読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

今村復興大臣が激昂した会見について、日本のヤバさ

単なる日記

大臣クラスの政治家にジャーナリストがわざと感情を刺激するような言い方をして相手を怒らせて本音を聞き出す、というやり方は欧米では当たり前の手法だ。今回は今村復興大臣が発言の撤回をした、つまり挑発にまんまと引っかかってしまったわけだ。

欧米では当たり前の手法がなぜ日本では普通ではないのか。それは日本でジャーナリズムが生まれない原因、記者クラブ制度だ。政治家が決められた原稿を発表する事をまとめるだけの記事。どの新聞も同じ内容。個性、違いは個人の私見レベル(ITで言えばブログレベル)の社説という事になる。これには何のエビデンスも無い。この方式は日本のマスメディアにも導入されている。コメンテーター方式だ。社説を書く人=コメンテーターと同じような感じ。彼らの意見など本来どうでもいい。大事なのは事実だ。

しかし、日本ではそれを聞きだす事は出来ない。記者クラブには忖度が存在するからだ。忖度があるからこその記者クラブ。戦時中と同じだ。だからこそ、今村復興大臣の決められた原稿の発表終了後に記者は質問をしたのだ。

 

聞き出した本音を要約すれば

自主避難者については今後は地方(福島)に対応は任せる。国はサポートはするけど手を引くよ」

という事。この「手を引く」という事の基準が曖昧であり、自主避難者が国に対する不信を払拭するに至っていない部分であり、その説明無しに

「自己責任」

という記者の揚げ足取りに乗っかってしまった、つまり大臣の本音が今回出てしまったのだ。

こんな事は日本社会では当たり前の事だ。社会の裏でもなんでも無く、それなりに社会の仕組みを勉強というか、様々なビジネスシーンに触れたりして経験をしていれば日本社会のシステムとして理解出来るはず。つまり、政治家、税金、利権獲得者、支援者等々の仕組みの事だ。しかし、仕組みを知らない人に私が言った所で誰が信じるだろうか。逆に有名じゃないフリーのジャーナリストが暴いた所で誰が信じるだろうか。それよりもテレビに出ている医者、元新聞記者等のコメンテーターの話しを信じる人の方が多いぐらいだ。だからこそ、エビデンスが必要であり、今回は大臣が発言撤回をした以上、大臣に本音を言わせたジャーナリストの勝利なのであり、その本音の部分を検証し、考え、監視するのが選挙権のある庶民の務めなのだ。その材料をジャーナリストは与えているだけ。

 

と、欧米では当たり前のこのプロセス、日本ではどうなったか、というと・・・。

なんと、この報道をするマスメディアを偏向報道と非難したり、このジャーナリスト、西中誠一郎氏を活動家として非難したり、煽り質問を非難するブログ等が続々と立ち上がったのだ。

西中誠一郎氏の活動が個人的に気に食わないのは理解出来る。それでも日本では信条、宗教の自由はあるし、そもそもジャーナリストというのは個人的信念に基いて動いているものであり、その個人のフィルターから真実を暴く活動の事でもある。事実を曲げてはいけないが、その事案のチョイスはジャーナリスト次第でもある。彼がどれだけ自分の考えと合わない人間であろうが、そんな事はどうでもよく、今村復興大臣が発言を撤回した、そうした発言を引き出した煽りが功績であり、庶民が目を向けるべきは今村復興大臣、つまり国の姿勢に対するチェック、それだけだ。

 

なのに、なぜか西中誠一郎氏の個人攻撃が当たり前のようになっているのはなぜだろうか。ここに日本人の根深い人間蔑視、差別意識がある。まずは人の外観というか、取り巻く情報だけで判断するやり方。東大出身=すごい人、みたいな。テレビのコメンテーターをバカにしている人は多いが、彼らの多くは日本中の講演で荒稼ぎ出来ている。テレビに出ている人=自分よりも上位、のような見方。つまり、事実その事のみを点で判断するのではなく、なぜか私情を挟む事が良しというか、色眼鏡がかける方が良しとされてしまっているのだ。こうした人はビジネスシーンでも当たり前にいる。

・後輩の的確な指摘に対して「お前に言われたくない」と制する上司

・会社にとって利益な活動でも「あいつには協力したくない」と平然と言える同僚

会社はまだ人間的利害関係があるのでまだ理解は出来る。ただ、これが為政者である国と国民という関係だとまったく関係はなく、税金を払っている株主の立場の国民として、どんな手段を使ってでもチェックすべきであり、それを自らの信条と違う活動家がしようが、気に食わない芸人がしようが本来関係無いのだ。

 

この自分が気に食わない人間を認めない、というあり方が当たり前、という庶民のやり方が、仕事の年齢制限が公の機関でも当たり前のように行われている日本らしい発想にもつながっている。例えば「アメリカンスナイパー」という映画で実在の主人公は厳しいテストをくぐり抜けて訓練に入るが、そこで「お前みたいなロートルがついてこれるのか!」と訓練士にはっぱをかけられる。つまり、門戸は開いており、体力チェックをクリアしたら年齢関係無くチャンスがあるのだ。日本ではそうした門は年齢で閉じている。極端に言えば、武井壮に勝てない20代がほとんどでも、40代になったら応募すら出来ない肉体関係の仕事の多さたるや。これが欧米ではありえない。本人の努力、資質は年齢に関係無いからだ。その仕事に値する体力がある事、その一点が大事なのだ。

しかし、日本では上記のように、その仕事を行う為の体力、という一点の事実になぜか「年齢制限」をかけるのが当たり前だ。この年齢、例えば39歳と40歳になんの違いがあるのか。明確な線引などない。決めた人の私感だ。そんな人間性を否定するような事が当たり前になっており、だれも文句を言わない。それはその被害を被る立場の雇われ庶民、立場の弱い庶民達も同じように事実の点で物事を判断する訓練、発想が出来ておらず、周辺情報を含めて私情で判断し、他人の人間性を否定する事をなんとも思わない、むしろ人間性を否定している事すら気付かない社会になってしまっているからだ。

 

今村復興大臣の記者会見。ネットで世界情勢が誰でも手に入る時代。少しはリテラシーが向上しているかな、と思ったのだが。何も変わらず、日本社会は庶民自身が作っているという事をあらためて痛感する事となった。