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底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

今更の西加奈子作品

単なる日記

何でもチェックする癖に、小説だけは話題で人気の作家の作品はなかなか見ようとしない天邪鬼な部分がある。逆に、◯◯賞受賞と話題になっているが、多分それはビジネス的側面が大きいのでは、と思われる作品はすぐにチェックして、「ああ、やっぱりこの程度で受賞なんてありえない。自分の直感は正しかったし、日本の活字文化を衰退はこういった金の亡者の先人達が文学界よりも自らの保身の方を取る人達だから当たり前だなぁ」とほくそ笑む、性格の悪さを持っている。

ここしばらく金は生活費中心で、精神的にも生きる事に精一杯であり、なかなか小説という教養にまで時間と金を割く気分に成れなかったのだが、最近また読み始める事が出来るような心の余裕が出てきた。そうなると、近年、話題の作家、誰もがいい!と絶賛する西加奈子氏の作品を読みたくなった。

書店で何を選べばいいかわからなかったので、とりあえず、アメトーークの読書芸人の回で光浦靖子さんオススメの「ふくわらい」を購入。

 

もう、何というか。残り数十ページになった時、本を読みたく無くなったのだ。読み終わりたく無いのだ。ずっと読んでいたい。そう思わせる力があり、その力はラストに近づくにつれ、ぐっと込められ、何故か涙が止まらなくなったのだ。何故泣いているのか、自分でもわからない。ただ、涙が流れる。

ほぼ登場人物は奇妙な人だらけだ。本来、共感も理解も出来ないはず。なのに、全てがとけ合い、融合する感覚。登場人物という概念さえも無くなるような、自分が本の中に融け合うような感覚。浮遊感というか。物語を読んでいる、という客観性が失われる。

 

社会に見えない壁があるとしたら、それは固いのか柔らかいのか。敷布団のように、自分が寝ると微かに沈み込む存在なのか。しかし、それはそれ以上反発する事もあれば、まったく沈み込まない事もあるかもしれない。その時、自分という存在はどうあるのだろうか。個の壁とはどういうものなのだろうか。人は他に依存しないと生きていけないというが、田舎に引きこもって独立しているように見える人でも、結局自分の世界、という壁を作っているのではないだろうか。では、私という個はどのような柔軟性がある存在なのだろうか。自分の都合で勝手にプライベートゾーンを広げたり縮めたりして世界を作ってしまっているのではないだろうか。私という在り方は、結局そうして社会との相対的な価値観だったり、自分勝手な都合だったりで構築されてしまっているのではないだろうか。

この本を見終わった(敢えて読み終わり、とは言いたくない)後、そんな事を常に考えている自分の心がほんの少し、再構築された気がする。新たな気持ちで生きていく。そんな感覚を与えてくれる作品だった。