底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

NHKドラマ 東京裁判3話4話

日本の公式公文書館には判決だけのニュルンベルク裁判とは違い、ドラマの内容の通り、判決詳細だけでなく、インド、オランダ、オーストラリア、フィリピンの判事長の意見書が残っている。その意見、結論に至った判事達の苦悩や政治駆け引きが面白い。

現在も東京裁判は研究されているという。オーストラリア判事の当時の家族への手紙が見つかった、というレベルまで詳細に。それは「戦争を法律でさばけるか」であり、それはつまり、法律で戦争を止める事ができるか、という事。しかし、アメリカやロシアがそのグループから脱退している、というのが最後にテロップで出る。つまり、法で戦争を止める事は出来ないという事だ。

こういった現在の事実と意見書を元に多くのセリフが創作されているのだろう。これは歴史の改ざんではなく、意見書という結論に対して多様性の見識を深める事になる。

声が大きい多数派(大国)によって国際法を早急にすすめるべきじゃない、というセリフは政治、国家さえも裁く法律としての立場が色々考えさせられた。また、これは常々言っている事だが、政治には国民も責任がある。帝国だった日本であっても国民に責任があった、とする日本人側知識人のセリフは私的には嬉しいが今の日本も同じなのが悲しい。

また、マッカーサーがマスコミの報道(もちろん、上層部の政治的思惑での行動)を恐れて表向き筋が通った事をせざる負えないというシーンが何度かあったのが羨ましい。ジャーナリズムがあるアメリカならでは。ペンで権力のある政治家の私的判断を止める事ができる、という事だ。日本にはジャーナリズムが無いので未だに政治家が好き勝手できる。マスコミを恐れて政治家が誠意ある決断をせざる負えなかった、なんて日本では聞いた事が無い。

ここについてはちょうどナベツネのロングインタビューが同日に行われていたのが興味深い。政治記者になった時の総裁選の際、目の前で政治家が当たり前のように票に対する現金のやり取りが行われていたという。本人いわく、「こういうものか」と受け入れるしかなかったという。ここが日本のマスコミとジャーナリズムの分岐点だった気がする。まだ政治家の人数に対して少数の有力政治家が日本を動かしていた時代。ナベツネ反戦争の立場であり、国の復興の為に行く末に裏方として尽力する道を選んだ。ペンの力ではなく権力にぶら下がる事を選んだのだ。たった一つの共通イデオロギーは「反戦」。それだけ。ここから日本のマスコミにはジャーナリズムの精神が生まれなくなった。それは国民の教養も育たない事と一致する。反戦という共通基盤が無くなった日本人は今後何を信念として今後語るのか。戦後次世代を憂えてナベツネの番組は終わった。

色々考えさせられたね・・・。

 

それにしても、このドラマを批判している人って、「あの判事があの発言をしたという記録はない。むしろ、こういった事を同僚に言っていた」とかいう反論するんだよね。ドラマだから。創作だから。そしてそれを歴史操作とかいう。残っている意見書が事実であり、その結論に対して閉鎖された議論を推論する。当たり前の創作である。確証バイアスで反論するバカさ。思うのだが、この高齢ライターの寄稿を載せる編集者も並みの見識の人ならそんな事とっくにわかっているのだろう。ああ、また確証バイアスでバカば事言ってるよ、この人。みたいな。それでも金と権力があったりつながっていたりするから話をあわせて極端な一方的意見を「さすがですね、先生!」ってやっているんだろうな。それが仕事というもの。発信する事は言論の自由だから。

 

まだまだ書きたい事があるのだが長くなるので後日。