底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

自己憐憫の怖さ。

自己憐憫。

自らが世界で一番可哀想、と思い込む事。どうせ私なんて、となるから何事も前向きに成る事が出来ない。昔で言う被害妄想と何が違うか、というと、自己憐憫に陥る人はそのきっかけとなる出来事があり、心に傷を負ってしまっているという事。これは妄想ではなく、いわゆるPTSDのように心にのしかかる。

先日、江原啓之が刑務所帰りで妻子ある男性が物事が上手く行かなくて行き詰まっている、という悩みに対して

「甘えるな、自己憐憫はマイナスでしかない。」

という趣旨の事を言っていたが、妻子がある人は確かにそうかもしれない。では、孤立している人はどうなのだろう。甘える相手がいない。

では、私の場合。まさに自己憐憫に陥っていた。しかし甘える相手はいない。なので酒に溺れた。アル中の1年間はほとんど何をして生きていたか記憶が無い。

 

で、ぶくぶく太り、いよいよ見かけ共々不審者になってしまうので、アルコールに対する依存状態を分析して調べてみた。そうしたら自己憐憫という言葉を知ることとなる。

しかし、自己憐憫をどうしたら脱する事できるのか。しっかりした方法論は見つける事が出来なかった。

であれば、自分で考えるしかない。まずは依存状態を知る。それはアルコールであったり、ネットであったり。そういった事を一切断つ。まずはそこから。そしてダイエットも始め、肉体改造をする。イメージ的には社会の底辺である自分が少し上に向かう為の準備、という感じか。「タクシードライバー」というロバート・デ・ニーロの映画で、主人公が何か大きな事をして社会を変えよう、と思った時、まさに断酒&肉体改造を始めていた。映画の結果は悲劇でしかなかったが、それでも新たな一歩、という意味の方法論では正しいのではないか、と思った。

で、今。世の中で一番底辺にいる、と思っていた私は自らの努力の部分は認めて上げれるぐらいにはなった。ふむ、他人を見下す癖がついたのは問題ではあるが、それは過程の問題であって、今後解決していこうと思う。

 

できることから一歩ずつ、ではすぐバックステップで元よりも下がってしまう可能性もある。一歩ではなく、最大のジャンプでストイックに自らを追い込むとなかなか後戻りが出来ない。

さて、社会復帰へのスタートは切れたような気がする。さて、次はどうするかな。