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底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

レオナール・フジタと日本のアイドルの恋愛禁止の共通点

単なる日記

私は現在人生やり直し中で社会の最底辺層にいるのだが、すでに上層の世界を知ってしまっているので、ある程度社会を見えてしまっている。社会が見える、というのはそれを構成する人間という存在を知る事でもある。私は孤独な身なので、自分と対社会しか存在しないので、すべての人間(自分も含めて)の醜さを享受せざる負えない。しかし、クリスマスシーズンに1人でトボトボ歩いていた時に等身大くらいのキリスト像横浜赤レンガ倉庫で見た時、ふっとそこに惹かれる心があった。

ん?この気持ちは何だ?

それは、人間作った絶対的なフィクションの存在、神という存在に惹かれる自分の心の弱さ(?)だ。あまりにも人間に絶望し、自分の価値が見いだせない中、生きていないので裏表も汚い部分も詳らかになっている、キリストそのものに、ふっと惹かれてしまったのだ。自分の心が壊れるのであれば、絶対に裏切らない存在、神という偶像にすがって安心感を得たい気持ちはこの時初めてわかった。そして同時にふっと思った。偶像=アイドル。若年層アイドルや幼女や中高生が活躍するアニメにハマる中年にも共通する概念なのではないか、と。つまり、自分の理想、本来で言えば神としての絶対的な存在が現代ではアイドルなのではないか、と。なのでマリアのように純潔で汚れの無い存在である必要性があるのではないか、と。その象徴が恋愛禁止なのではないか、と。

 

そこで思い出したのが日本に絶望した藤田嗣治。彼は日本を捨てレオナール・フジタとしてフランスで亡くなった。その晩年の作品の題材にはキリスト教と子供だらけになる。日本の為に働いたのにその日本に裏切られ。信用して人にも騙されて。私と違うのは彼には彼を理解して最後まで寄り添った立派な妻がいた事だ。だからそんな社会を受け入れる必要はなく、彼女と2人で静かな生活をおくる、という選択肢を選べた。そうなると、絶対的に裏切らない存在、キリストの熱心な信者となる。そして彼の絵の題材には子供が描かれる事になる。

子供。まだ純粋で純潔。生として溢れる生命力の存在でもあり、残酷な面もあるが、それは人間を騙すような狡猾さと違い、人間として純粋なだけ。彼の絵には神と子供、そして邪悪な存在としての空想のバケモノ(多分、人間そのもの)が共存する画もある。

 

つまり、レオナール・フジタにとっての「子供」という存在=日本の多くのヲタにとっての「アイドル」なのではないだろうか。そして、恋愛禁止というのは恋愛には性行為が付き物であり、性行為をする=大人、つまり自分達と同じ不純で汚れた存在になってしまう、という事になってしまうのではないだろうか。だから処女厨というのがどうしても存在してしまう。一度性行為をしてしまったら、現在彼氏がいなくてもその子は大人であり、自分が知っている社会の一部。レオナール・フジタが書くような存在でも無くなってしまっている。なるほど、現代のアイドルというのはそれだけの重責を背負っているかもしれない。そしてアイドルが人間であり、その裏切り(偶像から人間への変遷)に耐えられない人達はアニメという、神と同じように裏表の無い本当の偶像へと自らの心の拠り所を移す。

 

ただ無理があるのが、キリストのように完全書面のような存在であるアニメと違って、アイドルも同じ人間である、という事。ただでさえ外見が一般人よりも優れており、同じく、外見が優れた男性達も多い。金と権力を持ったおっさんも当たり前にいる。一般社会、例えば高校、大学で外見物凄く良くて本人も自信満々な男性が女性に一切手を出さないという事例があるだろうか。日本で数台しかない外車を乗り回すおっさんのツーシーターの助手席に若いモデルのような女性が座っているシーンは東京の深夜のとある場所では頻繁に見かける。つまり、アイドルはむしろ一般人よりもガンガン性行為をしている、と考える方が普通であり、恋愛禁止という考え方はかなり無理な事なのだ。そして、ヲタ達もその当たり前の事実に気づき初め、アニメへ流れたり、ヲタ卒をしたりしてしまったり。業界的にはレオナール・フジタが画の題材を子供にしたように、アイドルを若年化して小学生、中学生にして、「さすがにこれなら例え恋愛をしようが、性行為までは至っていないだろう」というイメージにしつつある。アイドル達もそれに応えるように、成長期なのにガリガリに痩せて性のイメージを消している。

どう考えても異常だ。人間として当たり前の行為、性行為の否定=精神も肉体も純潔な偶像、というのは聖母マリアだから成り立つ話であり、それを実際に人間に当てはめる事は無理だ。そしてこの考え方は実はアイドル以外にも当てはまり、自身の生活に関係する法律の問題、国際情勢よりも日本の人々の感心事は不倫問題だったりする。これは歴史的に見ても夫婦間よりもその他大勢との性行為が男女とも承認されていた日本人が現代の一夫一婦制になった所で、まだ歴史は浅く、だから諸外国のように愛し合う行為のとしての性行為よりも、快楽としての行為としての認識が根強い事から起きている固定概念、一種のパラダイムなのかもしれない。

 

面白いのがそこに一石を投じるのが、指原莉乃という存在かもしれない。男性とのスキャンダル、しかも相手はファンの男性というおまけ付き。そんな彼女が400名以上いるAKBGの中で3回も総選挙で1位になり、現在もテレビ出演数は上位に入る。組織票があろうがなかろうが、取り敢えず人気があることは間違いない。純粋なアイドル像から進化した存在。ただ、彼女の後が続かない。グラビアアイドルという肉感がある職業なのに、彼氏の話を平気でするおのののか等もファンにがっつりハマった感ではないと思う。

 

結局、日本人の庶民の心が豊かにならない限りこの状況、恋愛禁止は続いてしまう、という事になる。キリスト教が世界普及活動をする際に、虐げられている層や、金はあるが人間関係で孤独で疑心暗鬼な権力層を掴む事から始めたのと同じだ。何かにすがりたい。自分を裏切らない何か、に。極論言えば対象は何でもいい。

 

日本が生んだアイドル文化。それはレオナール・フジタが愛した子供達のように純潔な存在として現代で心が疲れた人達をひきつけ、それは海外にも波及している。

 

そんな事を府中美術館でのレオナール・フジタ展を見ていて思ったのでした。