底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

指原莉乃の「お客さんのやさしさに涙が出た」、というお話

先日、トーク番組で指原莉乃がブスかどうか、という議論をするコーナーで、指原莉乃がいつものようにブスいじりをされている最中に突然泣き出してしまった。今まで散々ブスいじりをされてきた彼女がなぜこのタイミングで?と思ったが、その後の説明で納得した。それはホリケンにブス呼ばわりを何度もされている中、観覧客の女性たちが「ええ~!」とホリケンを批判する(指原莉乃を擁護する)声を何度も上げた事によるやさしさに涙が出た、というのだ。

 

彼女の真意はわからないが、私的には単純に深いコンプレックスを抱えている人がそれを押し殺して頑張っていて、それを擁護された事によって今まで我慢してきたモノが噴出してしまった、という見方以外の話をしたい。多分、ここまでは彼女がツイッターで言っている「女的な部分」と一般的な見方かと思う。ただ、そんな一つだけの思いで人間の精神は構成されているわけではなく、複雑な思想、経験等の集大成が人の行動には現れるからだ。

 

メディアタレントは自分自身を商品としている。プライベートも切り売りする必要がある人もいる。そういった人達は自分も他人も人間としてだけでなく、商品として客観的に見る力がそれなりに必要になり、それは人間を器としていの「モノ」と考える事が出来る能力でもある。もちろん、人間には制御しきれない感情という厄介なモノや、今まで生きてきた価値観がバイアスとして精神を支配している。なかなかすべてを客観視出来るものではない。しかし、努力や経験を重ねる事でその境地に近づく事は出来るようになる。

 

例えば、人間をデッサン人形のような基礎のような存在として平坦に見る。そうすると、その誰でも変わらない基礎土台に肉付きとして様々なモノが付いて行く。Aさんという人形はネットで匿名で誹謗中傷をしている事を知ったとする。それはAさん人形が右手に包丁を持っているだけであり、人形としての土台はBさんと大して変わらない。すべては要素であり、人間性などは対して差が無いように見えてくる。

 

もちろん、実際はそこまで単純なものではない。ただ、こうした見方で人間を捉えるようになると、その人の言動等は結果論で見るようになってくる。なぜなら、言うだけなら誰でも出来る、つまりすべて同じ人形土台レベルだから。その人の瑣末な情報に惑わされる事が無くなっていく。極端に例えればトランプ氏のような発言をするCさん、Dさんに会ったとして、同じ発言内容でもくっきりと違いを見極めるような人間の見方になってくる。それも結局、人間という存在の根底の基礎はくだらないほぼ同じような、ずるく弱い存在である、というのがあるからだ。

 

そういう見方が出来るようになると人の悪意に敏感になる一方、その悪意への耐性が出来るようになる。なぜなら自分と相手は同じ人間であり、悪意というのはどの人間でも持っている構成要素の一部であるからだ。それが自分に向かって害になった時に、感情として「ムカつく」「許せない」というのはどうしても消しきれないだろうが、それも人間として当然の事。そして当然、善意にも敏感になる。

 

聖人君子など存在せず、悪意の無い人など存在しない事がわかった以上、人はどこかで誰かを意図的に、無意識に傷つけている。そんな存在の人間から、意図せず流れだす善意。それを感じた時に感動が出来るようになる。これを感じるように成ることは自分が経験した事、感じた事の隣接体験以外の事でも泣けたり、怒ったり出来るようになる。「歳をとったからか、わけもなく泣けるようになった」には漠然とした残りの人生への恐怖等のバイアスによるものもあるが、実は人間への見方が変わった事による感性の変化による事もあるのだ。

 

指原莉乃をブスいじりをする。スタジオスタッフ、観覧客共々笑う。それはバラエティーとして正しい。それが社会的に是か非か、と問われれば非であるべきではあるが今の日本社会は一般人でも外見で人を差別する社会だ。それを特別視する職業がタレントである以上、現状仕方がない部分でもある。そんな正論はわかっている中、特に他人の外見に厳しい(自分の事は置いておいて)、若い女性だけで構成された観客がブスいじりに対して「非」の態度を表した。もちろん、彼女達のほとんどが普段他人の外見をバカにして、時にはネットで悪口を書いているかもしれない。そんな事はどうでもよくて、あの場の雰囲気では集団同調で指原莉乃の外見いじりに対して非難を意思を出した。その時点で外見いじりは単純な悪口なってしまい、バラエティーとしては成立しない。誰発生なのかわからない。同調性があるから。その信念の無い単純な善意(善意かどうかもわからない)に敏感に感じて涙が出る、という事は人を同列として見ていれば多分にある事なのだ。ふっと街で見かけた子供がお母さんを気遣ったシーンで涙が出るのと同じ。事実関係も実は家庭内ではDVがあるかもしれない。そんな事ではなく、ほんの少し溢れた善意。そこに感動をしてしまうのだ。

 

もちろん、テレビというのはエンターテイメントショウ。すべてが台本通り、という事もありえる。しかしそれであったとしても人の善意の噴出部分のみを指し値なく感じて感動する、という事は素直に重要な事でもあると思う。

 

人間の悪意、善意。ふっと出るやさしさと同様に意識しない悪意によって他人も傷つける。なるべくやさしさの方が出る事ができよう、自分の人間性も客観視していきたいものだ。