底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

栗原心愛さんはなぜ亡くなったのか。児童相談所の問題とは

虐待をしていた親に、「職員の個人名名指しで訴訟起こすぞ!」と大声で恫喝されて心愛さんを引き渡してしまった、とのこと。

こういう問題になると、大体上がる児童相談所の改善策としては

・職員を増やす(人員増)

・権限を大きくする

というものだ。しかし、本来の問題はここではない。過去の児童相談所の問題を見てもそれは明らかだ。それは、多くの職員が子供を守る為に働いていない、という事だ。職員は自分の定職を守る為に働いているのだ。自分が一番大事。だから権限があろうが、職員を増やそうがそれは変わらない。

それは警察を見ればよくわかるだろう。交番の警察には今、定年退職した元警官がなぜか再雇用されている(人員増)。そして権限もある。では、それによって警察の本来の仕事(秩序の向上)はしているだろうか。巨悪ではなく、あえて交番とした所に注目してもらいたい。児童相談所が子供を守るのであれば、交番警察は庶民間の秩序。しかし、庶民間の法律は増える一方。マナー違反、ルール違反は増える一方だ。これは警察が自分たちのポイントにならない問題は無視しているからだ。交通安全週間とか、ポイントになる時にほんの1m右折車線に入るのが遅くなった車を捕まえる事に躍起になるだけだ。つまり、児童相談所に職員を増やそうが権限を与えようが何も変わらないのだ。

 

誰もが自分を守りたい。自分が大事。それが人間である。しかし、他人の子供を守る為に頑張っていったい何になるのだろうか。それが評価されて賃金UPするわけでもなし。であれば、問題を起こさない事が一番。それが当たり前の選択になってしまう。その事を裏付けるように、地方公務員としての児童相談所の長は大体2年で移動になる。つまり、2年間問題を起こさなければ公務員としてまた幸せな生活が待っているのだ。だったら何もしない方がいい。他人の子供の為にがんばる必要などないのだ。それを責めるのはおかしい。政治家だって警察だって。権力がある人達がそれを社会正義の為に使うなんて幻想がそもそもおかしい。自分と同じ人間が権力をもったらどうなるか。そういう事だ。

 

では、どうしたらいいのか。答えは簡単。児童相談所の地方公務員システムを止め、NPO法人等、本当に子供の為にがんばりたい、という人達が集まる機関に委託するのだ。国は金だけを出す。それだけ。

 

適材適所というのがある。本能が無くなった人間には親でも子供に愛を注ぐ事は知的作業やバイアスのおかげであり、それを全員に強制出来ない以上、自ら望んで子供の為に働きたい、という人達が児童相談所をやるべきなのだ。

子供=人間だから、それを扱う人間にもそれなりの資格が必要=人間性が大事なのだ。

しかし、国がやることは下手に資格制度を設けて、人間性よりも客観的事実のみを重視する事だ。これでは、資格を取るだけ(仕事がもらえる)、という大人を排除出来ない。

子供を保護する、という事はとてもデリケートな作業だ。であれば、それを扱う人間もデリケートに採用し、デリケートに組織を作る。人間性を排除して権限だ、資格だ、と言っている間はこの問題(相談をしたのに子供が亡くなる)は無くならないだろう。

 

まあ、その人間性無視、が日本社会の特徴でもあるのだけれど。