底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

先生と生徒の恋愛モノがなぜ日本で問題にならないのか、その根深い社会問題

やっとその根深さの原因がうっすらとわかってきた。それは日本に根深くある、

「年齢差別」が原因なのだ。

 

ここでおさらい。なぜ未成年の学生(主に女子)と先生の恋愛が問題なのか。

法律的。淫行。しかし、真剣交際ならOKというバカな判例があった。まずここだ。

そもそも未成年には色々な成人と違う制限がある。なぜなら、自分で責任を取れない、また多角的な判断を出来る経験が少ない、など、未成年としての理由があるからだ。

そんな中、中学、高校は閉鎖された世界であり、触れ合うのはクラスの生徒と教師だけだ。バイトをしている人はその限りではないが、中学生では始めて多くの時間接する大人が教師という人が大半だろう。多くの大人みて比較分析をするも何も、その選択肢も少なく、分析できる程の知識、人生経験が無い。しかし、小学生から中学生になると、途端に自分が大人になったようなきがするもんだ。いわゆる、思春期だ。この時期は情報への渇望感が半端ない。ネットや雑誌、友達や先輩の異性交友話等を興味深々に聞いたりする。そしてその次には欠乏が起きる。思春期独特の衝動の受け皿が無いのだ。男女とも自慰行為に熱心になる事もある。

そんな中、教師という絶対的に近づける立場の人間がアプローチするのだ。選択肢が無いのだから、大半の子は落ちる。元々未成年で視野が狭いのに、思春期の興味と情動がトンネリングを生んでその教師しか見えなくなる。そして、教師はそのことを児童学で学んでいるので知っていて利用する。

この、恋愛におけるトンネリングは実は成人にも起きる。同じ会社内の上司と付き合った時。会社内では頼れるし、相談に乗ってくれるし。だからこその恋愛だったはずなのだが、いざ結婚してみるとただのおっさんで、会社で見ていたかっこい上司の姿とはほど遠い。よく見るとだらしない中年だ。しかし、これは本人が自分の目にフィルターがかかっていた事をちゃんとその後自覚しているし、それを選んだのも自分だから自己責任である、という事もわかっている。なぜなら大人だからだ。

問題は子供、未成年の学生にその自己責任を課す事がいかがなものか、という事だ。会社の上司よりも精神的にも中にはいる事が出来る教師という立場を利用した人間との恋愛に本当に妥当性があるのだろうか。むしろ、判断力がない未成年だからこそ、守る事が社会で必要であり、その為の教師である事をなぜ日本社会は追求せず、教師と生徒との恋愛映画ばかり作るのだろうか?諸外先進国なら児童虐待で重大犯罪だ。

ここに、映画での教師役にヒントがある。イケメンの20代俳優である事が多いのだ。以前に、教師を目指している大学生にこの問題を言った時に

「高校生なら16,7歳でしょ?俺が卒業したら23歳。6歳差のカップルって普通じゃないですか?」

と言っていてたまげた事を思い出した。今までの文章の中で、私は教師と未成年の生徒、としか言っていない。つまり、教師という立場が問題だ、と言っているのに、現場の学生は年齢を言ったのだ。ここに日本社会の闇を見たのだ。

 

教師という職業の大切さ、道徳よりも、教師を単なる身近な若い、優しいイケメンの異性とだけ捉え、そのモラルハザードに目を向けようとしていないのだ。

 

これは日本がすべてにおいて年齢差別が存在している事が根本的原因だ。

例えば、映画の相手役が中年のおっさん、しかも決して外見がイケメンじゃない場合はどうだろうか。実際はそうした見た目の教師が毎年女生徒に手を出している例を私はいくらでも知っている。それが現実だ。それだと反対、という事になるだろう。いきなり、教師という問題を出してくるだろう。

あらゆる所にこの「年齢」という差別が日本にはびこり、物事の本質である重要な事から目を背ける、見ないようにしている。モラルや機会、人間性。あらゆる所で人々の判断基準になってしまっている。

 

教師と生徒の恋愛に若いイケメン教師ももちろん、いるかもしれない。その点だけを見て、本来守られるべき生徒に純愛的バイアスをかける必要が本当にあるのか。大人たちはしっかり考えるべきだ。

 

我々しか子供を守る事はできないのだから。