底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ふともも写真の世界展 はアートなのか?表現の自由なのか?

人間の肉体の美についての写真について、それがポルノか芸術か、と言われたのはロバート・メイプルソープが記憶に新しい。彼は男性も女性も関係無く、性器も撮影の対象とした。私は彼の写真は芸術として美しいと思った。

そして今回のふともも展。朝点けっぱなしにしてたテレビ(モーニングCROSS)で丁度その話題をしていた。コメンテーターの見知らぬおっさんが「表現の自由」の話をしていた。展示会は有料なんだから見たい人だけが見ればいいのに、こんな事で中止するなんて、アートが無くなってしまう、とも。司会の堀潤氏が「いや、でも、未成年(と思われる雰囲気)を性の対象とする問題も・・・」と話を戻そうとしていたが、全然戻らない。結局コメンテーター達はふともも展をアート(芸術)であり、表現の自由だというのだ。

 

もともも展が文字通りであれば何の問題もない。ロバート・メイプルソープと同じだ。肉体の筋肉の7割は下半身だ。その中で最大の太もも。子供からご老人。車椅子の人だったり、車椅子でもパラリンピックの選手とかの太ももとかはまた違うのかもしれない。機能としての太もも。そこにフューチャーした写真展だと多いに興味がある。しかし、今回のは「ふともも」なのだ。

 

若い女性のすべすべした太もものみ、の写真なのだ。これのどこがアートだというのだろうか。これはアートではなく、フェチ、というのだ。つまり、性癖。性欲の対象物としてのふとももだ。例えば、「お前はまだグンマを知らない」という映画がある。この主人公は机の下に文房具を落とした時に周りの女子の足に欲情した。この行為がどうのこうではなく、映画に使われるぐらい、若い女性の生足というのは欲情を誘うものなのだ、という事だ。これが100歩譲って、若い女性ではあるが、色々な足、という逃げ道もあった。しかし、実際は程よい肉付きの一番所謂そそる足ばかりだ。このフェチ道をアート(芸術)と呼ぶのは芸術の世界をバカにしている。

 

そして表現の自由は社会規範に違反しない事が前提として考えるべきだ。反国家的だとダメ、という意味ではない。最低限、未成年は守るべきだ、と言っているのだ。若い女性のふとももを愛でる性癖(フェチ)を社会的に肯定してしまうと、実際の女子高生がJKリフレ等でふとももを見せて金を稼ぐ事を肯定する事にもつながる。その先の売春行為(肉体的接触)のみを問題にする人がいるが、未成年にとって、自らの精神性(アイデンティティー)の前に肉体(性欲)で評価される事による心のダメージは図りきれない。成人しても心と体の一致が出来ずに奔放な性生活を送る人も少なくない。フェチを否定する気はない。性癖は変わらないからアンダーグラウンドでやればいい。その商売の自由はある。しかし、それを丸井という日向でやる、という事は若い女性に「体を売りにしていいんだよ」と社会が言っている事と同じだ。

 

以上の点から、ふともも写真展は個人的には嬉しいが、それはアートでも表現の自由でもなく、たんなるフェチ、性癖の点であり、だからこそ表舞台でやる事ではなく、エロ本のごとく、アマゾン等でひっそり通販していればいいだけの話なのだ。

つまりこの点からコメンテーターという存在がいかに偏った存在であり、だからこそマスメディアには必要ない、という毎回言っている結論にもつながるのだ。信念や社会の一員感が無い人にとってテレビに出ている人の意見=自分の意見の後押しになる事が多いからだ。考える力が無いからコメンテーターが欲しいのだから。

 

しばらく見ないうちにテレビは恐ろしい箱になっている。視聴率の低下によってそれに毒される人が少ないのがせめてもの救いか。