底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

先生!、、、好きになってもいいですか?

という映画がある。広瀬すず生田斗真のダブル主演で教師と生徒の純粋な恋愛を描くという。

 

この国は社会レベルで先進国ではない、とこういった映画がつくられる度に思う。日本では毎年200人以上の教師がワイセツ事件で懲戒処分になっている。その多くが生徒が対象になっている。つまり、教師と生徒という関係は立派な犯罪行為であり、毎年処罰される教師の数をみても、実際はこれを遥かに上回る数の行為があり、多くの青少年が性の対象として扱われ、心に瑕を追っている事実、つまり児童虐待事件、児童ポルノ事件について日本社会はどう向かっていくか、が試される時代なのだ。

 

すべての教師と生徒の関係が不純なものである、と断定する事は出来ない。しかし事実、これほどの数の生徒が毎年犠牲になっている中、数少ない事例を若者に影響のあるタレントを使ってキレイに見せる映画を作る意味があるのだろうか。

正直、この事例は電車内で自分に痴漢をしてきた人と恋に落ちる、とほぼ同じレベルの内容であるのだ。

 

確かに教師は出会いが少ない。しかも大卒だと相手が高校生であれば年齢差もそんなにない。であれば生徒に手を出していいのだろうか。

逆を考えてみれば生徒からすれば教師は数少ない身近の大人であり、どんな男性でもモテる、とも言える。大人への憧れがプラスされるからだ。そういった精神的未成熟だからこそ、未成年なのだ。

 

私は実際に教師にヤラれてしまった女性を何人か知っている。言い寄られた人も数多くしっている。ヤラれてしまった子達はその事を語る時、一時の恋愛のように語るが、その実、自分が女子高生だから狙われ、卒業と共に相手の教師は別の生徒に行く、というのを知っている。つまり、自身のアイデンティティーが確立される前に自分の価値は身体である、という事実が始まってしまったのだ。

このトラウマはしばらく続く。人はまず自身の人間性を認めてもらう事から恋愛が始まり、そして肉体関係に落ちる。その順番が前後してしまった事で、自身の肉体の価値=自身の価値になってしまい、性行為に対するハードルが著しく下がってしまう。一見ヤリマン的に見えてしまうかもしれないが、本人はその気はない。通常は歳を重ねるにつれ、良い男性に出会い、自身の価値を認める事が出来て収束する。しかし、中にはずっと奔放な性生活が終わらない人もいる。性に対する倫理観が低い=良い人に出会う可能性が低く、ただ遊ばれて終わる、を繰り返す=益々自分自身の価値が身体だけになる、という悪循環に陥る。

 

問題はこういった事を教師になる人は児童心理で学んでいる、という事だ。その時点で「女から誘ったんだし、お互い一時いい思いしたんだからいいだろう?」という無知無責任なネット住人達とは大きく違う。1人の未成年者の人生を大きく変える可能性があり、しかも条例により多くが児童虐待の対象ともなる行為を、ただ、

「その時はほんとうに好きだったから」

で手を出す事などできるだろうか。その後わかれる可能性がある時点で結婚よりも荷が思い行為である事を認識している教師が、である。

 

そういった事がわかっていながら手を出す教師が毎年わかっているだけでも200人以上。これを社会問題化して社会で考えないとならないのは、子どもたちの未来を守る大人として当たり前の事だ。

 

なのに、だ。なぜそういった行為を美化して未成熟な未成年者がそうした行為へのハードルを下げるようなプロパガンダ的映画を作る必要があるのだろうか。

答えは簡単。権力のある大人達が未成年者とセックスがしたいからだ。そして今それが実現できており、その雰囲気を変えたくないからだ。子供達の性の対象とするロリコンジャパンの実態がここにある。

 

こんな映画に出資する会社も問題だ。庶民が目を光らせて子供を守る社会を実現する為にしっかり考える。教育する。そうしないとこうした状況は変わらない。

精神的にも先進国になるべきなのだ。