木村花さんの件で気になるもう一つの視点
大きくはモブ化の延長でもあるけど。本当に個々の正義って自分がしっかり人生の中で考えてきた結果なのかしら?って思うのですよ。ネットの反応見ていると。
木村花さんが亡くなった事で普段誹謗中傷を浴びる芸能人が声を出すのはわかる。でも一般人はどうだろうか。常日頃考えている誹謗中傷問題。もしくは今回をきっかけに考えるようになった。それでもいいと思う。それは木村花さんというキャッチーなアイコンだからではないだろうか。美人で活躍していて若くてスタイルが良くて。芸能人に対する誹謗中傷問題、と簡単に片付けていないだろうか。それは逆に言えば芸能人以外なら誹謗中傷(それに準ずる)扱いをしてもいい、という事にはならないだろうか。つまり、結局他人をモブ化していないだろうか。そして、その考えに一貫性はあるのか。あなたの歪んだ正義(認知の歪み)が日々他人を傷つけていませんか?
例えば同じ自殺でも女子中学生がいじめを苦に自殺したとしたらどうだろうか。ネットだと自殺するくらいなら逃げろ、とか残された人の気持ちを、とか。自殺者側を責める声が多数上がる。周囲に追い詰められた末での自死という点では木村花さんと変わらないのになぜこんなに死の扱いが変わるのだろうか。
こんな例もある。女子高生が教師(成人男性)との恋愛のもつれで自殺。この場合は女子高生側が責められる事も多い。年齢的に成人側が未成年を性的搾取をしたのにも関わらず。自殺の扱いが変わる。
自殺行為には命を絶つ以外にやってはいけない手もある。無差別殺傷だ。死刑になる為に関係の無い他人を襲う。この行為は責められるべきだが、自殺行為でもあり、彼らをここまで追い込んだモノに思いをはせて悩み、共感出来ないまでも理解しようと努力しているだろうか。
つまり、自分が選んだ人間(大切だと思う人間)のみ誹謗中傷を問題にしていないだろうか。今、木村花さんの死を悼み、誹謗中傷は良くない、と叫ぶ一般人は過去にAKB時代の前田敦子さんに対する鬼のような誹謗中傷の嵐の時、何を思っていたのだろうか。
この人間に対する目線の一貫性の無さ。差別。この歪みの吐き出し口が単純に誹謗中傷なだけで、人によっては不倫だったりパワハラセクハラだったり、いじめだったりするだけではないだろうか。
自分がどういう倫理観、人間として生きたいのか。そんな問いかけを常にしていないで刹那的に「これ、駄目」と言っていると必ず歪みが鬱憤となって他人を傷つける行為を平然と出来るようになる。
人間性が問われると思う。