底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

安保法案が成立しましたね

共産党の小池氏がすっぱ抜いた文書で、去年の選挙後からのアメリカとの密約が暴露されましたね。これでかねてよりツイで言っていた、安保法案とは、要する軍事関係で親分のアメリカとの人、モノ、金のやり取りが抜本的に変わるというだけの話である事が証明されたわけです。

こんな事はそもそもの自衛隊の成り立ちの歴史、現在の自衛隊の予算や訓練方法を知れば(私は知り合いがいるので)容易に想像つく事です。しかし、そんな事は今回の安保法案では論点になりませんでした。反対するジャーナリスト達や著名人もこんな事は私が気づくぐらいですから、とうの昔にわかっているのですが、密書が出るまでは言えるわけはないですし、出たからと言っても争点にはしないでしょう。なぜなら、多くの庶民は根本的にそういう事を理解していないし、理解しようともしないからです。

これは会社組織でいえば、平社員が事業部長の見ている世界をその立場にならないと理解できないのと同じです。自らの時間と金を情報収集や考察、教養の拡充に長年あててきた人達の見方など多くの庶民が理解できるわけないのです。

なので、わかりやすく、「戦争法案」などとアウトプットするわけです。賛成派の中には「中国が攻めて来たらどうする!」という人もいますが、現状の個別的自衛権や特措法で対応出来る事は考えず、なおかつ彼らの言う軍事力強化による抑止力の必要性が本当に善なのであれば、憲法を改正し、自衛隊を軍隊にして軍法を設けた方がよほど効率よく軍備増強できるし、真の意味で自衛隊員を守れる。安保法案を日本の独立、的に叫び近隣の脅威に対する対抗と言っている人こそ、むしろ今の進め方に意義をとなえてもよかったわけです。

なぜ自民党がこんなに急がなければならなかったのか。それがすべて小池氏のすっぱ抜いた密約でやっと証明されましたね。私が以前からツイで同じような事をつぶやいていてもリプもフォバも無いのも当たり前。そんな世界があるなんて、見ている視点が違うと想像も出来ないからです。

 

私は先日、ジャーナリストの堀潤氏がファシリテーターを務める、学生主導の安保法案勉強会に参加してきました。100人ちょっとの参加者がいました。その中で、堀潤氏が「日米関係を強化すべき、と考えている人はどれだけいますか」という質問があって、私を含めて2人しかいませんでした。

ここがポイントなのです。多くのジャーナリスト、著名人は密書という証拠が無くても日米のビジネス的やり取りがあるから、安保法案というモノが必要であり、それには期限があるのだな、という事を経験と体感でわかっているのです。では、なぜそれでも安保法案に反対、もしくは懐疑的な疑問を投げかけるのでしょうか。

私は彼らは、戦後のアメリカとの親分子分の関係を、この法案を期に、日本が主権を取り戻すきっかけにしたいのでは、と思っているのです。この法案について幅広く勉強を続けていけば、誰しも日米関係にたどり着くのです。つまり、しっかし勉強する大衆でも見識が知識人達と同等になる可能性を秘めているのです。その時になって、初めて日本は未だ敗戦国であることを認識し、日米関係について考える事ができるのです。

 

では、私はその部分に気付いていても、なぜ日米関係強化すべき、とう事に挙手したか。それは私自身が見ている今の日本社会での日本人をまったく信用していないからです。既得権益と私利私欲にまみれた日本の権力層に、今はアメリカという親分がいるからこれで済んでいる、と思っているからです。もし、親分がいなくなったら。タガが外れた権力層はどこまで利権の拡大をするでしょうか。今の中国ぐらい貧富の差が出る事が容易に想像できます。そして、それを支えるのが民主主義を理解せず、社会の事を考えようともしない大衆。中国が一党独裁と言われるが、日本が戦後自民党一党独裁であることに疑問を持たないこの民衆が独裁政治の元、酷い社会にならない歯止めが唯一、アメリカである、と私は思っているのです。それほど私は戦後の歴史を勉強すればするほど、自分の事だけを考え、日本の国土、日本人を搾取し、現在権力層にいる人達とそれを支える確固たる基盤に愕然とし、そして彼らに搾取されながらも支え続ける社会に無関心な民衆の存在に絶望を覚えてきました。

 

多くの大人達が当たり前のようにネットで「ウザい、キモい、死ね」等の事を同じ人間に吐くことを何とも思わないような社会では、私は戦争法案であろうが無かろうが関係ないと思うのです。レイシストであることを公言する事も別に非難されないという、国際的に先進国とは言えない社会レベルの日本。

今回の安保法案について、ジャーナリストや著名人程の経験と勉強を大衆に求めるのはそれはそれで違うとは思います。そうではなくて、社会を考える事の第一歩は、隣人も自分と同じ人間であり、その多様性を尊重して、見下しや蔑みを公言する事を止める。それだけでいいと思うのです。それが一般的になり、隣人がいずれ隣国、世界へと拡大していけば、自ずと難民を多く受け入れる国になるし、大衆も社会を考えて選挙に行くようなる。その時になって初めて

「あれ?日本って戦後からずっとアメリカの子分じゃね?そろそろ主権ほしくね?」

という準備ができるのだと思っています。

 

私が生きている間は難しいと考えていますが。

 

平和は憲法9条とか法案で決まる事ではなく、それらを運用にする人間しだいであり、デモや勉強会に参加してみても常日頃社会が良く会って欲しい、自分は社会にとってよくある人間でありたい、として責任を持って生きている人間がどうも少ないのでは?と感じていて(もちろん、賛成派の罵詈雑言はもってのほか)、それでも、これを期に、そういった社会に対する責任感じる大人達が増える事を願うばかりです。