底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ピーチジョンのラブポーション発売中止をうけて考える事

「こっそり食べさせる」という広告表示に批判が集まったとの事。その批判の根拠としては最近睡眠薬を飲ませて性的暴行を加える事件が多発しており、そんな中、媚薬的なモノをこっそり入れる、というのは不謹慎だ、というのだ。同社は販売を中止した。

 

こんな玩具のような媚薬になんの効果も期待出来ないだろう。しかし、それが犯罪を想起させるから駄目となると。

ほぼ毎日のように全国ニュースにのる、日本国内で教師による未成年へ対するわいせつ行為による懲戒、逮捕事件。毎年200人以上の教師がそれ関係で何らかの処分を受け、全然減らないどころか、SNSのおかげで更に潜れるようになり、増えているとも言われている未成年への教師のわいせつ行為。

これを問題視していたら、ピーチジョンへの批判を例にすれば、「中学聖日記」や「先生、、、好きになってもいいですか?」などは大批判、炎上してもおかしくないはず。なのに、そうならない。ネットライター達はプロモーションで「純愛!」などと煽る。なぜ?

 

私が学生の時、「Juice」という映画を見て衝撃を受けた。当時流行っていたDJのスクラッチの技にではない。もちろん、それはかっこいいのだが、若い人を中心に人気のあったラッパーの2Pacが劇中、銃を手に入れる事によって悲劇的な最後を終える、というストーリーにだ。日本では若い人に人気の役者が悪事をしても、それがかっこいい、となっていたのに、だ。仲間だけを大事にして世間一般への悪事はワルとしてかっこいい。それが当時の日本だった。そんな中、アメリカは若者へ影響力のある、悪童で売っていたラッパーが銃(暴力)による悲劇を描いていたのだ。私はこの時、「ああ、日本はアメリカには勝てない理由はここにあるのか」と思った。発信する力のあるもの、権力があるものが社会に対する影響もそれなりに考える、という自浄作用というか。その志というか。もちろん、全てではないが、そのアメリカの懐の深さにびっくりしたのだ。その後、2Pacは映画のように、実際銃で死んだのだが。

 

あれから20年以上経って。日本は当時と何か変わったのだろうか。子供を守る環境作りをしなければならない大人達が定期的に人気俳優を使って教師と生徒の恋愛を綺麗に描き、まだ世界を見る力の少ない子供達に事の問題の重要さを曇らせ続ける。こんな子供じみた媚薬の広告に目くじらを立てるほどの倫理観があるのであれば、なぜ教師と生徒の関係を純愛っぽく描く作品にクレームを挙げないのだろう。なぜ犯罪を防ぎたいのでれば、まず子供たちを守ろう、とは思わないのだろうか。ネットなどでは売りを示唆する投稿をする未成年側を責める大人もいてゾッとする。そういった未熟な未成年を問題視したいのであれば、そういう発想をする子供を生んでしまっている社会を構成してしまっている自分たち大人を責めるべきなのに。

 

要は、ラブポーションの広告にクレーム付けるぐらいの倫理観があるなら、目の前に当たり前に広がっている事にも気付いてね、という事。

ま、この非論理的思考、矛盾が人間というものなのかもしれないけど。

 

追記:この投稿の日、雑誌SPAが「やれる女子大ランキング」というクズ記事を作り、上位5校の大学が「著しく生徒の安全を脅かす」「女性蔑視だ」とクレームを上げた。これがまともな対応だ。となると、教師からわいせつ行為で被害を受けるのは更に年端もいかない小中高校生なのだから、マスメディアや既得権益側が教師と生徒の恋愛を綺麗に純愛っぽく描く作品を作ったら、各教育委員会、校長が団結して「教師への教育、統率に問題が生じる」「わいせつ教師から守りたくても生徒側へ間違った認識が受け付けられる」とクレームを毎回入れるべきなのだ。子供を守り、本気でワイセツ教師を減らしたいのであれば。

ただ、今日全国ニュースになった中学生へのわいせつ行為での逮捕は50代の校長だったのだが・・・。

なんだ、これ。