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底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

若者、学生の自殺についてのマスメディアやネット民達の無責任な風潮について

この頃東京では電車の人身事故遅延がやたらと多い。SNSのお陰で今まで以上に情報が入ってくるだけで実は特に自殺者が増大したわけでもなく、昔から常に自殺者は多かったのかしれない。

私はテレビのコメンテーター制度には反対派であって、公共の電波でただの個人が見解を流して思想も信念もない人間を誘導するのは罪にも匹敵する、と思っているだが、そんな中、最近気になるのがいじめ等で自殺した子供に対して、「逃げる勇気」「学校に行かない選択肢」等を発言するテレビの人達とそれに応じて、学校に行くが当然の中で、それを破る事を主張する事で自分は社会の理解者だ、と主張したい(している)ネット民達。あまりにも無責任かつ自分勝手な意見であり、なぜそういった自分たちこそが自殺をする人達が住みにくい社会を作っている張本人である事に気がつかないのか、理解に苦しむ。

学生の自殺はうつ病等で感情が抑制され、思考の回路が即消滅、という風に直結するわけではない。死しか選ぶ事が出来なくなるから自殺するのだ。この事を簡単に表すと「絶望」だ。文字通り、望みが絶たれた状態だ、と自ら判断をして死を選んでしまっているのだ。つまり、学校に行かない、休む、親に相談する、信用出来る人に相談する等の「望み」ある事はすべて本人なり考慮済みなのだ。特に学校に行かない、という単純な「望み」などはとっくに考えている。それを選ぶ事が出来ない、「望み」がないから絶望なのだ。いやいや、そんな事はない。行かなければいいのだ、という主張は確かにわかる。実際に日本では多くの引きこもりのニートが存在するわけだから、行かないという選択肢を選んで自殺をしていない人達も大勢いる。しかし、今そういった人達の例を出して自殺者の同じような行動を、というのは論理的に無茶すぎる。それが論理が通じるという事は誰もが何かあったら実家に引きこもれる環境がある、という事が真である必要がある。そんな事はありえないわけで、だからこそ、自殺者は逃げる事が出来ない環境であって、その事も含め「絶望」なのだ。

そして感受性の強い当事者は学生であってもわかっている。何も現場の事をわかっていない大人達が「逃げてもいい」「勇気を持って」などと言いながら、挫折した人間を救うような社会システムに尽力する気もない事を。自らの勝手な善悪基準だけで他人をメッチャクチャに叩く事を。世間とは信念も思想もなくマスメディアに流される人達の集合体である事を。もちろん、それは正解でもあるが不正解でもある。社会という現実はもっと奥深く、人間は更に罪深いモノなのだが、そうはいっても自殺者からすればそんな世間=社会は即ハシゴを外し、手の平を返す、矛盾の象徴でもある。杉並区が待機児童が多くてつき最近区役所前で「保育園落ちたの私だ」的なデモがあって、マスメディアやネット民達もその内容の是非は置いておいて、為政者を叩いておいて、いざ杉並区がスピード重視で一部公園を潰して保育園にしようとしたら今度は反対運動。こういった日本社会を冷静に子供達は見ている。そんな中、一度挫折をしてしまったらまともな生き方は出来ない、させてもらえない、と思ってしまうのも無理も無い。

もちろん、そんな事もないし、何がまともか、という話もある。現に、普通のサラリーマンでも議論も出来ない、信条もない大人などゴマンといる。しかしそれらは子供にはさすがに難しいし、教える大人がそういった(自分を含め)大人達の存在を教える事もしない。教える大人とは成功した人達、目指す大人だけだ。

そういった社会が小さな望みさえも絶ち、自殺を考えている人達に絶望状態に陥れる。例えば現実の状況を考えない地位も名誉も金もある理解ある人間風のコメンテーターの一方的、直線的な「逃げる勇気」という言葉によって、様々な思考上、環境上そういった選択が出来ない学生は「自分は逃げる事が出来ない存在=生きる希望が絶たれた存在」という事になってしまう。自殺は例えばいじめられたから死を選ぶ、という単純な事ではないのだ。ありとあらゆる考え、逃げ道、選択肢。自分の頭の中でぐるぐる多くの事を考えた上での絶望が多いのだ。

 

無責任な発言をするテレビやネット民達は自殺を本気で考えた事がない恵まれた人達なのかもしれない。ただ、だからといって自殺者の気持ちを考える事が出来ないという理由にはならない。なぜなら人間には共感という力があり、その為には教養を積んでいくからだ。相手の立場、境遇、思想を完全ではなくても思い巡らす。時には議論をして自らの思想をブラッシュアップする。これからの国際社会ではよりそういった力が必要になる。

 

確かに今は都内で曲がる時に同時にウィンカーを出す車はある意味普通になった感がある。バイクや自転車、その他の車両のスムーズな進行の為に出す必要のあるウィンカー。その意義は自らが捕まらない(法律的にはダメなのだが)為に出すモノになってしまった。歩きタバコ、公園タバコも同じ。目の前の他人に気を使う事が出来ない社会が当たり前になりつつある中、自殺という手段を選んだ絶望者の事など考えられるわけがない。そういった社会の構成員達から発言されるのが「逃げる勇気」という無責任な発言なんだ。逃げてどうするのか?その後どうするのか?東大生というだけで手放しで「すごい」という社会だ。40代で無職だと「クズ」と言われる社会だ。ほんの一部の成功者の例をとって学校など行かないでも成功できる人は・・・、というは更に無責任だ。「逃げる勇気」というのであれば、義務教育を家でも取得できるようなフリースクールを法律的に実現する社会作りをする等、しっかい社会保障基盤を作ってから言う言葉だ。それが構成員として義務でもある。もちろん、日本社会はそんな義務を果たす人達はほぼいない。それが保育園の例。

 

この文章が自殺を考えている学生が見る可能性はゼロだと思うが、そんな無責任な人達=社会でもあるが、それだけではない、という事はやはり言っておきたい。テレビは戦中も戦後、今現在も民衆に対して強大な力を有していて、それに左右されるのが民衆=社会でもあるが、それだけではない。この清濁の融合が社会である事は感じるのはやはり経験が必要でそれは年齢に関係無い。人柄、人物の良さ等が年齢に比例しない事はもはや周知の事実だ。そういった社会を見てから判断しても悪くないかもしれない。