3歳時の暴行事件での世間の反応で思う事
哲学的な観点なんだけどね。私からすれば問題は無力もしくは抵抗されても問題ないと思われる他人に対する悪意の表現方法の問題でしかないのよ。つまり、他人に対する悪意そのものが問題であって、死はその結果でしかない。なのに、世間の反応はこの「死」を引き起こした行為のみが問題となって非難の嵐となっている。違和感を感じざる負えないし、だからこういった事件が減らないのだ、という世間に対する私の認識の正しさの証明として納得の部分もある。
だからイジメもパワハラもブラック企業も無くならないのだ。公人に匿名で誹謗中傷という平気で向けられる。ジャーナリストを気取っている人達はそうした情弱者を平気で騙して商売する。知識がある者が無い者を騙し操る悪意。もっと大きくなってしまうと経済の話になってしまうが、とりあえず身近な具体例ではまだまだある。相手が死ななければ他人に悪意を向けても問題ないと思っている人の多さ。無責任さ。知ってから知らずか、心の中で「人間とはそういうもの」という免罪符があり、法律よりも究極「死」のみを問題視する姿勢。しかしそれも、責任の所在がはっきりしているからであり、多人数での攻撃等はなんとも思わない精神性。
一方、そうした悪意に満ちた世の中に気付く人達もいる。しかしそうした人達は人間とはそういうもの、と悟り、人間以外の世界、いわゆる神の世界に救いを求めてしまう事も多い。
もうこうした事件がある度に、「子供を救え」とかいう運動などもうんざりだ。そろそろ悪意そのものに目を向けて考えなければならない時代なのではないだろうか。例えば、ヤンキーや元暴走族の人が芸能界で武勇伝を語り、今は立派にやっている、的な話をもてはやすのはいいが、人が死ななかった、という基準だけでヤンキー、元暴走族を許すのではなく、他人への悪意によってどれだけの人達が苦しんだか、に目を向けるべきなのだ。なので、こうした事件があった時はなぜ弱い者に対して平気で悪意を向けられる人間が育つ環境が出来てしまったのか、に焦点をあてるべきであり、社会を形成する人達全員がその責任を感じて自らを反省し、何が出来るのか、と考えるべきなのだ。
それでも絶対に悪意はなくならないし、一定数はそれをばらまく人達は減らない。それでも、それを社会全体が感じてコントロールするぐらい、他人への悪意をしっかり感じて行動する事こそ、こういった事件を無くす事につながると思う。
他人への悪意は
「死ななければいい」
「法律の範囲内であればいい」
「法律違反でも見つからなければいい」
というのが多くの人の基準ではないだろうか。そしてその免罪符は先に述べたように
「人間はそういうもの」
という事。いわゆる、皆そうだから自分も、という発想。それでは子供の虐待死は止まらない。なぜなら、死なないまでも精神的、肉体的に虐待を受けている子供が多くいるからだ。悪意の表現方法で結果亡くなった事が事件となっているだけだからだ。
もしかして私のように常に人間の悪意について考えている人間の方が特殊なのかな?