底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

Chim↑Pomの「気合100連発」が話題になってますが

昔の作品だけどね。例の「表現の不自由展・その後」に展示されたもんだから噛み付く人が出たみたい。復興に取り組む若者6人とメンバーで円陣を組んでアドリブで叫んでいく。問題は後半で

被爆最高!」「放射能最高!」

的な叫びがあり、最後は

放射能最高じゃないよ」「ふざけんな!」

で締めくくる。

 

映像作品は映像を使うだけに現代アートが主であり、解釈が難解なモノが多い。なので作品をどう感じるか、というのが大事になる。まったくわからなければそれは自分の人生で培った感性と合わなかったという事。この作品を批判した人に対して津田大介氏はこの作品は

「『原発事故の被害者が、自身の不安を断ち切るための叫び』」

と説明している。

 

ネットで前編を見る事が出来ないのだが、一部を見た感想を言うと。

気合100連発。アドリブでまるで山手線ゲームのようにテンポ良く、間髪入れずに自身の願望や未来の希望、自身の葛藤等を叫ぶのだが、具体的な事は長く続かない。だんだん単純化していく。実際に被災して復興を手伝っている若者もチンポムメンバーもくだらない(失礼!)、単純な内容になっていく。

これは人間というのは生活をしている中で優先的に大事に思っている事、解決したいと思っている事柄はそんなに多く無い、という事だと思う。一日24時時。処理能力には限界があるわけだし。瓦礫の山を前にして円陣を組んでも、だ。考える事ができる範囲は限られているのだ。ましてやまだ社会経験の少ない若者達だ。目の前の事に一生懸命というと聞こえがいいか。そんな被災地の彼らの叫びにチンポムメンバーが賛同し、内容のレベルを合わせる事で見た目は「被害者が自身の不安を断ち切るための叫び」っぽくなる。

ここでチンポムが仕掛ける。それが問題になっている言葉だ。誰が叫んでいるか特定出来ないが、次々と原発事故系を煽る言葉が発せられる。

この転調は面白い。一般人がしたいこと、気になることが出尽くした後にすっと原発称賛と同義的な発言を入れてきた。これは現実の社会そのものの縮図だ。被害者の若者の叫びと比べて、原発を誘致してきた人達の叫びは何が先に来るのだろうか。実際、この事故があった後に大間原子力発電所の開発は止まっているが、中止にはなっていないし、休止中の開発について

「1日も早くやってもらわないと死んでしまう。観光客が来ない、大間には事業はない。結局、頼りは原発です」(みちのくホテル大間亭 工藤竹美会長)

という声もある。地域の既得権益に甘え、それを維持する事で衰退した地方。地元の若者の小さな夢など関係無く、地元権力者と為政者は自分たちの利益の為に原発を誘致した。それが街が活性化(新しい産業が生まれ、子供が増えて人口増)にならないとわかっているのに。

そんな悪魔の産業ツールに手を出す事は、

放射能万歳!」

と言っている事と同義だと思うのだ。実際、原発事故の可能性云々の前に、原発放射能ゴミが出る事はわかっていたり、その処分がどうなるかもわかっていなかった。

これは別に福島と関係権力者達だけを批判しているのではなく、それらをわかっていながら唯一の被爆国なくせに地方の事として原発問題を切り捨ててきた全国民に対するツケというか、自分たちがやっていた事を目の前に提示されているのだ。

経済発展と首都電力という大義名分の前に、原発が地方に作られる事に無頓着で、それらの恩恵だけを得ようとする。そして実際恩恵を得てきた人達の多さは被害者の比ではない。その恩恵を得てきた人達からすれば、「原発最高!」であり、それは「放射能万歳!」でもあるのだ。放射能被害、放射能ゴミ等の問題に目を向けないで単純に原発電力のみ最高、というの虫が良すぎる話だ。

 

しかし、希望はあった。最後には

「ふざけんな!」

瓦礫の中で自らが当事者として叫んで一致団結するからだ。

うーむー。突如地方に原発が生まれ、生活があり、それが崩壊して。そして再生。原発と社会の時間の流れがこの作品には描かれている。

 

社会の出来事で自分に関係無い事なんて無いんだな。自分も社会に参加している当事者として、何が出来るのかしら。そんな事を再度(何回目だよ)思ったし、人生は細切れの出来事、幸せや苦労の積み重ねだけども、しっかり自分で考えて選択していかないとそれらは一瞬で分断される事もある、という、民主主義の怖さも感じた。

 

というのが私の解釈。