底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

漫画、ホムンクルスを読んで

衝撃だった。主人公はまさに自分だったからだ。

ベンチャーから仕事初めて。キャリアを得る為に転職を繰り返し。世界有数の会社に入社出来るようになったら世間からの扱いがガラッと変わった。私自身は何も変わっていないのに。不動産屋でも、「まあ、立派な会社にお勤めですから」と、態度が急変。マンション投資等の電話も急に多くなった。違和感だらけだった。私の今ままで会社にささげてきた実績、努力に対する評価は?大会社勤めだったらそれでいいのか?と。しかし、唯一当時の彼女だけは私という人間を見ていてくれているのかも、と思っていたが、フラれてそれも崩壊し、酒びたりの生活になった。そこに逃げるしかなかった。

 

立ち直るには私のような理論はそれなりに論理が必要で。散々悩んだ末に出た結論が、

「私という人間には価値は無い」

という事だった。社会的にも人間的にも底辺の存在。それが私。底辺であれば後は上がるだけだと思った。しかし、世の中そんなに甘くはなかった。過去に会社名や会社での業績で評価された、という事はそれが無くなったら単純にその人で評価される、という事。日本では年齢で人を判断、差別する事は肯定されている社会だ。そこに離職期間が加われば、私は希望するアルバイトを受ける事さえもできない存在になっていた。

 

ここで問題なのは、ずっと底辺の生活でその環境しか知らなければ、見識もその範囲で悩みもその範囲であった、という事。しかし、もともとBtoCサービス専門で一般消費者にアンテナを張るタイプであった事に加え、更に自分が底辺になった事でより幅広い階層社会の現実を知る事となってしまった。だからこのブログを始めることで精神の均衡を保とうとした。この状態はまさにホムンクルスの主人公の冒頭の状態だ。他人の事が分析できてしまう。わかる、というのとは違う。人は自分が生きている階層での常識にとらわれて、それが決定思想のバイアスとなっている事が多いからだ。自分は立場は底辺だが、この人達とは違う、と思いたい気持ちが強くあった。

 

月日もたち。自分の中に残っていたプライドが全て無くなって思ったのは、「人間、みんなほぼ同じ」という事だった。自分も他人もそんなに変わらない。性格という事ではない。人間という存在自体だ。大きく心に10個ほどのスロットがあってそこに何を埋めているか。会社、家庭、子供、自分の趣味等、人はそこに全て埋まったら他は考える事はできない。そして善悪も完全なものではなく、大概上限2割ほどまで悪があり、その悪の出し方は人によって濃くでたり薄くでたりする。合計その人の2割ほどが完全(社会的に)悪であり、この2割を超えてくると犯罪者になったりする。この悪の部分の影響力はヒエラルキーの上位になるほど大きくなる。しかし、人間単体としてみた場合、全員同じ。

この状態がホムンクルスでいうラストに近い境地だ。

 

ホムンクルスのレビューをネットで見てみたら、後半理解できない、というのが多かった。これはこの境地に至っていないからだ。前半までの境地は一般的に人にある、「自己顕示欲」だ。なぜレビューを書き、わざわざネットに晒すのか?ツイッターは?インスタは?他人に、いいね!(もしくは逆でも)反応してもらいたい、承認欲求も混じっている。社会に生きている限り、相対的に自分の価値を評価してしまうわけで、その結果をわかりやすく理解できる結果でないとその欲求は埋まらないのだ。ネットでの誹謗中傷者も同じ。自分勝手な正義感=正義、と信じて発する事で自己顕示欲と承認欲求を埋めている。誰もが持っている感情だからそれが他人を攻撃する事に向かわなければ仕方がない部分だとも思う。では、私のように自己の評価に比べて、社会から年齢、経歴で孤立させられている人間はどうやって人間本来の欲求を埋めるのか?

 

ホムンクルスでは主人公は不毛な手段を取らざるおえなかった。しかし、その行動は痛いほどわかる。社会的には何もかも失った自分に残された、自分という存在価値、存在意義は人間たる能力、思考そのものだからだ。そう、人間本来の存在価値、個性というのはこの思考回路であり、この外見や肩書を越えた人の区別であり、だからこそ機械作業と人間作業は区別されている部分であるはずなのだ。しかし、日本社会は人間をそのように見ない文化が歴史的に長い。まずは階層。そして性別年齢。為政者が作ったその社会バイアスに庶民は長い間支配されてきた。近年、急にマスメディアでも人間の多様性を入れてきているのは作り手側の挟持とも思うが。しかし、法律という秩序最高峰でもまだ差別が当たり前のこの国でこのバイアスから逃れるには自分でそれなりに勉強をしないとならない。それができないとホムンクルスの主人公のようなラストを迎える事になる。現実としてああなる、という事ではなく、メタファーとして脱する事のできない人生になる、という事だ。

 

では、自分はどうなのか。実はラストの主人公と大して変わらない感じになっている。この漫画を読むまでもなく、自己分析は常にしているから。というのも、見なければいいのにmixiの胸糞悪いニュースのコメントなどを見てしまうからだ。まだ底辺初期の頃はむしろ見る事ができなかった。その悪意の塊に心がやられてしまったからだ。しかし、自分をある程度取り戻した今は、むしろやばそうなニュースの時にちらっと見るようになっている。例えば、日韓系や芸能人の不倫、未成年の性暴力、レイプ事件等だ。必ずといっていいほど、そういった事件の時のコメント数は膨大な数になり、そのほとんどが糞のような内容で、それに多くの「いいね!」が付くからだ。そう、私はホムンクルスの主人公のように、それらの視野の狭い非論理的な正義感、もしくは誹謗中傷を見て、「自分はまだこのレベルにまで落ちていない」「自分はこの人達とは違う」と心の安寧を得ているのだ。これはインスタやFacebookで自己を晒して他人からの自己顕示欲を得る事と、手段は違っていても変わらない。承認欲求が無い分、精神的に辛いのだが、ここはホムンクルスの主人公と同じとも言える。

 

とても哲学的な漫画だった。多分、ネットで自己顕示欲を満たす必要のない、多くの人達にはこの漫画は響いたのかもしれない。自身の救いはどこにあるのか。それは自分で考えて答えを出さないとならないのだなぁ。と思った。ただ、今のように、他人は自分である、という考えが根底にあるうちは思考として見識の狭い人達を区別して見る事=見下す事につながらない、なぜなら自分も同じ人間であり、見下す=自分を見下してしまう事になるから、見識の狭い人でもその他で私よりも勝り、結局総合的には私と同じ、もしくは少し上かも、というのが、果たしどうなのかしら、と疑問が湧いてきた。

というのも、それは真理かもしれないが、それで私が幸せか、という事だ。単純に自分は特別で世の中はバカ、という見方をしているおっさん達の方が精神的には私よりも幸せなのでのでは?私のように何でも複雑に様々な観点で考えるよりも、単純な善悪とか、テレビの報道を信じて一喜一憂したり、他人の活躍を同一視して元気を貰える性格の方が人生楽なのでは?私もホムンクルスの主人公もそれができないで自分を問い詰め、答えを出そうともがく事に終始してしまっている。それは幸せとは遠いのでは?

 

そんな事を最近悩んでおります。なのでまた社会で組織に所属する仕事をして、様々な階層の人間に会う仕事がしたいなぁ、と考えているだが、年齢で書類も通らないのだろうなぁ・・・。