底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

百田尚樹氏の発言が問題になっておりますが

百田尚樹氏の本は結構呼んでいる。彼の本はテーマが様々でその都度びっくりさせられる。所謂、売れている小説家的な、なんとなく「っぽい」という人間性を感じないのだ。これは彼が放送作家出身である事が大きいと思う。何事にも興味をもって客観的かつ俯瞰的にマーケット分析する癖。それが小説の題材に対しても生きていて、あれだけバリエーション豊かなテーマを面白く書けるのだろう。

 

そんな彼が「永遠の0」の大ヒット以降、度々過激な発言をしだした。なぜだろうか。彼ほど自分の立場を俯瞰して見る事が出来る人間が、今の日本では反感を買う事がわからないはずがない。

 

であれば、反感を買う事をわかっていながら発言をしている、という事になる。自分の意見など小説内で述べる事も出来るし、彼は庶民が居酒屋でプチ評論家になって言いたいことを言う、というような教養レベルでも無ければ、好き勝手言って目立つ存在になりたい、という認知欲求も必要ない。

 

そうなると、彼の度重なる発言には何かしら意図がある、と思うのが筋だ。彼は為政者ではないので、言論の自由にはかなり制限が無い。そんな彼の公の発言に対して、反論があるとすれば、それなりにデータなり、事実を列挙しないとならない。そうなると、その問題に対して、聞く耳、学ぶ目を持っている人にとって見識が深まる結果となり、情報リテラシーがあがる事になる。

例えば、今回。普天間周辺の家屋の起源問題について、反論があれば事実と歴史を列挙するだけだ。それによって以前デヴィ夫人がブログで書いた事もある普天間周辺問題がスッキリする。指摘された新聞社も、「我々はこういう意図をもって書いているのだ」と反論すればいいだけ。それによって、ただ「左翼だ」と騒ぐ輩は置いておいて、中立な人達にもお互いの立場がはっきりするだけでなく、なぜ百田尚樹氏が特定の新聞を敵視したか、その原因となった記事の対象についての理解も深まる。

つまり、既に死ぬまで裕福な生活が出来る百田尚樹氏はリテラシーの低い日本社会の状況に憂い、小説としての結果は残したが、自らが死ぬまでに社会に対して何かしら問題提起をしたいと思った。しかし、一塊の小説家ではその発言の重みは無くなる。であれば、発言権があって注目を浴びる立場になればいい。その為には日本を牛耳る既得権益層に好かれる必要がある。日本の権力層には戦後の混乱期にアメリカと組んで儲けたが、その日本から搾取して儲けた事の負い目を日本を誇りに思う事で心のバランスを取っている、旧日本軍関係者層と、同じく戦後に官僚も巻き込んで一山当てたビジネス成功層がある。どちらにも気に入られれば、何かしら立場のある仕事が貰えるかもしれない。で、書いたのが「永遠の0」「海賊とよばれた男」なのではないか。まんまと彼は影の権力層に迎え入れら、発言が取り出される立場になった。いよいよだ。彼は言論の自由がありながらその自由を放棄している社会に対して疑問を呈すべく、「反論してこい!」という過激な発言を始めたのではないだろうか。

 

しかし、彼の目論見は今の所はずれた。なぜなら、攻撃されているのだから、言論の自由どころか、反論する権利もあるのに、「事実無根で誠に遺憾」「発言を非難する」レベルで議論にならなかったからだ。議論にならなければ、言論の自由の雰囲気が拡大する事はない。ネットでも百田尚樹氏に対する人間性の全否定発言も見受けられ、多様な意見や問題提起に対して、議論をしようという雰囲気は見られない。

 

あくまでも勝手な想像なのだが、今回の事案で何が事実なのか、と発言内容を追求するジャーナリズムが動く事がないのに、「報道に対する圧力だ」とだけ主張する事がおかしい事であるのを何とも思わない日本社会の怖さを感じて、ゾッとしたのだった。