底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

平井堅のアナザースカイ。始めたこの番組で泣いた話

感涙だった。

彼がここまで苦しんでいたのか、とか。その純粋さ、とか。

ただ、ここでふっと思った。私は彼のような気持ちに自分をただミラーリングさせて自分の事のように感じて涙が出ているのだろうか。

確かに、理性的になると幾分そうした都合のいい感じもある。しかし、リアルタイムでただボーっと見ていた時の瞬間の感動は自分が経験した事がない事なのに感動した部分だ。

 

これは何度か行っているが、年齢を重ねると涙が出やすいなる、という事につながる話で、自分が経験した事が無い事でも感じる事ができる力、とも言える。それは何度か話してきた。今日はそれをもっと別の角度でわかりやすく説明できないかな、と思った。

 

自分の心の中に円卓がある事をイメージしていみた。そこに色々な自分が座っている。子供の自分。母親な自分。父親な自分。イケイケな自分。自分が考える政治家的自分。etc・・・。その人数が多いほど、円卓のサイズは大きくなる。そこでは日々、喧々諤々の議論が行われている。時には子供が勝ち、表現として子供っぽい言動をしてしまうこともあるだろう。時には母親父親が手を取り合って家族思いの大人として顔を見せる事も。そうした複数がコンバインして出現する事も。その自分の中にもっている人格というか、経験の積み重ね、休養というか。その円卓の大きさがいわゆる共感力の大きさ、というのはどうだろうか。そしてその円卓の中心こそが中々変える事の出来ない自分の本能というか性質。つまり、円卓に座る人物はいくらでも増やしていける、という事。

 

それによって美術や小説。いちいち自分と照らし合わせる事無しに感動ができるようになる。平井堅のような人物の話も一人間の話として照らし合わせて感動する事ができるようになる。

 

なぜ円卓で人物を増やしていく、という表現が適切か、という事だが、それは嫌な自分、過去のトラウマ等によって出来た自分の性格などがキレイさっぱり自分の中から消える事が無いからだ。何かの決定事項や一歩を踏み出す勇気。そうした事にいつも顔を出し自分の足をひっぱる。その度にダメさ加減に辟易する事もあるだろう。しかし、考え方を円卓にしてみたら。自分のそうした部分はずっと座っているのだ。だから排除するのではなく、皆で一緒にやっていく。その子を説得できるぐらいの議論が自分の中で出来ればいいのだ。

 

なんとか消そう、変えようとするから上手くいかない。一緒に手を繋いでやっていく。なぜならそれも自分だから。

 

そうした自己肯定から生まれるのが共感力なのではないだろうか。ある程度教養のある人が年齢を重ねたら涙が出やすい、というのは加齢を認めるという自己肯定(諦め?)がスタートかもしれない。

 

そう考えるとイキっている中年の男女って共感力無くて自分勝手な人、多い気がしてきた。これは偏見だね。