底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

映画「私に会うまでの1600キロ」

原題「WILD」の映画。今の私にぴったりなのでは?と思って見た。結論からいうと素晴らしかった。

なんの感動も無ければ、教訓も無ければ、変な事件も無い。不幸度合いだって、人それぞれ、という中で自叙伝が原作なだけあって、主人公は比較的に考えるとそこまで不幸のどん底、という感じでもない。ある意味等身大の主人公。ありふれた不幸の常人、とも言える。しかも主人公は女性だからこそ、危険な事もあれば恵まれている事もあるのだ。映画ではそういった事もしっかり描かれている。

この映画では「歩き続ける事。しかもしっかり考えて」というのが大事なのだと思う。トレッキング自体はレジャーでもあるので、誰もが命をかけてやるようなモノではない。ただ、立ち止まって自堕落な生活、変わらない生活を送っていても人生は過ぎていく。今までの自分とは違う事をしたって正直何かが変わるわけではない。原作者もこの自叙伝を書き終えるまでには旅後10年を費やしたという。心の傷を癒やすのは行動ではなく時間なのかもしれない。それでも、だ。一見無駄な事。終えてもやっぱり無駄だった事。そういった事であっても前に進み続け、しかも考えながらであればそれは経験としてやはり血と肉になり、変化の無い環境にいる人間よりもやはり違うのだろうという事は自分も信じたい。

というのも私も、辛い時、どん底の時はそれを上回るどん底になれば何か見えるかも、と思っていた。そして今の生活があるのだが、正直どん底に居るという事にそれはそれで人間は慣れる事が出来るのだ。そうなると、更にどん底に行かなくてはならなくなり、それは自殺を選ぶか、犯罪を選ぶか、という選択肢ぐらいしか浮かばなくなるのだ。

つまり、留まる、ということはその環境に適応する、という事だ。上回るどん底を選ぶのであれば、どん底を進み続ける選択肢を探さないと考える必要が無くなってしまうという事になるのではないだろうか。

 

私はいつの間にただ生きる事、死なない事、それは自分を守る事。その事に執着し、進歩を諦めてしまっていたのではないだろうか。もちろん、ただ生きる事だって物凄い努力がいる事であり、辛い事である事は体験し、十分理解している。しかし、それでも進まないとそれに慣れてしまうのではないだろうか。厭世的である事で視野が狭くなっているのではないだろうか。

 

ただ生きる事の辛さは十分わかった。孤独も孤立も知った。その上で進む為に何か無駄な事をする。そんな事も大事なのかもしれない。ダメなら死ねばいいのだ。生きている価値も無ければ理由も無い。そう考えるとぐっと新しい事をしようとする気になるのが不思議だ。人間本来、死に抗うように出来ているのもしれない。

 

そんな事を考えさせれた映画だった。

それにしても、日本だと私も経験した、アル中になって記憶障害になるのが通常のどん底だが、アメリカの場合は麻薬があるのがちょっとうらやましいと思ってしまうのがダメなところだ。