底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

「闇サイト殺人事件」の主犯の神田司死刑囚に対する刑が執行されましたが

死刑廃止を訴える弁護団が抗議しています。その声明の中で気になる部分が。

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死刑の廃止は国際的な趨勢であり、世界で死刑を廃止又は停止している国は140か国に上っている。死刑を存置している国は58か国であるが、2014年に 実際に死刑を執行した国は更に少なく、日本を含め22か国であった。いわゆる先進国グループであるOECD経済協力開発機構)加盟国(34か国)の中で 死刑制度を存置している国は、日本・韓国・米国の3か国のみであるが、韓国は17年以上にわたって死刑の執行を停止、米国の19州は死刑を廃止しており、 死刑を国家として統一して執行しているのは日本のみである。こうした状況を受け、国際人権(自由権)規約委員会は、2014年、日本政府に対し、死刑の廃 止について十分に考慮すること等を勧告している。

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私は人権派でも無ければ、死刑擁護派でも無いです。ただ、今の時代の死刑の意味をそろそろ本気で考える時期なのではないか、と思います。法律に沿って死刑が円滑に執行されていない今、毎年確保されている予算があるわけで。

 

罰則としての犯罪抑止力→☓

犯罪抑止力としての意味は既に無い。死刑になりたくて犯罪を犯す人もいる

 

人権問題として考えた場合→△

代替案の終身刑だって結構な人権無視だと思う。ずっと囲っておくわけだから。

 

被害者の報復感情→◯

 

あれ?ハムラビ法典のような目には目を歯には歯を的な事しか今の死刑って意味合い無いの?

罰則の本来の目的は

・犯罪抑止力により社会秩序を保つ

事にある。そのため、基本的人権自由権を剥奪する(懲役)がある。その究極が死刑、という事になっているのだろう。

死刑が現状復讐の意味しかなく、それを国民が支持するのであれば、ハムラビ法典のように公平な等価交換に本来すべきでもある。1人殺した時点で死刑、のように。

もしくは、死刑がダメで終身刑だった良い、という人権派との中間をとって、新たな犯罪抑止力を高める、絶対に嫌な酷い非人道的な罰則を考える事も可能かもしれない。死んだ方がまし、のような。しかし、それこそ残虐な事になる。

 

人間が社会を作る以上、必ず異質な精神性の人間は生まれ続ける。なので卑劣な犯行を死刑によって防ぐ事は絶対に出来ない。なので、その時点で死刑には犯罪抑止力はなく、それ以外の意味について論じるべきなのだ。そうなると、人権と復讐の問題に今の所集約される。

今更、復讐を野蛮な行為だ、とは誰も言えないだろう。アメリカは国をあげて復讐戦争をしているのだから。であれば、死刑はアメリカのように、被害者遺族の前で行う方式を日本も取り入れ、もっと死刑を加速させよう、という議論もあってもいい。

人権派はすべての人間に等しく人権が・・・、という理想論で語るのをまず止めないとならない。人は生まれ(親)によってほぼ人生が決まっている事はデータで証明されている。つまり、人は生まれながら差がある。その差を埋めるべく、チャンスぐらいは平等に、という社会システムの擁立こそが本当の人権擁護であると思うのだが、そういう運動無しに、死刑囚にだけ急に人権、というのは取って付けたような感がある。

 

今の所、死刑判決がくだされる度、死刑が行われる度、貼り付けになった死刑囚に石を投げるがごとく、ネット住民は暴言を浴びせる。そして高い死刑支持世論を考えると、社会全体が抱える報復感情の鬱憤晴らしに死刑は一役かっている感はある。これもある意味、社会秩序維持機能であろう。

 

では、そういった国民社会とはどうなのだろう、という話にも飛び火する。信念として犯罪を憎むような人達は少ないからだ。わかりやすい複数人殺害、という直接的な被害には反応するが、間接的犯罪には無頓着な事が多いからだ。むしろ直接被害以外はやりたい放題と勘違いしている人もいるのでは?と思うほど。そういう情報リテラシーの低さから来る民族性の鬱憤が死刑執行によって晴らされてはいないだろうか。

 

やばい、答えが出ない程難しい問題だった。