底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

表現の不自由展

大前提として。アートという定義は人が受ける言葉の定義であって、それはひとそれぞれ。だから私は「アート」自体の定義や内容について論じるのは意味無いと思っている。よく意味がわからない人はバンクシーの映画「バンクシーを盗んだ男」を見るといい。

私はマスメディアの情報番組等を録画して倍速チェックする事がある。それはマスコミの情報操作や今のマーケットへの迎合具合をチェックする為だ。で、曲者揃いの「サンデー・ジャポン」のゲスト出演者達全員がこの「表現の不自由展」を批判していてびっくりしてこのエントリーを書くに至った。あれだけ年齢立場教養活動場が違う人達が全員同じ意見になる事など確率的にかなり難しい事だからだ。

同日の前の時間に橋下徹氏と桜井よしこ氏もこの問題について語っていた。もちろん、反対であり、橋下氏は「天皇とか関係無く、人間の肖像を焼くようなアートは反対」と番組内でもツイートでもおっしゃっていた。桜井よしこの反対はまあ、想定範囲内。

 

この展示の反対には大きくわけて2つの理論がある。一つは私的なアートならばまだしも、公費を入れた展示物としてはいかがなものか、というもの。もう一つは全否定。全否定の人は人の意見を聞く余地がなく、それこそ表現の自由とは程遠い場所にいる人達なので、ここでは無視して。公費問題についてはどうだろう。

 

まず、韓国の従軍慰安婦問題団体が作る少女像。これが展示されているのは「日本軍の従軍慰安婦の問題」について是非を提起しているのではない。韓国ではこのような像を作って政治利用したりするよね。じゃ、国内では同じような表現は出来ているのかしら?という事。従軍慰安婦問題の是非じゃないのだ。少し前、集団的自衛権の拡張関連法案の時のデモを見に行った事がある。デモ隊の多くは「アベ政権を許さない」と吠えたり旗を持っていた。私は思った。

「アベ政権を許さない、って?」

だって、日本の総理大臣はアメリカの大統領のような直接民選ではないから、そのような巨大な権力があるわけではない。単なる代表であって、問題は戦後から続く戦中でも庶民の人命軽視の戦術を行っていた権力保守層であって、元貴族、地主系、その他関係者との利益誘導でズブズブの関係を作ってきた保守政治家、支える官僚、メディア、そして支持庶民であって、決して「アベ政権」の問題ではないからだ。そんな彼らの主張はやはり通る事は無い。保守に守られている庶民層(若者、正社員、金持ち老人)の方が強いからだ。だからこのデモ隊、特に参加した若者達の団体はネットの中年達にひどく叩かれた。それでも表現は出来た。多分、従軍慰安婦の問題を日本で主張したい在日韓国人の団体がこの「少女像」を掲げて主張しても、まさに「アベ政権を許さない」状態になるのは目に見えている。それでもその主張を日本国内でやる事は表現の自由として守られていいはずだ。「アベ政権を許さない」という問題の根本はそこじゃない、という政治利用だって許されるんだから。何も、少女像の展示=韓国の従軍慰安婦団体の主張を受け入れる、という事にはならないのだから。表現の自由を与えよう、というだけの話だ。

肖像を焼く、という展示についてだが、これは抗議で展示中止となって焼かれた図録を忠実に表現したとの事。昭和天皇をモチーフにしたコラージュ作品が抗議によって非公開になり、その後焼却された事実について、(モチーフは駄目で、それを焼却するのはOKなの?)という事を表現しているわけだ。誰であっても写真を焼かれるのは気持ち悪い、というのであれば、コラージュ作品のままで良かったはずだ。コラージュが天皇を冒涜している(?)的な事あれば、それを焼却する事の方が冒涜なのじゃないか?抗議をする人達にとって、という問題定義だと思う。だよねー、と言うしかない。

 

再度言うが、アートかどうかというのはどうでもいい。展示が中止になったこれらの数々を見て、表現の自由って何か、何に忖度して断られた作品なのか、抗議の内容はどういった事なのか。日の目を見なかった(もしくはすぐ下げられた)作品を見て「表現の自由」を考える、というのがこの展示の趣旨なのだろう。そこに愛知という自治体が公費を入れる、というのは日本という国ではかなり先進的で挑戦的な事だと思う。少女像を見ただけで「韓国に迎合するのか!」と条件反射で騒ぐ保守派、ネトウヨさん達が多いし、リテラシーが無いのが日本国民であるからだ。これは利益誘導をされているマスメディアや有識者、自称ジャーナリスト達が保守を言論で守って庶民を誘導しているからで、普通の人なら社会正義よりも自己の正義(生活)を優先してしまうもの。だからジャーナリズム精神が育たないのだ、日本は。それは第二次大戦中と全く同じ。発言力のあるジャーナリストやマスコミが利益誘導されているから動かないから、言論の自由度の世界ランキングは毎年日本は下がっているのだ。だからこそ、公費じゃないと出来ない内容として、この「表現の不自由展」はあったのだ。

公費、というのを予算と考えてNHKの番組として考えてみたらどうだろうか。民間で作れる番組を予算を使って沢山NHKは作っているが、NHKしか作れない番組(視聴率も稼げず、スポンサーもつかない内容)もあるだろう。だから国営放送であり続けるのだ。だから未だに第二次大戦時の大本営の失敗や毒ガス部隊などの情報を毎年更新し続けている。NHKが毎年終戦記念日前後に粛々と第二次大戦での日本軍の酷さを暴き続けるのと同じく、地方自治体が「そろそろ、日本にも国際的な感覚での表現の自由があってもいいのでは」と問題提起をする為に、今まで撤去された作品を中心に「表現の不自由展」を行う。戦時中はすべての新聞が同じ内容だった。これは庶民を騙したとして進駐軍が作った戦犯リストにマスコミは入っていた。裁判は日本人に委ねられたが、我々は罰する事はしなかった。今回の件はそれに近い。マスコミが一斉にコメンテーターや番組ゲストを使って批判をしたのだ。先に述べてサンデー・ジャポンがいい例だ。再度言うが、全員一致など本来ありえないのだ。

 

今回の件は日本が表現の自由が無い国である事が露呈したという事では価値があった、これで議論のキッカケになった、などという意見もあるが、そんな事はない。日本に表現の自由もジャーナリズム精神も無い事に日常的に気づいている人でないとこの問題はわからないし、その他の人はそもそも社会のありように興味無いからネットニュースのタイトルだけ見て「何?公費で韓国の応援したの?」とか「何?天皇の肖像燃やしたの?パヨクって頭ウジ湧いてる!」ってつぶやいて終わり。すぐ忘れる。一部の憂さ晴らし隊は抗議やパトロールしてコメントを荒らす事に必死になるだけ。つまり、無意味な対立構造を生んでしまっただけだ。こうなると、憂さ晴らし隊は更に極右翼化していくし、逆に反体制側もただ反抗する事に執着(アベ政権を許さない、みたいにね)して現実問題を解決しない、両派とも極端な憂さ晴らし隊ができる事につながる可能性がある。

 

まあ、どちらにしても日本社会が変わる転機の予感なんだろうね。