底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

「火付けてこい」明石市長暴言問題 批判一転、擁護論とか、メディアの「報じ方」に課題とか。

表題の通りの意見を目にするようになった。これがとっても不思議。なぜなら全文を見た所で、見解については何も変わる事が無いはずだからだ。これを別の例にするとわかりやすいと思う。

 

ある男性が彼女をボコスカ殴った事でDVで逮捕。しかし、物語には続きがあった!

「お前の為にやってしまったけど、こんな事したくないんだよ?何度も同じ失敗繰り返すし、自分で言った約束破るからさ。俺の親がそういった嘘つきだったから、これから生まれてくる二人の子供為にも、この部分だけはしっかりしたいんだ。俺が毎月貯めている、二人の為の貯金が100万円たまったら、それを資金にして結婚しよう!」

なんて事があっても、世間は許さないだろう。これがDVの手口だ!と騒ぐだろう。今の世論だと、逆に被害者女性も責められるかもしれない。

これは、「暴力」という定義が目に見える肉体的なものだから、何の努力も考える時間も使わずに想像出来る事が大きい。後、他人を責める時の後ろ盾としての絶対正義として、暴力=法律に反している、という単純な理論で話す事が出来るのもある。

 

では、この表題の問題は。まず、発言の酷さと言ったら。大人同士でこんな汚く酷い発言をされる事なんて、ほぼ人生で無いのでは?と思える内容。その精神的苦痛はまさに言葉の暴力。まずここ。相手に言葉の暴力で苦痛を与える事に関して、鈍感な人間が多いのが日本人の特徴。これは教育者や警察等が罰する基準として肉体的暴力を与えた側が一方的に悪い、として楽をしてきた社会の結果。なので、肉体的暴力よりも時には遥かに強力な言葉の暴力について、考える事も軽んじられてきた社会背景がある。なので、まず、言葉の暴力も肉体的暴力と同じである、という認識が必要なのだ。法律的にどうこう(罰則の大きさとか)や、「私だったらこれくらい」じゃないのだ。被害者の気持ちに共感すれば、肉体的苦痛も精神的苦痛も同じ事であるのがわかるはずだ。

ここに、絶対的に立場が上の「上司」という肩書が加わる。これによって上司の暴力=パワハラが成立する。しかも、わざわざ録音を用意するぐらいだから日常的に発言されているのだろう。

 

なので、報道する記者からすれば、全文載せようが載せまいが、結局アウトであり、そのアウトの質からして疑いようも薄まる事も無く、貴重な文字列の中でわかりやすくその部分をピックアップして報じるのはそんなにおかしくない。言葉で仕事をしている人間からすれば当たり前の判断だろう。しかし、全文掲載されたらまさかの擁護論とか、偏向報道批判とか・・・・。

多分、記者達からすれば・・・

「なんでこんなにバカばっかりなの?」

だろうなぁ・・・。

正直、全文を読んだ時の私のリアクションは

「うわ・・・悪質!散々罵詈雑言浴びせた後、いかにも正論を吐いて、相手が悪いように(言われた事は仕方ない、と精神的に追い込んで)して締めくくるなんて。まさにDVと同じ手法だわ。」

です。