなくなってから出版するべきだったろう。もちろん、遺族との事前承諾ありで。自分の事を一番わからないのは自分だったりする部分もあるので、第三者による取材はそういった部分にスポットをあてる事に役立つ。

 

私も仮に彼が死刑囚で、いつ執行されてもおかしくない状況での取材記であれば読んで見たい。しかし、上記の理由でこの手記には何も意味が無い。それは未だに自分の闇を解決出来ずに足掻いている私だからこそ言えると思っている。