底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

GDP上位30カ国の内、日本だけが最下位の経済成長率の件

そのデータを見ると、大概の人は「政治の責任」っていう。まあ、広義ではそうなのだがなぜそのよう事になっているのか。色々な要素があるのが、一番大きい事がある。それは

・社員をクビに出来ないこと

ぶっちゃけこれだけ。資本主義のトップリーダーであるアメリカはこのコロナ渦でも実は経済成長をしていて株価も最高潮だ。それは企業が従業員をクビにして利益を確保=株主保護を優先するからだ。社員達は日本よりも手厚いセーフティーネットがあるし、また社員になるのであればもっと安全な所に行こう、もしくは自分たちで起業しよう等考える。企業側もジョブ型で人を採用するので景気がよくなれば人を採用する。なので「何ができるか」というレジメが大事で日本のような履歴書などは無い。ここに人材と経済の流動性があり、コロナ渦でも全体経済は強いのだ。

 

では日本はどうだ。アメリカは極端だとしても、本来他国と同じように社員をそれなりに会社の都合でクビにできるようにしないとならないと資本主義としては成長が無い。しかしそれを多くの国民が許さなかった。そこで小泉内閣は考えた。社員をクビに出来ないのであれば、切る事ができる派遣業務を拡大して人件費の調整弁とし、来たる国際競争に勝てるようにしようと。しかし、ここで問題が発生する。資本主義では本来経営側(企業)と労働者、株主というシンプルな構図なはずの中に、正規社員、非正規社員という階層が生まれ、正規社員が既得権益化してしまったのだ。しかし、こんな事は想定の範囲内。本来であれば区切りのいいところで非正規雇用という階層をなくして社員と同等にし、社員をクビにできればいい話。しかし、これがうまくいかない。そりゃそうだ。今や労働者の4割以上が非正規の中、正社員達は既得権益を無くすわけがない。

 

そして政治家は考える

・非正規を強制的に社員登用する制度を実施→直前に契約を切られて成立せず

・待遇を同じにして差をなくせばいい(同一労働同一賃金)→ほんの少しの差を社員との違い、と雇用側が主張すれば終わり

そんな中、派遣業というかつては江戸時代からあった、ヤクザのやり口である人材手配業が莫大な利益を産む。そりゃそうだ。原価が無く、中抜きなんだから。そしてその莫大な純利益を使って政治家、官僚政策チームを抱え込み、中抜きという美味しい仕事を無くさせないようにする。

企業側も辛い。クビにしたい中高年が居座るからだ。その固定費は莫大だ。それを削る事ができるだけで利益は生む事ができる。

本当は労働者も辛い。無能な中高年のせいで有能な人間の流動性が止まっているからだ。まだ、人材の流動性が当たり前じゃないという事はジョブ制に移行出来ない。つまり、何ができるか、というレジメ、ポートフォリオよりも転職回数や年齢を見る履歴書が生き続けるという事。これは労働者が会社に縛られる事になり、本来資本主義構造でいう、対価としての労働という労働者ではなく会社の所属物として人間になってしまう。いや、そうありたい、会社に守ってもらいたい、という労働者が多すぎるのだ。資本主義に本来そんな図式は無い。守るのは会社と株主だからだ。

 

日本人(庶民)は資本主義と社会主義のいい所取りをしようとしているのだ。自らの義務は最小限にして。その責任を全部政治のせいにしている。政治家もそんな国民の無責任さを理解しているからか、無責任でその場しのぎの政策をするように近年はなっている。その結果が日本だけが経済成長をしない国になった。

 

デフレ脱却は経済成長ありきだ。しかし日本は経済成長無き物価上昇になっている。これは本来、世界経済についていく為に企業と株主重視政策を取らずに政治家が自らの票の為に老人&正社員保護政策を重視と同じ構造で、流動性無き社会で不要な社員をクビに出来なくて固定費が削れない企業を救うには単純に売上を上げる事=物価上昇&公費投入しか無くなってしまっているのだ。日本社会、企業もジリ貧だ。

 

それが世界と比べた時のGDP成長率に出ている。こんな最低の成長率なのに未だに社員をクビにできるようにしないなんて。昔、「痛みを伴う改革」と政治家が言っていたが、それによって格差貧困が生まれた。これは社員全員をクビにできれば格差貧困がそのままだが、勝つチャンスが今よりも格段に生まれる。会社と労働者が対等になる事で、であれば経営側になろうという人も増えるだろう。

そう、日本経済低迷の最大の原因は会社が社員をクビに出来ない事。そして政治家達が票と派遣業界からの金の為にそこにメスを入れられない事。これに尽きるのだ。

 

経営をした事がある人はとっくにわかっていると思うけどね。でも既得権益は政治家も庶民も離さないのよ。

ステーキ屋松に行って来た

こんな誰も見ないような昔からの名前通りのブログでも、以前「いきなりステーキ」がネットコントロールにお金をかけていた時、感想にしつこく批判が来たことがあった。しかし結果を見るように市場は私の方を味方したわけで私が正しい事が証明されたのだが、同じような業態でもどれだけ「いきなりステーキ」と違うのか。比べてみないと不公平だと思い、松屋フーズが展開する表題の店にいってみた。

 

表に券売機があるのだが、私はデジタルクーポン&Pay払いをしたかったのだがこれがなかなかできない。画面表示に「次へ」「支払いへ」等の規定文言が無いのだ。何度もやり直しているうちに後ろには5組ほどの行列が。謝りつつ仕方ないので現金で払って入店。

店内は小綺麗で立ち食いだった「いきなり・・・」とは違い座る方式。ご飯、サラダ&スープが食べ放題で、ご飯のみ店員さんに頼む形で残りはバー的な所に行く。同時入店だとなかなかサラダが進まないが店内が狭い=客数に限界があるのでそんなに待つほどではない。当時キャンペーン価格の松ステーキ200g900円を頼む。

ものの数分で熱々の溶岩プレートに載って肉登場。

(ぶ、分厚い・・・)

スーパーで買う薄い肉ではない。分厚いのだ。俵型というか。これぞステーキだ。さっそく切ってみる。

(え?これは・・・)

レアというより、ほとんど生ではないか?というほどの赤さ。そうか、溶岩プレートで自分で焼くのだな。急いで全部を適当な厚さに切り分ける。そして赤い部分を溶岩プレート側にする。その作業が全てすんだ時にいい感じの焼け具合になっていた。早速実食。

(うまい・・・そして柔らかい・・・)

私は元々高額な国産のサシの入った柔らかい肉よりも赤味が好きだ。しっかり肉の味がわかる歯応え。「いきなり・・・」の時のゴムのように切れない肉ではない。

ソースも何種類かあるが、肉が美味しい為にそんなにいらない。夢中で食べているとふっと心配な事が浮かんだ。

(今は美味しいがこのまま溶岩プレートで熱せられて肉が固くなったら美味しくないなぁ・・・)

と。しかし、そんな心配は必要なかった。

なんと、まだ赤味がほんのり残っている状態で既にプレートが保温状態になっているのだ。だから肉が焼けすぎる事がない上に冷めて固くなる事もない。

(この適温にするのに試行錯誤したんだろうなぁ・・・)

と嬉しくなる。置いたままだとガチガチに固くなるため、野菜の上に避けておく「いきなり・・・」とは大違い。

また、専属ホールが1名の中高年の女性だったのだが、この方の接客が良い。挨拶も気持ちいいし、テキパキ。

 

とても気持ちよくステーキが食べられたのでした。

そりゃ、「いきなりステーキ」は駄目になるなぁ、とコロナ渦でオープンしても繁盛している店のやり方を見たのでした。

 

 

 

愛を言い訳にしてないか、最近増えている男女問題

全ては「自分に得があるから」だと思うのよね。この「得」の部分って人生時間だったり、秒で変わったりもする。ここの性欲が加わる。なので、恋愛対象に感じるこの、愛や恋、好きという感情の正体は

①自分が何かしら得をする

②性欲

これだけ。②はわかりやすいからOK。問題は①なのよね。いやいや、無償の愛だってある、っていう人もいるかもしれないが、そんなものはない。無償の愛のパターンで例えば親子の場合

・愛情を返してくれる→自分に何かしら得がある

・愛情を返してくれない→いつか自分に何かしら得がる

・愛情を返してくれないどころかDVまで→親の型にハマったバイアスで生きる事の何かしらの得、安定感

という感じかしら。この①が崩れていくと人はその不安、鬱憤をどこかではらそうとする。例えば完全に無償の愛を振りまいているように見える神父が幼児を性的暴行していたり。完全無欠の家族を演じている夫が浮気しまくっていたり。そうして人は自分の得の数字を埋めようとしている、いわば欲の塊が人間の正体。ここでよく問題になるのがこの「自分にとって得」が自分が歳をとるように刻一刻変わる事が多いという事。

恋愛で10点を満点としたら。

この点数を与えてくれる相手にプラス性欲がプラスして愛している、好き、と思うのだ。

例えば、

・愛されている→5点

・かっこいい→3点

・やさしい→1点

・正社員→1点

これで10点。ここに性欲が加わって出会いのタイミングがある。ここで大事な視点が抜けている事に気が付かないだろうか。それは「相手が自分とは違う人間である」という事。つまり、自分にとっての「得」は相手も同時な「得」とは限らないのだ。上記が女性から男性だとしよう。では、この彼氏は

・愛されている→9点

・かわいい→1点

合計10点という依存タイプかもしれない。この両者は付き合う事になって結婚した場合、多くの問題が生じる。

DV(モラハラ、暴力等)、浮気、家事分担ができない、子供の面倒をみない、離婚しても慰謝料はらない等々。

色々あるが、多くは男性が駄目男、酷い男扱いされる事が多い。しかし、今までの論を見ると酷い男性を選んだ女性側に問題があるのではないだろうか。戦前のように親が取り決めた強制的な結婚ではない。お互い成人で選択権は自分にある。ここに日本の「愛」や「好き」というバイアスの問題が浮上する。この漠然とした言葉に個人が勝手に幻想を抱いてその正体を自分に問いかけていないのだ。

 

・女性を殴る男性は昔からそういう人間だ。殴らない人は一生殴らない。しかし、この殴る男性の方が実際はモテる

・日本では3割が不倫しているという。では7割はしていない。しかし、この3割は不倫が出来るという点ではモテる

・家事も育児も何もしない、子供から見て毒親でも結婚出来る

 

全ては付き合っていればわかる事だ。何がわかるか。それは「人間性」だ。この「人間性」が日本の恋愛観にほとんど入っていないのだ。自分に関係無い所で善行を見た時、その行為の奥の人間性を注意深く観察して人となりを見ようとするよりも、「こういう行為をする人は私を大切にしてくれる人だろう」という自分にとってのお得感ばかりがきになる。そのお得感を積み重ねてパーフェクトに近い人間を選んだ所で。付き合う前、もしくは結婚をしようとしている相手は言動なんていくらだって演じることが出来る。それは当たり前の努力というものだろう。

 

日本は女性差別が酷い国でその国際数字は毎年下げっている。つまり、逆に男性側にも偏りがあるため、結果的に酷い男性も増えている。結果論だけで男性側だけを駄目男呼ばわりする事はやめてそろそろ選ぶ側の女性の姿勢、知性に言及する時期ではないかと思う。

それこそが立場の弱くなりがちの日本社会で女性が自分を守る事だと思う。

大学のミスコンのジェンダーレス化は正しいのか?という問いについて

モーニングCROSS」という番組で整形を公言しているアイドルが大学のミスコンは女性差別に当たる可能性があるという事でのジャンダーレス化に異議を唱えていた。外見も立派な個性であり、それを売りしている人間もいるわけで、それを受け入れないのは多様性を認めない事だ、的な事を言っており、司会の堀潤氏も賛同していた。さて、この提言はどうなのだろう。

 

差別というのは根深い。あらゆる差別があり、その中でも世界的に浸透しているのは人種差別。これは未だにアメリカで暴動が起きるぐらいの問題。その昔、アメリカでのミスコンは白人のブロンドがグランプリを取るのが当たり前という時代があった。もちろん、それは人種差別であり、今はそんな事はない。どこにも有色人種はいる。しかし、まだ人種差別は根深いのでアカデミー賞は作品賞の対象に人種問題を入れ込んだ新基準を盛り込んだ。ここまでするのが人種差別。つまりアメリカの最大の差別問題は女性の美醜よりも人種だ、という事。とはいえ、その人種問題を乗り越えたセレブ達は美醜差別にまで関心を寄せている。そこをカッティング・エッジと捉えた企業も賛同して男女(特に女性)の美醜問題に取り組んでいる。それが渡辺直美アメリカで受ける部分でもある。日本のように外見を「デブ、豚」と笑っているのではなく、巨漢の子が抜群のスタイルのビヨンセを真似るという一生懸命さと大胆さに応援を送るという感じ。

 

では日本はどうだろう。この国も差別大好き。様々な差別があるの中でアメリカの人種問題のように日本で一番一般的な差別はなんだろう。これは毎年落ち続けている男女平等指数(ネトウヨが大嫌いな韓国よりも低い)でも明らかな男女のジェンダー差。これはどこから生まれるのだろうか。様々な社会的バイアス、要因がある。その中でも男女の性差に対する決めつけについては幼少の頃から根深い。その延長上が男らしさ、女らしさに繋がっているという説は否定のしようが無い。アイドル等の芸能人が政治的発言をしただけで叩かれる国だ。人間をモノ、象徴としか見ず、人間性の評価はしない。そんな国での大学のミスコンの位置はなんだろう。その時の流行りの美醜によって女性を選び、多くの女性がその外見をもってテレビ局に就職したりする。女性が外見によって仕事を得る、という事を公にしている。それも個性だ、というのはわかるが人間性を無視されている今の日本で女性の美醜による仕事の扱いが変わる事を最高学府の大学が認める事をしていいのだろうか。女性の地位の低さの要因は沢山あるが、美醜(年齢)だけで価値を決めつける事もその原因の一つになっていると考える事はいたって普通であり、それらを助長する取り組みをする事は大学側としてはアーリーアダプターでもある。

 

なんでも女性差別と言うな、と点で語るのは簡単だ。実際アメリカのキャスターや女優も人種や年齢はバラバラになったが美的にはある程度統一された基準がある。彼女達もそれは個性でもあるが武器でもある点で女性差別とも言えるかもしれない。しかしそれと比べて日本の大学が美醜でミスを選ぶというのは全く意味合いが違うのだ。バタフライ・エフェクト。女性の美だって個性である事は誰だって認める所だ。しかし、日本の女性差別、女性の地位の低さを考えるとまずは世間的「いい女」のバイアスを壊す所から始めるという手もあるのだ。こういう話をすると「フェミニストは細かい事うるさい!」っと言うやからもいるのだが、これは女性だけの問題ではない。女性らしさがあるという事は男性らしさもあるわけで、例えば男性ならヒモ、女性なら専業主婦と呼ばれるように男性も決まったレールの上ではない人間は行き難い社会を作ってしまっているのだ。それが200万人以上いると言われている引きこもりを生んでいるとも言えるのだ。

 

以上の事で日本の大学がミスコンをやめるという判断は社会を考える最高学府として今の時点では正しいと思う。

 

思いついた事徒然と9月

・前のエントリーにも書いたけど明確な理由無しに今、自殺する人の気持ちがわかった。簡単に言えば閉塞感だけどそれってずっと前から積み重なっていたモノがあふれる感じ。簡単には言葉には出来ない。

 

自民党が国民と認めている人達(正社員で結婚して子供がいる夫婦)ってなんでも家族間の問題に落とし込みがちよね。人は個の存在だから。母性、父性とかの本能はとっくに無いから。政府が言う「普通」の自分たちがいかに恵まれている存在か理解していないんだろうなぁ。自分たちは(あなた達より)努力したから、と思っているだろうけどみんなどんぐりの背比べレベルに努力して生きているんだから。

 

・数字で見るコロナ、で日本は政府のやり方はほぼ影響はなく、庶民には毎日の感染者数の発表で右往左往している事がわかったのよね。つまり、マスメディアによって国民がコントロールされているって事。これは戦中と変わらない。政府は憲法違反をしてまでも国会を開かないでもマスメディアと打ち合わせしておけば国民をなんとか出来るって事が数字で証明されたわけよね。でもこれはマスメディアも政府も戦中からだからノウハウが蓄積されている。これは電波は広げる時にキー局のチャンネルを増やして1局の力を削ぐべき政策をキー局数を維持してなおかつ地方局をグループ化してメディアをキー局に握らせた事による。こんな独裁国家、中国よりもヤバい。でも民主主義的手続きがあるだけ中国よりもいい、っていう人いるんだけどこれも戦中も同じ。民主主義的手続き、自由意思は日本帝国大本営もしっかりとっていた。しかし実際は「忖度」を強要されていた。それが今も続くから官僚の自殺者も出る。なんでその事がわからない人がいるのかが不思議。中国は国策で世界をマーケットにしているから世界水準に合わせないとならない部分が多々ある。実経済がある。しかし日本は一部企業が世界で儲けるだけで日本の儲けはほぼ第一次所得収支。実経済が無い。だから庶民がどうなろうと知った事じゃない。

 

・コロナ渦でそろそろ気がついた人が多くなったと思ったのだけど、テレビって「家事をしない夫」とか「主婦の時短家事」とか、政府が国民と認める恵まれたモデルケースの人達がさらなる幸せ、もっと幸福になる為の事しかやらないよね。高齢者向けには既に元気な人がさらに健康になる為、的な。今やモデルケースは幸運。この層が更に幸せを追求する事ばかりを考えると社会って完全に分断されるよね。この延長上が海外のSF映画の完全に地下と地上が別れている世界につながるんだなぁ、と思う。

 

・人間的にクソだなぁ、って思う人いるよね?自分に対して都合が悪い人に思うのではなく、じっくり観察した結果、人間性って細部に現れる。小手先のテクニックでは隠せない。それが40歳をすぎると顔に出るっていう人もいる。男の顔は履歴書だと。でもここでふっと思ったのよ。私が思うクソの部分で基本人間を区別、差別している人だったりテクニックを接する人に思うのであって私と比べて下という意味じゃない。じゃ、なんでクソかというとそれが他人影響を及ぼして時に苦しめる事があるから。自己完結していない事が問題だと思うわけ。しかし、そういった人達って女性にモテる人多いのよね。子供がいるのに不倫する人だったり、パワハラする人だったり。なんでかなぁ、とずっと思っていたのよ。一時は女性側がバカだと思ったり、結局金か、外見か、と思って自分を卑下した事もあった。最近わかったのよね。これは女性に対する接し方が違うのだと。

というのも私は性別年齢基本関係無く相手の人間性を観察するように接する。人見知りでもあるのだが。なので基本年齢関係無く男性&高齢の女性にどちらかというとウケがいい。しかし、こういった結婚して子供がいる所謂普通の男性は若い女性、中年でも外見の綺麗な女性にウケがいい。なぜなら接し方が違うからだ。これは人間性であり、長年培われたモノと推察する。人間を取捨選択して接し方を変える→モテる→自信になって更にそれが女性へのアプローチ方法を変える、を繰り返して今があるのだなぁ、と。

なるほど。そりゃ私が独りなわけだ。これは本人が意図的にやっているわけじゃないからやっかいだし真似出来ない。

ここ数ヶ月、どん底だった件

6年以上一滴も飲んでいなかった酒をがぶ飲みの日々。デブになって。精神的にもすっかり参ってしまい。コロナで今年行動しようと計画していた事がことごとく駄目になったからだ、と思っていた。でも最近新しい事に気がついた。

自己肯定感がほぼ無くなっている事に。このブログを初めた頃に戻ったような。

なぜだ?こんなに急激に下がるものか?死んでしまうのではないだろうか?

で、考えた。酷い環境なのは変わら無いし、嫌な人はいるが悪人は少ない。むむ、

なんだ?

 

昔のエントリーで、明確に相手を傷つけようとする人はわかりやすいから離れればいい。近づかなければいい。しかし、傷つける意思が本人が無い場合、例えばナチュラルに相手を見下していたり、レイシストであったり、トーンポリシングを多様する人だったり。そういう性格の人は「無意識の悪意」の持ち主である、と書いた。それはある状況下の「接点」でしかその部分は現れない。そして本人も大人でうまくやろう、特に相手を利用してやろう(結果的には道具として相手を扱っているのだが)という悪気がない。そんな人は山程いて、そういう人から得るプラスもあってそのプラスがあるからこその人付き合いだ、と人は言うだろう。それは自己肯定感が一定である人の場合だと思う。

例えばプラスが5点。マイナスが4点。計プラスは1点。そんな付き合いの人は多分恋人、パートナー、友達なのではないだろうか。自分が求める事もあるのでプラスもある。ただ、私のような一人の人間の場合はどうだろうか。他人に求める事が何も無く自己完結している。となると人間の評価として当初&「接点」があっても計プラス1点だったはずが、その「接点」が再びあるとプラス加算が無い中でマイナスが増えてしまう事にならないだろうか。もちろん、過去のマイナスは消化して消えていくものでもある。プラス1点しかない関係でも長い年月でそれがプラス8点になっているかもしれない。そのギリギリのラインで怒ったり落ち込んだりする程のレベルじゃないマイナス加算があった場合。自分が気が付かないレベルで自己肯定感が下げられていると思うのだ。

そして私のような他人に介入せず、期待もしない人間は逆に他人に道具として利用されやすい。友達でも仲間でも無いから、時に誰にも出来ない相談(友達にはわからない、反応がない話)だったり、イジりと称した憂さ晴らしに使ったり。やっている人間は明確に私の事を道具とは思っていない。しかし、受けている私は友達扱いはされていない事は明確にわかる。そしてその事を特に荒立てる程傷ついているわけでもない。表面上うまくやればお互い嫌な気持ちをしない。

問題はここ。多分私は薄っすら傷ついているのだ。自己肯定感を下げられているのだ。この自己肯定感は私を道具として扱っている事だけじゃなく、いつでも捨てていい道具として人間性が否定も肯定もされていない事に気がついているからだ。そんな扱い、言動を受け続けていると気がつくと自己肯定感がどん底になっていたのだ。そしてアルコールに依存する。

 

こんな人間関係なんて世の中では当たり前。なのに敏感かつ繊細な私はいつの間にかボロボロになっていた。自己肯定感が下がった人間はセルフネグレクトになりやすい。更に自分で自分を否定するような事や考え方をしてしまう。

これは私が孤独である事、組織に属していない事にも起因している。ほぼ自由人だから明確な悪意から逃げる、という癖が付いてしまっていたのだ。しかし、この薄っすらの場合にも逃げてしまっていたのだ。そりゃ、駄目だ。会社員だった時は組織からは逃れられないし、クライアントは選べない。しかし魑魅魍魎が跋扈する世界。そこでコーチングを学んだ。自身を見た目上コントロールするのだ。現実は無理だったが、今の状況でもそれが使えるのではないだろうか。

自身で自分の感情をコントロールする。ずっと努力して来た事なのに、いつの間にか素直に感情豊かになる事=良し、と思っていた。ある意味正解でプラスの感情を素直に、マイナスの感情を抑えるのではなくコントロールするという事。何が何でも素直である事が自分にとってプラスではないのだ。

 

多分、「この歳になって」とか自分を年齢で限界を決めて自分に枠組みを作っている人にはわからないかもしれない。私は枠組みを作っていない。一生変化と成長に努力をする。ただ、それがマイナスも溢れてしまっていた事への注意が足りなかった。

 

自分を落とすのは環境や人ではなく自分自身。であれば上げるのも自分自身。その強さを手に入れたい。強くありたいと思う。

 

大分の女子高生が30代の妻子ある教師との関係で自殺未遂の報道について

毎日新聞

「教諭と交際の女子高生が自殺未遂」

朝日新聞

「教諭と不倫関係にあった女子高生が自殺未遂(今は交際に訂正)」

だったとの事。生徒はこの教諭に妻子がいる事に悩んでいたが、教諭から「ずっと恋人でいたい」と引き留められて追い込まれた、との事。この教諭は「SNSや携帯でやり取りする中で親密な感情をもった」との事。この教諭は淫行の疑いで書類送検で罰金30万円の略式起訴レベル。年齢的にみてもこれは他の地域で同じ事を繰り返す可能性が高い。一度ここまで人間を追い詰める事ができるような人間性が治るは自身の努力でしかないが、性欲を満たすという自身にとっての金(仕事)よりも興奮の喜びを知ってしまった人間は麻薬中毒、アル中と同じように独りで脱する事は難しいだろう。

 

で、表題なのだが、教師のワイセツ行為について取り組んでいる弁護士等がSNS

「交際でも不倫でも無い。なぜなら教師と生徒の関係は対等ではなく、スクールセクハラの事案なのだから」

と言っていて。これはなるほど、と思った。言葉のチョイスによる全体イメージがガラッとかわる。

このブログでも何度も言っているが、日本社会は芸能界を巻き込んでなんとか教師と生徒の性的関係を成り立たせたい。親も生徒からしてもたまったもんじゃないが、好きな芸能人が演じる事でその感覚も麻痺する。それが「交際」という言葉だったり、「純愛」という言葉でのバイアスだろう。

そもそも交際ではないのだ。スクールセクハラ。圧倒的上の立場(個人情報入手し放題、指示し放題、児童心理学を学んだ知能犯)の教師が生徒を選んで性欲のままに襲うわけだ。この教諭も言っているが、「親密な感情」や「好きになった」という言葉を使う人がいる。つまり、言葉で未成年をコントロールしたように、事後になっても言葉でコントロールしようとしている。「親密な感情」「好きになった」=「やりたい、この子なSEXできる」だ。こういう事をいうといやいや、好きになる事だってある、とういう人がいる。であればその子の将来のPTSDを考えて何もしない事が本来の「好き」だろう。そもそも「好き」=SEXではない。これは大人でも言える。交際=SEXでもなければ、夫婦=SEXでもない。それが生殖本能がなくなった高次元生物の人間ができる事で、その人間が生み出したシステムが教育、学校だ。

 

今後もこうした教師絶対にいなくならない。なぜなら生徒と性交がしたいから教師になる人を防げないからだ(本気で防ごうと思えばできるが)。

であれば大人は子供を守る為にメディア、芸能界を上げて生徒の教師に対する一方的な恋心と教師のそれは明確に違うもので、スクールセクハラであるというメッセージを流し続けて生徒側を教育する義務がある。しかし、それをしないどころか推奨する。

 

それどころか、今や地上派で家での未成年の少女を監禁した恋愛や妹との関係も放送し続ける。日本社会の女性蔑視の象徴的問題。

 

はあ、私がナベツネぐらいの権力があれば。