底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

「主人」や「嫁」という言葉は賞味期限 川上未映子さんの話しによくある日本人的反論

フェミニストと公言している川上未映子の表題の件について、よくある日本人的反論として

・そうした言葉は言葉通りに使っているわけじゃなくて記号程度なのに何を言っているのか

・嫌なら使うな

というのがある。なるほど、これが2016年男女平等ランキングで111位の国の国民の発想というものだ。

「主人」「嫁」というのはあくまでも「点」の話しであり、彼女が言っているのは男性と女性のロールわけが暗黙の了解でされている日本社会の現実、そこのバイアスからの開放の話しをしているわけだ。その事を論じると果てしない文章量になるし、それなりのエビデンスのデータも必要になる。そうではなく、議論の一石を投じる形での象徴としてこの「主人」という言葉が引き合いに出されたにすぎない。この発言で本来考えないとならないのは何がそうさせているか、という現実の直視だ。男女が平等にならないバイアスを本当から皆開放されているだろうか。例えば、

・CMで食卓に夫子供、母親が料理を持ってくるシーンの多さ

プレミアムフライデーのニュースで「早く帰ってくる夫について」という街頭インタビュー

・アンカーが男性でそれを囲むように若いスタイルのいい女性群で作られている情報番組

・老人のコメンテーター達が爺さんばかり

これらを述べる時にフェミニストが一つ一つ「点」で議論する必要はない。表現の件と同じ、あくまでも規制事実としての話。しかし、反論者はまた同じくこの「点」について突っ込んでくるだろう。

 

日本人は自分たちが作り出している「圧力的空気感」に意外と無頓着な人が多い。政治家が「それは秘書が勝手にやった事」と逃げる事があるが、これの社会版と考えるとわかりやすいかもしれない。確かに、政治家は具体的に秘書にヤバイ指示の証拠など残さない。しかし、

(これが解決すれば私は助かるのになぁ。それに貢献した人は第一秘書として次の選挙で公認立候補として考えてもいいのになぁ。いや、結果が出たら確約しよう)

という空気を醸し出す。頭のいい人ならその「空気」を呼んで行動する。それが公職選挙法違法スレスレであろうとも。これと同じような空気感で男女の性差による差別が生じているのが今の日本社会。

 

昔、男女平等に近い評価のあるリクルートで働いていた人でそうした発想がある人だと思っていた上司が「でもやっぱりお茶は女性が煎れたほうがおいしい」と会社で女性にお茶出しをさせていた時はびっくりした。それ以外の多くは比較的平等的扱いが多い人だったのに。つまりそういう事だ。「主人」という言葉の「点」の話しではない。ありとあらゆる場面で性差を差別せずに考えている、信念を持って日本社会のバイアスにはとらわれていない、と断言出来る人だけがフェミニストの人達としっかり議論が出来るのだ。先に述べた通り、日本社会では性差別が当たり前のようになされている。先に紹介したCMなどの例を他の先進国で流したら「女性蔑視だ」と不買運動が起きてもおかしくない。「おかあさんの愛情です」なんてCM流したら大変な事になる。視野の狭い日本人の多くは「いやいや、母親の愛情ってあるでしょ?それを感じる人をターゲットにしたCMなんだからいいんじゃん?嫌なら買わなきゃいいんだから」と言うだろう。そういう軸の議論じゃない事が理解出来ていない。

 

社会をしっかり考えて理想的な社会を考える人達と「それは個人の捉え方でしょ?」と人間の行動思考バイアス、他への影響、相対的自己価値などの認知行動、社会学などを一切無視してなぜか社会に存在する人間をそこだけスタンドアロンのPCのように言う大人を気取る人達。ここの間はなかなか埋まりそうにない。