底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ウィンカーを出さない車への指摘がネットでも遂に湧き上がってきたが。

主題は格差が広がっている現実を数字でなく人間性で理解する、というお話。

 

私は大学時代から同じ街で暮らしているので、人々(社会)の変化の観察が出来るというメリットがある。大体私が気付いてツイしてから2年後くらいに、そういった行動が一般的に認知さるようになるのが通例だ。そういう意味で老人が車の往来を無視して車道を渡る事や、自転車の暴走等が流行る(一般的になる)事をいち早く予感出来る。そんな中、ウィンカーを出さないで曲がる車が徐々に増えつつあるのを数年前から指摘していたが、遂に昨日、それを指摘するツイ画像がRTされていた。一般的になったのだ。

 

こうなってはもう元に戻らない。社会が変わったのだから。ウィンカーは元々他人に知らせる為のモノだ。私はバイクにも乗るし自転車でも同じなのだが、常に車の行動を先読みして行動している。そうでないと車道では自分が死ぬ可能性の方が高いからだ。しかしのこのウィンカーを出さない車のせいで何度か死にかけた。バイクが巻き込まれた事もある。

 

車を運転する人達が他人を気にしなくなる。恐ろしい時代になった。しかし、ここで問題なのがなぜそんな社会になったか、という事。ここに格差の問題がある。

 

格差には金銭的格差と教養的格差がある。前者は所謂一般的に使われている格差である。そして後者は金は一般レベル、もしくはそれ以上にあるが、教養が無い人達。例えば単純に先祖からの土地が都内の一等地で地主だけの金で暮らしていたり、小規模会社、もうしくは商店経営兼賃貸主等、金はあるが付き合う人達が少ない(生活社会が狭い)人達の事だ。以前書いたか覚えていないが、人は生きているだけで反社会的である行動、思想が必ずある。それが大体1割を超えてくると犯罪者になりやすいのだが、問題はこの1割の中身。以前も指摘した事かもしれないのだが、教養のある人達のそれは1割を構成するアクションが物凄くわかりずらくなっている。しかし、その小さなアクションによって時には数百~数千人が不具合を生じる事もある。これが教養が無い人達の場合、過ごしている10割の生活圏が小さい為、悪意の1割のアクションが見た目でもわかるほど大きくなる。例えば、禁止区域で平気でタバコを吸う人達などがまさにそうだ。これが教養がある人達は隠れて吸ったり、人前では吸わなかったりする。

 

つまり、これだけウィンカーを出さない車が増えている、という事はそれだけ教養の無い人達が増えている、という事に他ならないと思うのだ。つまり、格差が広がっている事の証明なのだ。本来、車は都内では(地方は別)そこそこ教養のあるブルジョワのモノだった。この層が一気に一段下層に落ちた事により、表出する悪意の部分が車の操作にも影響を及ぼしてしまっているのだ。

 

こういった事は今後車の操作以外にも増々増えるだろう。昔なら一般的な家庭がしなかった事で、今一般的になる悪意ある事。犬、車、自転車、ゴミ、騒音等。昔なら近所で変わり者扱いされる人がするような事を今ではごく一般的に目にする事が出来る。マスメディアでは格差を金銭的問題とだけ捉えて報道するから、餓死する程じゃない大衆にはちっとも当事者意識が芽生えず、政治に無関心になって戦後の独裁政権である自民党のやりたい放題に目をそむけているが、海外の先進国の場合、貧困問題とはイコール、社会の悪化を指す事として、有権者が議論し考え、子供にもそうした教育をしている国は多い。格差=貧困問題=社会の悪化、という想像力さえも無くなった日本の大衆にとっては、いつまでも「ミンス」「中国が・・・」とゲーム脳のままで今まさに進行している問題に気づくこともなく、政治に無関心でいられるのだ。で、「保育園が足りない」「厳罰化」とか自分にとって都合の悪い事案の対処ばかり求め、社会全体の変化の責任者である事を放棄してしまっている。

 

それが私が予期してから数年後に起きる社会(悪意行動)の変化であり、それらは増え続けている。ま、そういった事に気づく人達はヒエラルキーの上層で社会を操作する側だから影響は受けないし、影響を受ける層は無責任な加害者兼当事者だから止めようが無いのが歯がゆい。