底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

二次創作物への批判じゃなくて。共感の問題。その2

日本のような同調圧力が強く、多数の世論=正論だと信じている人間が多い社会では共感力が生まれるはずもない。それがよくわかる事案として先の献血ポスター問題がいまだにネットでは収束していない事がある。

 

・二次創作物への批判はおかしい

・実際の犯罪との相関関係があるのか?

 

これが2大主張だ。その点に関して論じる必要はまったくないと感じる。というのも、こういう主張をする人はあのポスターを含め、女性の体を性的対象物をする創造物が広く一般大衆の目に触れる苦痛と自己否定感をそもそも理解していないし、理解しようとしていないからだ。

以前のエントリーで書いた事の重複を避けると、まず、あのポスターを不快に思う人全員が自分が不快に思う根底の理由をすべてさらけ出す事が出来ない、という事。また、だれもが自分の考えを正確に言語化して表現する事ができるわけじゃない、という事。なので表現的に二次創作物への批判のように見えるようになってしまう事もある。

 

この性的な不快感、嫌悪感というのを正確に未知の他人に伝えるのは非常に難しい。言いたくもない自分の過去の性犯罪を語って理論的に説明しても、性犯罪被害者の気持ちを考えるどころかむしろ責める人もいるぐらいだし、誰もが目を背けるような性犯罪事案だけではなく、細かい性差別による蓄積による事もあるので、より理論的な言語化は難しい。

 

もちろん、本来こんな事は常日頃広く社会を見ていれば想像に難くない。自分が二次創作物が好きで興味がある社会だけを見ていてはずっと感性は磨かれない。その昔、子供というのは生活圏内が狭いために視野が狭く見識が浅いが、大人になるという事は生活圏が広がり、様々な社会に触れて見識が深くなるものとされていた。しかし、現在は格差社会になり、大人になっても触れる社会の景色が本人が努力をしない広がらない。しかもスマホ文化になり、昔な空き時間に目に自然と入る社会の光景や事案をゲームやSNSに没頭する事で自分の好きな事柄だけに囲まれる事が可能になった。つまり、年齢的に大人になる事=精神的に子供のまま、見識的に子供のままでいる事が可能になったのだ。

 

この収まらない献血ポスター問題はそうした社会の変化を表していると感じる。

心を痛めている人に直接さらに傷つける言葉を送る人達の多さを見ると、あなたのそこまで信念の無い憂さ晴らしのために自分と同じ人生を送っている人間に深くダメージを与える事の正当性があるのかどうか。小学校の教室内のような正義感にかられているのはわかるのだが、大人の人間としての共感力を発揮してもらいたいものだ。