底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

上沼恵美子への暴言事件

該当の動画は見た。松本人志の「上沼恵美子がどれだけすごい人かわかっていない。相手がいない所で悪口を言うのは違う。(自分自身の過去の反抗)は面と向かって本人に言っていた。また、酔って言うのも違う」(要約)もオンタイムで見た。本人が謝罪する、という自体になり、ネットニュースの素人ライターもとろサーモン久保田とスーパーマラドーナ武智を叩く記事を書くようになっている。

私はお笑い好きだが、録画して見るようにしている。なぜならCMを見たく無いし、審査員の評価コメントも聞きたくないからだ。自分が面白いかどうか。それだけでいいので純粋に漫才シーンだけを続けて見ている。それでもちょっと家事等をする時には早送りしていないので、上沼恵美子の「嫌い、好き」というコメントを聞いたいた。

正直、当事者でもないし、審査点などどうでもいいと思っているので面白ければいいと思っているので彼女や審査員に何も期待などしていない。ただ、当事者にとってはとろサーモン久保田が言うように1点で人生が変わる、という気持ちがあるのであろう。それを酔った場で生配信して、審査員の悪口を言う事に何が悪いのかイマイチわからないのだ。

というのも、上沼恵美子とろサーモン久保田、スーパーマラドーナ武智とは業界内でのレベルの差が雲泥の差だからだ。日産の平社員がカルロス・ゴーンの悪口を生配信するのと対して変わらない。審査員とは本来相手の人生を担うぐらいの重さがあり、だからこそ、そのジャッジには責任がある。審査される側から文句を言われても、それをはねのける信念も必要だし、審査される側から「おかしい、不公平だ!」と自由に声が上がる事によって、また審査員も襟を正すし、審査方法が進化する事もある。審査される側が一方的に従わなければならない、というのは日本の権威社会主義の上下関係を押し付ける、パワハラそのものだ。

というのも、M-1で大事なのは、審査員の顔を立てる事でも、敬う事でも無い。面白い漫才をゴールデンタイムで行う機会を得て、売れるチャンスを売れていない芸人に与える事だ。つまり、審査される側が主人公なのだ。確かにダウンタウンは昔は面白かった。しかい、今はちっとも面白くない。そういう人だってたくさんいるはずだ(私もそうだ)。しかし、それをどこでも発信出来ないというのはどうもおかしい。

面と向かっていえない自信の無さ、立場。それがとろサーモン久保田に暴言を吐かせたのであれば、そういった若手の不満を受けて、過去に偉大であり、今でも日本の平均年収を超える収入がある、審査員の立場やシステムを作る立場であれば、「今の人は昔の天才肌とかいう感覚ではなく、分析したり数字化したりする世代。であれば、審査員も感覚派と分析派を視聴者や演者にわかりやすく提示するか。いや、感覚を点数化した方がいいか」など、考えるべきなのだ。それこそが再配分であり、それを出来ないで審査する側=上、される側=下、という序列を設ける為のコンテストなら即刻やめるべきなのだ。

ただ、これは視聴者というか、社会が求めているシステムでもあるのかもしれない。テレビを見ている人などすでに中高年以上ぐらいだろう。未だに年齢、経験=偉い、と勘違いしている世代だ。年齢、経験によっての「今」がすごい人のみが尊敬されているのであって、過去にすごかった、なんて何の評価もされない現実を一番知っているくせに、とろサーモン久保田に肩入れしないのは、自らの立場を客観視出来ていない、としか思えない。これが、いわゆる老害だ。

 

ま、それが日本社会なのであれば私の方が少数派ではあるのだろうが。