底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ギャップに惹かれる、という風潮

日常会話では特に男女間で使われる事が多い、この風潮。例えば、普段冷たい人がちょっと優しくすると物凄くいい人に見えたり。見た目不真面目そうな人の真面目な面が見えたりするとこれまたいい人に見えたり。一時テレビで大量に流れていた、過去悪だった背景のタレント達も同じようなギャップを突くマーケティングだ。

ざっくりまとめると、態度、外見が思っていたよりも逆、という事がギャップとなる。それが良いほうのギャップであれば好意的に働き、逆に悪い方であれば負のギャップとなり、むしろ損な方に働く。私はこうした、人間に対してギャップで判断出来る人が羨ましい。人間を点で簡単に判断し、そしてギャップというまた点でその判断を覆すという、単純さを持っているからだ。他人に対してこうした判断をする人は自分もそうした判断をされる事を望む、というよりもそうした価値観であり、例えば外見ギャップ萌えをする女性の場合、自分の外見を「◯◯と見られたいからこういう外見にしている」という相対的判断の元に繕う事が多い。つまり、自分も点で社会との接点を持ち、その点を磨く事によって自意識を高める事が出来るのだ。

 

以前、そこそこ業界では名が知れた社長が「何のバリューも無い中年男性と結婚している日本の女性達」というエントリーに同じような経営者、有名企業の役員達が「イイね」していた。これはこの層の人達が、人の価値を年収や外見のスマートさ、頭の良さ等の条件などの点で判断している為、それらを備えていないファットな中年男性は「なんのバリューもない」という事になる。そして、多分、こうしたうだつの上がらない男性と結婚していう女性からすれば、「彼は外見もその他もたいしたこと無いが、人一倍優しい」等の、勝手なギャップがあり、それによってその人価値は上がっているのだろう。両者とも個人の生き方、価値観であり、どちらも正しい。

 

私が羨ましいのはそのように人を点で見ることが出来ない事で、他人を好きになることもないし、嫌いになる事もないし、なのでギャップも生じない、という事だ。人はすべて面で分析する対象であり、いい人、悪い人などは原則存在せず、その混合物としてしか人を見る事が出来ない。その中で私との接点でどのような態度になるか、は私がその他人にとってどれだけバリューがあるか、によって決まる部分が多分にあるし、それが悪かったとしても、それはその人の一部でしかない。よくても同じだ。なので小中学生の時から誰からも評判がいい熱血教師なども私からすれば、わざと人前で目を惹くパフォーマンスをする教師であり、結果を出す為には必要のない言動で子供達(自分も子供だったはずだが)を騙す大人、としか映らなかった。そうした教師が淫行で捕まっても「あの人が!」なんて思わなかった。私からすれば当たり前だ。だって、同じ人間だから。

外見が超美人な人と仕事をしたり、部下についてもまったく態度がかわる事もなかった。周囲の男性、特に年配の人などは浮足立つのはよくわかった。しかし、私からすれば仕事の結果のみが大事であり、人並み以上に綺麗という事はその事によって周りが必要以上にサポートする可能性によるタスク管理の方が重要になるぐらいであった。

そうだ、だから私は一目惚れも無い。外見で人を好きになることもない。AKBグループは好きであるが、DDであり、だれが好き、という事もない。ただ、人よりも頑張っている子はそれなりに応援する、というだけ。

 

ギャップに惹かれる人が本当に羨ましい。他人も点だけで判断出来、自分も点だけを磨けばいいわけだ。私のような人間は面で人見る反面、自分も面で判断しつてしまう事になる。人間であるかぎり、100%完璧という事はあり得ない。だから点の判断で本来十分であり、ギャップ萌えの感情こそが自分を癒やす事にもなるのだ。しかし、私のような人間の場合は常に完璧でなければならない。しかし、それは絶対に無理。面で自分を見るという事は常にいい部分も悪い部分も同列視する事であり、他人にとっては公平であるかもしれないが、自分自身にとっては非常に厳しい監督官になってしまう。

 

もちろん、人を点(条件)だけで判断する事が行き過ぎている部分も現代ではあるので、男女の場合、その好意点が無くなった場合、すぐ別れる、という現象があるのは残念な事ではある。しかしそれは正常であるとも言える。完璧ではない人間が身につけた処世術とも言える。精神的な向上、つながり。そうした理想論などはこれだけ情報と娯楽が溢れた社会では二の次であっても問題無い。

 

そんな事を考えながら、特に最近このギャップを利用したコンテンツが増えたなぁ、とテレビを見ていた。