底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

「あの花」というアニメを遅ればせながら見ました(修正加筆)

あの花の名前を僕たちはまだ知らない」

大衆の流行りを体感する事はB to Cビジネスを考える上で大変重要であり、そういう意味では大学時代から常に広く浅く様々な事をチェックしてきた。もちろん、アニメも流行りのモノは大体チェックしており、最近はタイトルやOP映像でほぼ見るべきかどうか理解でき、それでもダメなら第一話で見続けるべきか、をわかるようになっている。所謂側を変えただけの萌えアニメは見ないし見る必要は無く、新しい価値を提供したり、話題になるだろう、もしくはビッグバジェットビジネスになるだろうモノを見るようにしている。

そんな中、「あの花」ももちろんチェックしていたはずで、見続けていなかった、という事はそれなり理由があったのだろうが覚えていない。ただ、「感動した」という話はネットでちらほら目にしており、私が見逃すとは、と不思議に思っていた。実写ドラマがCXでやる、という事でアニメ総集編が放送される事になり、それを見てみた。そして、なぜ私が見逃したのか、が理解出来た。

作品に感動するにはそれなりに共感性が必要だ。共感出来なくても、理解出来る見識も必要になる。そういう意味では、感動というのは結構個別のものであり、脚本、構図、設定など、どう見てもクソ(失礼)萌えアニメなのに、感動して号泣した、という中年がいても何ら不思議ではなく、それは非難されるべき事ではない。

ただ、ここで問題なのが、「あの花」が深夜アニメファンだけでなく、一般人にも受け入れられる普遍性をもった感動アニメ、という言われ方が多い事だ。という事は、それなりに一般的な共感、もしくは見識にひっかかる、つまりそれなりのマーケティングに沿った内容であるはずだ。

設定は小学生の仲良しグループの中の1人が亡くなっており、その子が幽霊(?)という形で高校生になったが引きこもりの主人公の元に現れ、疎遠だった小学生のグループ仲間が集まり、色々なストーリーが展開する、という感じ。

まず、この設定がどうしても受け入れられないのだ。幽霊の部分ではない。それは創作なので何でもありだ。高校生がいくら好きだったとはいえ、幼女にドキドキしたり恥ずかしく思ったり。亡くなっているとはいえ、小学生の頃の事(それも他人の事)を引っ張り続けるという事だ。小学生、中学生、高校生。思春期とはよくいったモノで、この段階は世界がぐんと広がり、考え方や見える景色が物凄く変る。高校生の男子など好きな事以外にはSEXにしか興味が無い、という事もあるぐらいだ。彼らが中1であったのならまだわかる。変わる環境と変われない自分とのギャップに苦しむ。中二病という言葉があるように、まさに苦しい時だ。しかし主人公達は高校生。激動の中学3年間を過ごしているのだ。その事を通り越して小学生の話。もちろん、PTSDというのもあって、自らが傷を受けた事は覚えていて、大人になっても引きずる事がある。主人公達が全員PTSD状態であった、という事は十分理解できる。で、その為に小学生の時に好きだった子になり変わって女装するような精神になってもなんらその痛みは不思議ではない。

問題は主人公の幼女に対する態度のキモさだ。それはPTSDを癒やすモノでもノスタルジーでもなく、何度か当時好きだった1人の女性として捉えている部分が見受けられるのだ。小学生同士であればありえるハニカミ。そういった態度を主人公の男子がする度に、気持ち悪すぎて見ているのが辛かった。実際に高校1年の自分が小学生の時に好きだった子そのままの外見を目の前にしたら。単なるガキとしか見えない。むしろ、好きだったあの子の成長した姿を偶然見かけて成長した姿にときめいたものだ。

 

幽霊の幼女は主人公の男子以外見えないので、その他のPTSDを抱えたメンバーが色々精神的に辛いのはまだ理解出来る。見えている主人公は何なのだ。

このキモい設定をそもそも受け入れて感動する、という事であればこのアニメを見ている人は高校生の自分として共感はしていないと思われる。そうなると、大人の自分目線で考える共感や見識による感動という事になる。そう考えるとまだ合点がいくし、理解は出来る。萌アニメは必ずどのクールにも存在するし、それなりに声優も人気が出たりするし。それ止まりであれば普通のアニメだ。ただ、CXで実写ドラマをゴールデンタイムで流す、となると事情が変わってくる。多分、アニメのキモさを払拭するような、ノスタルジー色に変えてくるとは思うが、それでも今を生きるのに必至なはずの高校生が過去に囚われる、という物語を感動作とするのはどうもいただけない。それは悲劇であり、PTSDとして真剣にケアしないとならない問題だからだ。

本来、今を生きていれば過去など振り返る事は無い。しかし、現実を生きるのが難しい場合、どうしても過去の幸せにすがる事がある。逆もしかり、過去の辛さを一生引きずる人もいる。前者はそれで前向きになるのであれば一時的には推奨される行為ではあるが、後者は悲劇でしかない。過去の悲劇を長く引きずって現実に影響を及ぼしており、幽霊が出現する事で癒やし的に解決になる、という作品は映画でも小説でもそんなに珍しい話ではない。ただ、どの作品にもこのアニメような、ロリコン臭がする事はない。贖罪とは過去に向き合う事であり、もちろん、この作品もしっかり過去に向き合っているのだが、ロリコン臭シーンが何度もある為に、拒否反応が半端ないのだ。幼女に高校生がドキ!っとするシーンなど現実的にあったとしたら、その男子は間違いなくロリコンでしかあり得ない。

 

そんなわけで、ロリコン臭がする=萌えアニメ=見ない。という判断を当時したのだな、理解出来た。ロリコン臭を一切無くし、主人公達が社会人という設定で、ストーリーやセリフ等の機微はそのままであったらかなりの良作だった気がする。

 

コメントでご指摘を受け、ここから修正加筆。

登場する幽霊めんまは体は成長した姿、しかし中身は死んだ時状態、つまり幼女めんまである、というのが設定だということ。私は見ていたのにそれに気が付かなかった。なぜなら、何度も回想シーンが入るのだが、他のメンバーは外見が成長していて大人と子供、という関係なのだが、めんまは幼女の姿とそんなに変化が無いからだ。身長が少し高くなったぐらいだろうか。もちろん、中身は幼女のままで口調が同じだから、回想シーンの幼女めんまと幽霊めんまの区別が私にはわからなかった。

この設定は更にこの作品の問題を際立たせる。なぜ外見だけが成長している必要があったのか。それも幼女状態からほぼ変化の無い状態で。

人間の外見の変化というのは加齢もあるが、環境の変化もある。メガネの人がコンタクトになったり、その逆も。髪を染めたり、伸ばしたり。つまり、外見の変化とはその人が生きている証でもあり、環境の反映でもある。めんまは死んでいるのでそれが無いのは理解出来る。だから幼女状態からなんの変化も受けなくそのまま体だけ高校生の状態になっている、と言われてもなんとか理論的に許容範囲だ。そして同じく亡くなっているから記憶と精神も幼女のまま。それも理解出来る。問題はこのちぐはくな設定だ。体も幼女のままで何も問題ないはずなのだ。体だけ、過程を経て成長している、しかし心は幼女のまま。これはまさに一部の男性が考える、少女の処女性、神秘性の永遠化の象徴ではないだろうか。普通の男性であれば、この設定は気持ち悪さしか感じないと思う。

 

私が子供の頃、宮沢りえがデビューした。まさに美少女だった。当時美少女を書かせたら右に出るものがいない、と言われたイラストレーターが宮沢りえを見て、こんな名言を残した。

「美少女は死なず。ただ消え去るのみ。」

子供の時は理解出来なかったが、大人になってわかった。美少女は成長したら美女になり、少女が消える。美少女に永遠は無い。まさに美少女をイラストで永遠のモノにする作家ならではの表現だと思う。私はこれをロリコンの一部だと思っている。

このめんまという少女の作りこみは美少女に清廉さを求める男性の象徴のような感じがする。近年の兄を慕うかわいい妹設定みたいなアニメに近い存在というか。兄妹の関係など、通常の人であれば、中学高校の時点で妹がいる人に話を聞いたり、家にいったりして幻想などとっくに無くなっているいるものだ。すべて一部の男の願望。それも少なくとも大学生以上、もしくは中年である事も考えられる。この設定がある時点で、やはりこのアニメは一般人にとって見るべきアニメでも、感動するアニメでも無いのではないだろうか。

先にも述べているが、もちろん、人の感動も嗜好も様々なので、この作品を好きで感動する人を非難するものではない。ただ、普通の(何をもって普通をするか、という議論はあるが)大人でも感動する作品、という売れ込みにするほど健全な作品ではない、むしろ危ない作品でもある、と言いたいだけである。