底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

イジリといじめの違い

あるイベントでキングコング梶原氏が評論家の宇野常寛氏を縄跳びが飛べない事等でいじった事で宇野氏がキレて現場から帰った事がちょっと前に話題になった。そしで、表題のようなタイトルで論じられる事態となった。まあ、イジリといじめの違いがわらかない人は他人に何を言われてもわからない(理解する気がない)と思うのだが、様々な角度でちょっと考えたのでそれを残しておこうかな、と。

 

・イジリで楽しいと思える人間性かどうか

高視聴率番組「アメトーーク!」で、「運動神経悪い芸人」「踊りたくない芸人」という企画がある。私はまったくこの2つが笑えない所か、付け足される笑い声、抜かれる大笑いしている芸能人の顔に胸糞が悪くなるのだ。芸人とは「芸」を磨いた人達だ。しかし、運動が出来ない、リズム感が悪い、というのは「芸」ではない。本人達が一生懸命やっていて出来ない事を「笑う」という感情がわからないのだ。むしろ、「ファイト!」「頑張って!」と応援する気持ちになる。当たり前に出来るだろう事、という前提において、それ以下の行動をバカにして笑う。このいじめ体質の根性が高視聴率番組なのだから、日本社会がそういった社会である、という事だ。これが道徳的に問題だ、とBPOに乗ることもない。出川哲朗のリアクション芸とは違うのだ。ただ、この番組的(世間的)には「イジリ」によって全国放送に出演出来て有名なる芸人がいるのも事実であり、その事が「本人は売れて嬉しいんだからいいでしょ?」というエクスキューズになる。その事と、この番組を見た子供に限らず大人でも、例えば運動神経が悪いと思って人前で踊る事を拒否する風潮になってしまう社会を生む事の功罪が許されるものではない。そもそも、そういった感性が前提として・・・。

 

・お笑いとしての質が高かったか

お笑いの芸とは観客を笑わせる事だ。宇野常寛氏が怒って帰った時点でお笑いとして成立していない。イジリとかいじめとかの問題ではなく、下手なツッコミであっても同じだ。これは芸人側であるキングコング梶原氏が単純に仕事に失敗しただけだ。これは松本人志が自身の番組「ワイドナショー」内で、NGT48の不祥事に何も出来ない、とうつむく指原莉乃に向かって、「それはお得意の体を使って何とかするとか」と発言したのと同じ。お笑いとして成立していない。松本人志は圧倒的に信者が多いのでこの発言は吊し上げに合う事もなく、むしろ指原莉乃がその後フォローをして、「二人の信頼関係あっての発言」という事で勝手に収まった感があるのだが、アイドルが実際に男性に襲われ、運営がそれに加担をしていたかもしれない事件だ。その事に対してのツッコミとして成立がしていないのだ。指原莉乃も固まっていたし、共演者もさ~っと引いていた。これが指原莉乃がしっかり返答して共演者もツッコんで笑いとなっていれば、お笑いとして成立していたかもしれない。つまり、お笑いの芸として失敗したのだ。これはイジリやいじめとかいう前に、お笑いとしての質をどこまで考える事が出来るか、という見る側の目線も大事なのだ。ファンだからといって甘やかしたり、単純に「いいね!」を押したりする事でどんどんこの「質」が低下するのだ。

 

・社会人として、帰った宇野常寛氏はどうなの?問題

社会人として、とはいったいどういう定義なのだろうか。請け負った仕事は最後までやる。どんな事があっても。それが社会人の定義なのだろうか。私はそうは思わない。社会人とは簡単に言えば自分で責任を負う立場、という事だ。宇野常寛氏はギャラは全額返還、自分目当てで来た客にも返還する、と言っているので、まず金額が発生していない。後は、「本人的に不当な扱いをされて仕事を拒否して帰った」という事実が残るだけだ。これは本人がその責任を負うだけ。今後彼が仕事が増えようが減ろうが、それは彼の問題。彼はその責任を十分理解しているから、持論を展開しているのだ。

これを一般化してみよう。大手企業から下請けがソフト開発を請け負った。しかし、下請けいじめがひどく、それローンチが近づくにつれ、ピークに達し、開発側の人間が精神的に病む人が続出。さて、開発会社の社長が

「契約書上の違約金もすべて払うから、御社とはもう一緒にできません」

と言う事は駄目な事なのだろうか。もちろん、現実的解決は色々あるが、例えとして。日本では「無責任」と言われる事が多いと思う。また、「請け負ったらプロなんだから最後までやれ」とか。なぜ、請ける側だけにすべての責任がいくのだろう。なぜ、金を払う側は「神」ではなく、「悪魔」であってもOKになったのだろうか。金を払う側はクライアントではあるが、下請けが奴隷、という話がなぜ通説になってしまったのだろうか。その階級社会、レントシーカー(利権喰い)が跋扈する日本を甘んじて受け入れているから、宇野常寛氏の行動を「社会人としてどうか」となるのではないだろうか。奴隷扱いに不満をもったり、そういう社会がおかしいと思っているのであれば、真っ先に、「よくぞ帰った、そうだ、イジリといじめは違うよな?」となるはずなのだ。人を奴隷にしている人達、自らの奴隷化を甘んじて受け入れてしまっている人達がこの、「社会人としてどうよ?」という反応になるではないだろうか。

 

と、まあ、思ったわけです。人間が他人を尊重する社会にはまだまだ遠い・・・。