底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

菊池桃子氏へのストーカー事件を一般的なストーカーと一緒には

するのはちょっと違うと思うんですよね。

底辺を知らない一般人からすれば、ストーカーというのは一方的に好きになった人に付きまとう、という定義だと思います。確かに行動的にはそうだと思います。ただ、過去に付き合っていた人、妻等へのストーカー、電車等で出会った一目惚れした人へのストーカーと元タクシー運転手・飯塚博光容疑者(56)のは根本的に違うと思うんです。もちろん、勝手な想像ですけどね。

56歳でタクシー運転手。誇りを持ってお仕事をしている人には申し訳ないのですが、私が若い頃から登録していたリクナビネクストでは、若い時には様々な会社からアプローチがあったのですが、年齢差別をされる歳となった今、大東建設かタクシー会社、警備員会社からしかアクセスが無いです。つまり、この3つの業界が年齢経験関係無く、人間であればいい(人手であればいい)という3大底辺仕事業界なわけです。そんな中、飯塚容疑者はまだ56歳。年齢差別社会の日本ではオワコンではあるが、人間としては全然元気な歳。その事を本人が一番知っているはず。自分はなぜこんなヒエラルキーの底辺でずっと人にペコぺコし続けなければならないのか。それもこの給料で。そうしたうつうつとした負のエネルギーは人間力があればあるほど溜まるものです。

そんな中、菊池桃子氏と接触する機会が出来てしまった。もしかしたら若い時にファンとは言わずとも、彼女のアイドル全盛期をしっていたのかもしれない。惨めな底辺な自分と輝かしい彼女。最初は眩しいだけだったと思う。

しかし、時間が立ち、冷静になってみると、なぜ自分だけがこんなに惨めなのだろう、と普段から考えている気持ちとの対比が頭を出してくる。調べてみると、菊池桃子氏は年齢も自分と近い。結婚してもおかしくない年齢差だ。そういう人生もあるのでは、と妄想するようになる。

その妄想は惨めな自分に対する別の人生の可能性として色が付くように成る。短期的な精神逃避行動、ちょっとした解離症状だ。昔の言い方でいえば短期的な精神分裂病。しかし精神疾患者ではないので、分裂したままで持続する事はできない。となると、どちらかを選択する時がくる。

そして彼は別の人生の可能性、菊池桃子氏と結婚してこの惨めな自分の人生が浮き上がる、という妄想を選んだ。その時点で妄想が現実となったのだ。だから現実の自分は切り捨てた。だから生活の糧であり、それを無くしたら再就職は難しいとわかっているタクシーの職を無くした。当たり前だ。自分には輝かしい未来が待っているのだから。

 

正直、相手が菊池桃子氏である必然性はないと思う。たまたま自分が知っている輝いている芸能人で年齢が結婚するに適当であれば誰でも良かったのだと思う。今の自分を救ってくれる程のエネルギーがある人であれば。この部分が、恋愛によるストーカーと違う所。恋愛ストーカーは少なくとも自分の事を相手は多少知っており、その自分を拒否する=自分が否定された、という事を認めたくない、という部分が大きい。飯塚容疑者は今の惨めな自分から脱するきっかけが欲しかっただけだと思う。そういう意味では彼は自殺願望もうっすらあったと思う。こんな自分の人生ならもう消したい、と衝動的に思うような事が何度かあったと思う。

 

だからマスメディアで言っているような「タクシー運転手がどうのこうの」という意見は的外れだと思うのだ。まだ元気な人でも中年というだけで虐げられる、ヒエラルキーの底辺に押し込まれる社会が生んだ事件だと私は思うのだ。そしてこうした感覚は多くの中年(中には若者でも)が抱いていいる事でもある、と思う。

 

新卒のみがバブル期よりも有効求人倍率が高い=その他は就職出来ない、と同義だ。日本の会社が欲しいのは奴隷。そこからはみ出ようとする意思がある若者には多くの経営者、ファウンダーがサポートする。では、その他大勢は?

そんな社会のヒエラルキーの中でもがいている人間なら誰でも起きうる事件であり、たまたまタクシー運転手がストーカー事件を起こしてしまっただけなのだ。

 

私はその気持ち、よくわかる。なぜしないか?簡単な話。自分だけが浮き上がる事に興味が無いからだ。そうした自己愛が欠如しているから私は底辺にいるくせにこうした感情はわかっても行動をするような事は無い。