底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ストレート・エッジを止めた結果

2014年から。このままだとアルコールで死ぬ事になると思い、生活の立て直しを決意して断酒。暴食も止め、元々ドラッグもタバコもやらないし、愛の無いセックスも元々できない(相手もいないが)生活を続けた。この時に出会った人からは「まるで修行僧だ」と言われるほどのストイックに自分を追い込んだ。所謂、ストレート・エッジだ。

 

実は今年からお酒を解禁にした。それは既に6年も続けていたストレート・エッジそれ自体が目的となって、自分のプライド、誇れるものになっているのではないだろうか?という疑問が出てきたからだ。つまり、例えば生き方そのモノがパンクな人がストレート・エッジを選んでそれも主義として取り入れている場合は結果的にそういう選択なだけであって本人はそこまで意識していない。しかし、私は主義主張で禁欲生活をしているのではなく、禁欲生活によって等価交換的に別の世界が見えるのではないか、とか、逃げ場を無くすため、とか打算的ストレート・エッジであり、根本的人間性の延長になっていないのではないか?その事事態が目的となり、勝手に自分に自信を持ってしまっているのではないか?と思ったのだ。

 

そんな意味の無い自信など壊すしかない。そうすれば、

「おれ、2014年から断酒して一滴も飲んでないよ」

「ええ!すごいなぁ」

という小さな称賛のやり取りがなくなる。自己紹介の時に私を客観的に褒める部分がゼロになる。つまり、更に客観的に褒める部分を作らなくてはならなくなる。という自分を追い込む図式になるのではないだろうか。

 

そして実際今年から酒を飲んでみた。コロナ騒動で無収入になった事で更に暴飲暴食が進み、体重は10kg増えた。

 

ここで気付いたのだ。自分が普通の自信を取り戻しつつある、という事を。

というのも、ストレート・エッジ時代は自身の価値の最前線はあれだけ毎日浴びるほど飲んでいた酒をスパッと止めてストイックな生活をしている、という事だったのだ。なので一般的な社会を少し離れた目線で見てしまい、自身の居場所はそこに無いという感覚になっていた気がする。

しかし、自堕落な生活でぷくぷくに太った事で、今までの自分の人生全体、人間全体を含むように見る事が出来る感じになった気がする。久しぶりに、「俺、アイツに全然負けて無いしむしろ上だし」という感情が出てきたのだ。

今までは自己の尊厳のポイントがストレート・エッジであり、それ以外は負けている、自分がフラれるのは仕方ない、と、自分を責める日々だった。今は全てが同じ土俵に立ったわけで、経済的条件やその他諸々ポイントでは負けている部分はもちろん変わらないのだが、諸行無常の人生において、「しかし、俺は負けていない。」という感覚を持つ事ができたのだ。

これは所謂根拠の無いネットの「無敵の人」とは違う、

・私は生きていて良い

・私をふった人が私の尊厳を剥奪する権利も否定する権利も無い

という事であり、そこに私の小さい時からの思想「人間性自体の善悪に人は大差はない」という事が融合して、常に自分を下に見るクセが無くなって来たのだ。

 

このブログのタイトルがまさにそう。自分の事を「底辺くん」と自身で蔑んでいた。しかしそれは私自身の人間の事では無かったのだ。

人間性を否定する時、その人の周辺情報、時には外見や年齢だけで判断する人はどうしてもいる。そういう人は自身もそのように周辺情報を揃える、整える事で自身の価値の見出している事が多い。極端に言えばカキタレというお笑い芸能人専門のサセコなどもそうで、芸能人とセックスする事で自分の価値が上がったという錯覚する価値観。私のストレート・エッジも結局そういう事になっていたのだとわかった。ストイックな生活=私が人間のステージが上がった、と勘違いしていた。

 

そうではない。私は元々高いのだ。全ての人間は基本的に尊厳を保たれるものなのだ。

もちろん、そう思い続けるのは容易ではない。私の人間的価値を認めない、見下す、他人と外見や年齢で比べて落とすような人は周囲にいる。何も無くなった今の方がそういう人達の態度のダメージは大きいが以前のような反抗心は無い気がする。だって反抗する必要が無いから。負けてないんだもん。私の価値がわからない貴方は可愛そうね、ぐらい思える。

 

この新しい価値観によって、今年やっと私を苦しめてきた10年付き合った彼女からフラれた傷が完全に違うベクトルになった気がする。今までのように自分を責めてばかりいない。そもそも私を苦しめる人間って何?

 

今年は前向きにいきます。