底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

紅白でのレインボーフラッグが注目浴びたけど。真の浸透は難しいというお話

先のエントリーのヘイトともかぶるお話なんだけど。

LGBT(今は更に頭文字加わったパターンがあるけど、ここではこれで)に対する差別を止めよう、という世界の流れ。日本では現在マツコ・デラックスも活躍しているし、意外と早く「私は別に差別しないよ」という声が世間でも聞かれるようになっているのよね。でも、ここには日本独特の建前と本音がございます。というのも、

「差別しない」

という人は自分の周囲に実際に該当者がいないのを前提としている事が多いのよね。要は表面的に自分は世界最先端の考えをもっている、というアピールの方が優先、もしくは当事者意識が無いから言える事。これは日本人独特な感覚。例えば・・・

ど田舎に住む白人男性。村おこしで古民家を修理して民泊をして稼ぐ。周囲の人も最初は遠ざけていたけど次第に仲良くなって・・・。

よく聞く話だ。しかし、これが中年の一人男性だとどうだろう。または黒人男性だとどうだろう。村八分に合う確率の方が高い。いやいや、中年になってから田舎移住でうまくいっている独り身の芸能人もいる、という話もよくきく。それも芸能人だからだ。

夫婦別姓の選択の自由さえも認めない差別意識が強い国民性という事をしっかり理解すれば横軸でわかるはずなのに、なぜか点で見ると「田舎っていいなぁ」となったりする。移住募集要件に「結婚している40歳以下」とかいう差別的な選択があるのが普通だったりする地域なのに。

そういう民族性を考えれば、LGBTのムーブメントを受け入れる事自体は簡単。しかし、権利を与えるか、となると別。マツコ・デラックスが受け入れられているのは外見も含めて非日常感が強いからだ。これが今までヘテロセクシュアルと思っていたイケメン系芸能人がホモセクシャルとカミングアウトしたらCM契約がどうなるかわからない。ファンは知っているので受け入れるとは思うが。なので、

LGBTの問題、同性婚問題の前に、夫婦別姓等の非日常と思っていない事柄の多様性を認めてから、という順番にならないと差別が根付いた社会意識は変わらないのではないか、と。

まあ、様々な社会の人がいる場に意識的に行かないと多種多様な人とは出会えないのでなかなか視野を広げたり、当事者意識を持つのは難しいとは思うのだけれど。